大正7年3月3日読売新聞
○ 常陸丸は奮戦の後 富永船長自殺
■ 乗組員船客も多数落命 積荷全部ウォルフ号に収容
遂に撃沈 ドイツ公報、外務省発表
印度太平洋等を荒らして此の頃ドイツに帰来したる同国補助巡洋艦ウォルフ号に関する同国広報中に曰く,日本郵船常陸丸等は砲火を交えたり、数個の砲弾を同船運転部に落とせリ、同船は勝手にボートを降ろしたる為多数の人命を損ぜり、同船は暫くの間随行船として伴いたるがその積荷全部をウォルフに積み替えた後撃沈せり、同船船長は自殺せりと(スペイン発3月1日外務省着伝)
◆ 邦人船員14名は戦死
◆ 上陸せる乗員よりの電報 日本給仕女他12名無事
船越英国大使館付き武官発3月2日海軍省着電に曰く
ウォルフに捕獲せられし後、デンマーク海岸に頓挫したるスペイン船イグノッディより上陸せる常陸丸乗員がロンドン郵船支店宛電報せるところによれば常陸丸は9月26日ドイツ略奪船の砲撃を受け遂に拿捕せらる、当時敵弾のため船員14名、インド人2名の死者を出だせり、乗客12名(内日本人なし)及び日本給仕女1名はスペイン船に移されて全部無事上陸せり、なお常陸丸はその後11月末日(?)に撃沈せられたり。
◆ 敵手に入りし船長の遺書(おきがき)
◆ 巨額の貨物鹵獲(ろかく・敵の軍用品・兵器などを奪い取ること)
◆ 捕虜の一部は上陸 三浦公使ベルン発
瑞西(スイス)ベルン三浦公使発3月1日外務省着電に曰く2月28日ウォルフ電報中常陸丸に関する部分次の如し。
常陸丸とは短時間戦闘を交ふるのも止む得ざるに至り、数発砲撃の後彼の抵抗は止み、甲板には大混雑起これリ勝手にボートを降ろしたため多数の人命を失い、我が巡洋艦は数百万マルクの値のある同船貨物を鹵獲し、なお暫く同船を連れ歩きし後、スペイン船イグノッメンディを捕獲したるを以って、これを随伴することとし、常陸丸の客室設備を移し、60人の上等船客中女8名小児多人数の準備のをなせり、この後格別のことなくして,欧州の海面に達した時日本船長は自殺したり。遺書によれば、常陸丸の運命及び多人数の人命を失ったことがその原因なり。南欧州の海面にて天候不順ためスペイン船を見失ったものの同船は単独航海して来たり。
風浪のためスカーゲンにて浅瀬に乗り上げ,捕虜は同地に上陸したものあり、捕虜はほとんど1年間ウォルフ号に伴われるもの如し,電文不明なるもスペイン船を捕獲したる後常陸丸は撃沈されたるにあらずやと想像す。
スカーゲンとはデンマークのユトランド半島のスカーゲン岬灯台付近。当時デンマークは中立国で捕虜は保護された。日本給仕女とは今のウエートレスで唯一の日本女性でコペンハーゲン・ロンドン経由で大正7年6月日本に帰国し、日本郵船横浜支店にて6月12日に常陸丸の遺族に遭難時の実況を説明した。船員の壮烈な最期を聞き皆もらい泣きしたという。
欧州各地から急に常陸丸の情報が届き、富永船長の死去に関して推測している。
枝原海軍省副官談
○ 責任を尽くして立派な最後
外務省及び海軍省の発表事実について語る「ドイツ公報中の文言について何等の入電もないがそれはありうべきこと認められる。初め常陸丸は砲火を交えたというがその時無線電信機を破壊されたのではあるまいか、かかる危険の際は船長は必ず無線電信を打つものであるし、その暇もないわけでもないのに今日まで全く消息が絶えていた所を見るとどうしてもそう推測される。それからボートを降ろしたということであるが、これは降伏したという意味である。それになお攻撃したということは実に非人道的な処置と言わねばならぬ。
▲ 憎むべき敵の遁辞
武者小路第二課長談
ドイツが自国の政策上常陸丸が勝手にボートを降ろした結果、多数の人命を失うにといって至ったといって、いかにも常陸丸船長の失態であるように公表しているが、常陸丸船長の遺書に記しているように人事を尽くしてなお自己の立場を明らかにして死去したことは実に堂々たる態度である。結局ドイツが自分側で十分の人命救助等を尽くさない責任を回避して、勝手にボートを降ろした云々といったと思われる。
常陸丸の捜索をした郵船本社の山脇武夫氏談
ドイツの電文中「常陸丸が勝手にボートを降ろしたため多数の人命を損ぜリ」とあるがこれは敵艦の言い訳で勝手にボートを降ろすことはあり得ることではない。ボートに乗せておいて攻撃したと思われる。富永船長は「欧州航路が如何に危険だからといっても会社の方から止められるまで決して自分から航海をしないと言うことはない。あくまでも出港するつもりである。」
第一次大戦が終わり,常陸丸の戦死者の状況がわかるまで、当時郵船の人々は新聞記事のように考えていたのではあるまいか。捕虜として帰還した時の記事は少なく、また、昭和に入ると日本とドイツは同盟国となったため、ますます忘れさられた。郵船の社員の記録はないが印度洋に漂った福神漬の木箱が記憶に残っていて欧州航路のカレーに福神漬が提供していたのを知っていたのだろう。なお常陸丸の死者のうち船客二名ともインド人であった。
新聞に掲載された福神漬の木箱ははっきりと文字もわかり,郵船社員なら状況が理解していた。写真が掲載されてから約2週間後ドイツから公報が入り、捕虜となっていること知り、喜んだり、戦死者が出ていたのを知り悲しんだり、郵船社員の心の動揺は今でも容易に想像できる。
○ 常陸丸は奮戦の後 富永船長自殺
■ 乗組員船客も多数落命 積荷全部ウォルフ号に収容
遂に撃沈 ドイツ公報、外務省発表
印度太平洋等を荒らして此の頃ドイツに帰来したる同国補助巡洋艦ウォルフ号に関する同国広報中に曰く,日本郵船常陸丸等は砲火を交えたり、数個の砲弾を同船運転部に落とせリ、同船は勝手にボートを降ろしたる為多数の人命を損ぜり、同船は暫くの間随行船として伴いたるがその積荷全部をウォルフに積み替えた後撃沈せり、同船船長は自殺せりと(スペイン発3月1日外務省着伝)
◆ 邦人船員14名は戦死
◆ 上陸せる乗員よりの電報 日本給仕女他12名無事
船越英国大使館付き武官発3月2日海軍省着電に曰く
ウォルフに捕獲せられし後、デンマーク海岸に頓挫したるスペイン船イグノッディより上陸せる常陸丸乗員がロンドン郵船支店宛電報せるところによれば常陸丸は9月26日ドイツ略奪船の砲撃を受け遂に拿捕せらる、当時敵弾のため船員14名、インド人2名の死者を出だせり、乗客12名(内日本人なし)及び日本給仕女1名はスペイン船に移されて全部無事上陸せり、なお常陸丸はその後11月末日(?)に撃沈せられたり。
◆ 敵手に入りし船長の遺書(おきがき)
◆ 巨額の貨物鹵獲(ろかく・敵の軍用品・兵器などを奪い取ること)
◆ 捕虜の一部は上陸 三浦公使ベルン発
瑞西(スイス)ベルン三浦公使発3月1日外務省着電に曰く2月28日ウォルフ電報中常陸丸に関する部分次の如し。
常陸丸とは短時間戦闘を交ふるのも止む得ざるに至り、数発砲撃の後彼の抵抗は止み、甲板には大混雑起これリ勝手にボートを降ろしたため多数の人命を失い、我が巡洋艦は数百万マルクの値のある同船貨物を鹵獲し、なお暫く同船を連れ歩きし後、スペイン船イグノッメンディを捕獲したるを以って、これを随伴することとし、常陸丸の客室設備を移し、60人の上等船客中女8名小児多人数の準備のをなせり、この後格別のことなくして,欧州の海面に達した時日本船長は自殺したり。遺書によれば、常陸丸の運命及び多人数の人命を失ったことがその原因なり。南欧州の海面にて天候不順ためスペイン船を見失ったものの同船は単独航海して来たり。
風浪のためスカーゲンにて浅瀬に乗り上げ,捕虜は同地に上陸したものあり、捕虜はほとんど1年間ウォルフ号に伴われるもの如し,電文不明なるもスペイン船を捕獲したる後常陸丸は撃沈されたるにあらずやと想像す。
スカーゲンとはデンマークのユトランド半島のスカーゲン岬灯台付近。当時デンマークは中立国で捕虜は保護された。日本給仕女とは今のウエートレスで唯一の日本女性でコペンハーゲン・ロンドン経由で大正7年6月日本に帰国し、日本郵船横浜支店にて6月12日に常陸丸の遺族に遭難時の実況を説明した。船員の壮烈な最期を聞き皆もらい泣きしたという。
欧州各地から急に常陸丸の情報が届き、富永船長の死去に関して推測している。
枝原海軍省副官談
○ 責任を尽くして立派な最後
外務省及び海軍省の発表事実について語る「ドイツ公報中の文言について何等の入電もないがそれはありうべきこと認められる。初め常陸丸は砲火を交えたというがその時無線電信機を破壊されたのではあるまいか、かかる危険の際は船長は必ず無線電信を打つものであるし、その暇もないわけでもないのに今日まで全く消息が絶えていた所を見るとどうしてもそう推測される。それからボートを降ろしたということであるが、これは降伏したという意味である。それになお攻撃したということは実に非人道的な処置と言わねばならぬ。
▲ 憎むべき敵の遁辞
武者小路第二課長談
ドイツが自国の政策上常陸丸が勝手にボートを降ろした結果、多数の人命を失うにといって至ったといって、いかにも常陸丸船長の失態であるように公表しているが、常陸丸船長の遺書に記しているように人事を尽くしてなお自己の立場を明らかにして死去したことは実に堂々たる態度である。結局ドイツが自分側で十分の人命救助等を尽くさない責任を回避して、勝手にボートを降ろした云々といったと思われる。
常陸丸の捜索をした郵船本社の山脇武夫氏談
ドイツの電文中「常陸丸が勝手にボートを降ろしたため多数の人命を損ぜリ」とあるがこれは敵艦の言い訳で勝手にボートを降ろすことはあり得ることではない。ボートに乗せておいて攻撃したと思われる。富永船長は「欧州航路が如何に危険だからといっても会社の方から止められるまで決して自分から航海をしないと言うことはない。あくまでも出港するつもりである。」
第一次大戦が終わり,常陸丸の戦死者の状況がわかるまで、当時郵船の人々は新聞記事のように考えていたのではあるまいか。捕虜として帰還した時の記事は少なく、また、昭和に入ると日本とドイツは同盟国となったため、ますます忘れさられた。郵船の社員の記録はないが印度洋に漂った福神漬の木箱が記憶に残っていて欧州航路のカレーに福神漬が提供していたのを知っていたのだろう。なお常陸丸の死者のうち船客二名ともインド人であった。
新聞に掲載された福神漬の木箱ははっきりと文字もわかり,郵船社員なら状況が理解していた。写真が掲載されてから約2週間後ドイツから公報が入り、捕虜となっていること知り、喜んだり、戦死者が出ていたのを知り悲しんだり、郵船社員の心の動揺は今でも容易に想像できる。