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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語 58

2010年01月09日 | 福神漬
大正7年3月2日東京朝日新聞
○ 常陸丸船員は捕虜
ウォルフ号に乗船してドイツに現れた形跡 海軍省発表
常陸丸乗員はウォルフに乗船し捕虜としてドイツ国に伴われていること、事実らしくその人命等は英国捕虜係りの手を経て不日判明しうることを期待しつつあり(在英国大使館付武官来電28日海軍省)
▲ 二隻の船に収容さる △撃沈後の常陸丸乗員 
28日上海経由路透社発(ロイター?)
コペンハーゲン来電 スペイン汽船イゴツメンデ乗組員の談に曰く該汽船は7千トンの石炭を搭載し豪州に向かう途中拿捕されしものなり。該船についで敵手の罹りしは英国汽船マタンガにしてその貴重船荷及び船員はドイツ艦ウォルフに移されて艦内にて優遇されたり。こうして独艦一隻汽船二隻は一オランダ諸島に無人島にいたり。マタンガ号の船荷の一部を同島に仕舞置き、最も貴重なる貨物のみウォルフに積込み後マタンガ号を撃沈せり。その後少時にして米船ベルガを撃沈せり。又ついでアジア人を満載せる6千トンの日本郵船常陸丸を撃沈せり。常陸丸内のアジア人等はウォルフ及びイゴツメンデにそれぞれ移乗せしめたり。濠州海岸よりイゴツメンデは北を指し、独艦ウォルフは南を指して航行し居りしと
▲ ドイツ公報に現る
坂田公使報告
ドイツ公報によると常陸丸は過去15ヶ月間印度洋並びに太平洋において行動せるドイツ仮装巡洋艦ウォルフのために撃沈せられたる趣並びに同仮装巡洋艦に捕虜をも搭載し居る由、2月27日当地新聞電報に現われたるベルリンより当国外務省へはまだ回報なき趣につき前記の事項並びに乗組員の情報等電報を持って問い合わせ方皿に西国外務省へ依頼している。(在スペイン坂田公使発3月1日外務省着電)


海の墓標 三輪祐児著
戦時下に喪われた日本の商船
第二次大戦において日本の戦没商船2,568隻、六万数千人の船員が海の藻屑と消えた。武器、弾薬、食糧が届かず、最前線の数十万の将兵が南の島々で飢え死にしました。
日本の商船は明治初期の台湾派兵の輸送と,西南の役に軍と船会社の関係が出来た。その関係は平和な時代は旅客や物資を輸送し、外国と通商し、戦争になった時,軍の「御用船」となる日本商船の運命の始まりであった。
 二代常陸丸は厳密に言うと「御用船」ではなかったかもしれないが初代常陸丸と同じ運命をたどった。
 近代の戦争は物資を大量に輸送する船舶を攻撃し、その軍隊の攻撃力を削ぐことだった。日露戦争の常陸丸の撃沈もロシアの大陸へ兵員物資を輸送する日本商船を攻撃した。第一次大戦の常陸丸の撃沈も第二次大戦の日本商船への攻撃も同様な通商破壊戦争であった。撃沈された商船の物資が届かず、軍艦で物資の輸送をせざるを得ず、ますます商船隊の警備が不足となり攻撃撃沈され、更に物資不足となっていった。戦後の統計によると日本軍人の餓死・戦病死した者が非常に多い。
 印度洋の常陸丸は軍の護衛もなく、後に捜索をした筑前丸は護衛があった。しかし、第一次大戦で210名の死者を出した平野丸は護衛があったにもかかわらず撃沈された。実に第一次大戦で日本の商船は33隻失った。特にイギリスは商船4000隻を失い覇権をアメリカに譲った。常陸丸の出航は会社にとっても家族にとっても悲壮感がでる談話となっている。

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