南千住の円通寺と一葉記念館
日比谷線三ノ輪駅で降りて円通寺に向かう。晩秋の境内はイチョウの落ち葉が敷き詰められていて黄色くなっていた。中に入ると上野寛永寺にあった黒門がいやでも目に付く。金網で囲まれた墓地に上野戦争の死者が埋葬されている。心ない観光客が墓地の破壊したため金網で覆われているという。運良く入口が開いていたので中に入ると天野八郎と三河屋幸三郎の碑がほぼ同じ大きさであった。荒川区の文化財の文には寛永寺の御用商人三河屋幸三郎のことは書いてあった。何の御用をしていたのだろうか。
帰りに台東区中央図書館まで歩く。途中一葉記念館による。福神漬の歴史には樋口一葉はまるで関係はない。池之端と浅草は近所で時代も重なるのだが一葉が貧しかったせいか文献は何もない。しかし彼女の人生をたどるとこの明治中頃に女性が自立すると言うことが如何に難しいことがわかる。まともな生き方では髪結いしかなかった時代なのだから。
旧幕府 合本 戸川残花編
第九号 明治30年12月20日発行
沢太郎左衛門演述
三河屋幸三郎の伝
彰義隊の隊士の死体が放置され、鳥獣の餌となり霊魂の行くところもないのを憂いて官軍に願って、遺骸を円通寺に納めたのはこの人である。東軍のために兵器を貯蔵し義徒を匿い、ついに西軍の知るところになり、危なく家宅に入られようとしたが見事に追い払ったのもこの人である。
幕府創立以来250年来、録を受けて恩義があるのに関わらず三河武士の面目を失いただ自身の身の上を心配して様子から一市井の商売人でありながらこの有様を見て憤慨し身命財産を掛けて徳川家の犠牲に供しようとしたのが三河屋幸三郎である。
この人の資料も少なく侠客と言う人もあれば義人ともいう人もある。明治以後横浜で『根付』などを扱う美術貿易商みたいなことをしていたようで彫刻家高村光雲の思い出の文に出てきます。
琳琅閣書店
内田魯庵の『下谷広小路』に了応禅師が造った不忍経堂という図書館があったことと東叡山で学ぶ学僧のためか、池之端周辺には江戸時代から本を扱う店が集まっていた。
明治になって錦袋円という薬を販売していた勧学屋が販売不振となり、仲町11番地に店舗があった守田宝丹が買収した後、初代の琳琅閣書店主人が仲町22番地の勧学屋の店舗を守田から買ったという。
『紙魚の昔がたり 明治大正編 反町茂雄著』140頁
江戸名所図会にも出ているくらいの家で間口6間奥行き5間のある土蔵つくりの大きな家で書物だけでなく古道具・書画・骨董も置いてあったので、毎日のように来る顧客の情報交換や品定めの会のような雰囲気となって『琳琅閣講中』と言われていたようです。
内田魯庵は了応禅師の造った勧学屋の店舗の跡地を買収した初代琳琅閣書店主人がバイブルの本を販売していたので面白いと書いてありました。琳琅閣書店のホームページによると1891(明治24)年、東京の神田駿河台にニコライ堂が建築され、その関係の書籍を販売していたからという。
日比谷線三ノ輪駅で降りて円通寺に向かう。晩秋の境内はイチョウの落ち葉が敷き詰められていて黄色くなっていた。中に入ると上野寛永寺にあった黒門がいやでも目に付く。金網で囲まれた墓地に上野戦争の死者が埋葬されている。心ない観光客が墓地の破壊したため金網で覆われているという。運良く入口が開いていたので中に入ると天野八郎と三河屋幸三郎の碑がほぼ同じ大きさであった。荒川区の文化財の文には寛永寺の御用商人三河屋幸三郎のことは書いてあった。何の御用をしていたのだろうか。
帰りに台東区中央図書館まで歩く。途中一葉記念館による。福神漬の歴史には樋口一葉はまるで関係はない。池之端と浅草は近所で時代も重なるのだが一葉が貧しかったせいか文献は何もない。しかし彼女の人生をたどるとこの明治中頃に女性が自立すると言うことが如何に難しいことがわかる。まともな生き方では髪結いしかなかった時代なのだから。
旧幕府 合本 戸川残花編
第九号 明治30年12月20日発行
沢太郎左衛門演述
三河屋幸三郎の伝
彰義隊の隊士の死体が放置され、鳥獣の餌となり霊魂の行くところもないのを憂いて官軍に願って、遺骸を円通寺に納めたのはこの人である。東軍のために兵器を貯蔵し義徒を匿い、ついに西軍の知るところになり、危なく家宅に入られようとしたが見事に追い払ったのもこの人である。
幕府創立以来250年来、録を受けて恩義があるのに関わらず三河武士の面目を失いただ自身の身の上を心配して様子から一市井の商売人でありながらこの有様を見て憤慨し身命財産を掛けて徳川家の犠牲に供しようとしたのが三河屋幸三郎である。
この人の資料も少なく侠客と言う人もあれば義人ともいう人もある。明治以後横浜で『根付』などを扱う美術貿易商みたいなことをしていたようで彫刻家高村光雲の思い出の文に出てきます。
琳琅閣書店
内田魯庵の『下谷広小路』に了応禅師が造った不忍経堂という図書館があったことと東叡山で学ぶ学僧のためか、池之端周辺には江戸時代から本を扱う店が集まっていた。
明治になって錦袋円という薬を販売していた勧学屋が販売不振となり、仲町11番地に店舗があった守田宝丹が買収した後、初代の琳琅閣書店主人が仲町22番地の勧学屋の店舗を守田から買ったという。
『紙魚の昔がたり 明治大正編 反町茂雄著』140頁
江戸名所図会にも出ているくらいの家で間口6間奥行き5間のある土蔵つくりの大きな家で書物だけでなく古道具・書画・骨董も置いてあったので、毎日のように来る顧客の情報交換や品定めの会のような雰囲気となって『琳琅閣講中』と言われていたようです。
内田魯庵は了応禅師の造った勧学屋の店舗の跡地を買収した初代琳琅閣書店主人がバイブルの本を販売していたので面白いと書いてありました。琳琅閣書店のホームページによると1891(明治24)年、東京の神田駿河台にニコライ堂が建築され、その関係の書籍を販売していたからという。