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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語 75野村文夫

2010年01月26日 | 福神漬
野村文夫
芸備先哲伝 玉井源作著より
野村文夫
名は樞、通称は文機、後に文夫と改めた。雨壮と号し、簾雨または秋野人という別の号がある。代々芸藩(広島県)の医者の家系である。安政二年九月大阪に上り、緒方洪庵につき、蘭学を学び、大いに西洋の学問を納める必要を感じた。二十歳の時だった。藩もまた有用の人材と認めて、航海学の修行を命じ、また汽船の購入のことで長崎に派遣する。志が開国になっていたので、慶應元年長崎滞在中、西洋のことを知ろうと望み、百聞は一見にしかずと考え佐賀藩士二名と相携えて英国に脱走する。これは(当時の)国法で禁止していた行為だったので彼の兄野村精大(芸藩医者)は驚き、(芸藩)執政辻維岳を訪ねて事情を説明した。執政の寛大な処置でこれを不問いにした。明治元年日本に帰る。藩はすすんで洋学教授を命じ、俸給を二十人扶持とし、藩の席次を供頭添役次席とした。明治3年東京に上る。民部省に出仕し、工部省を経て、内務省五等出仕となり、従六位に叙せれる。明治10年官吏を退職する。
 この時より在野の人となり、東京自宅において雑誌を発刊する。これを團團珍聞という。時事を風刺した文や絵で記事を書き、すこぶる世間の注目をあびた。その他著述も多い。その後政党が盛んになると立憲改進党に入り、すこぶる力を発揮した。特に芸備両国(広島・岡山)において目立った。後に国粋主義を唱え、明治22年広島の政友会のために大いに奔走し、その領袖となった。明治24年10月27日没す。享年56歳東京染井墓地に葬る。

広島県の人物辞典なので綺麗に経歴が書かれている。東京神田雉子町の團團珍聞社は野村の自宅と書いてあった。ここに色々な人物が集まってくる。團珍の初期の主筆は梅亭金鵞である。梅亭に福神漬が命名されたのは明治10年代終わりの頃となる。
『団団珍聞・まるまるちんぶん』『驥尾団子・きびだんご』がゆく 木本至著より
野村文夫の経歴は明治10年頃の團團新聞の創刊の頃から後半の人生となる。
 明治政府が安定して来ると芸藩(広島)出身の野村は英国で知った出版文化のほうに目が向いていった。
 新聞を発行する企画を立てたが、読者の興味をさそう文章を書く作家が見つからなかった。そこで当時出版されていた寄笑新聞に注目した。寄笑新聞こそ梅亭金鵞が主筆であった。梅亭金鵞を迎え団団珍聞は明治10年西南戦争の頃に始まった。政治を漫画風にして批判するような新聞(今の感覚だと雑誌)を発行し、間もなく34万部も出るようになった。明治16年頃から根岸に住んでいた長井総太郎(鴬亭金升)の投書が團珍に載るようになった。梅亭が弟子を派遣して長井を團團新聞社に入社するようにすすめた。17歳の鶯亭金升が誕生した。
近代日本マンガの始まり
神奈(仮名)垣魯文・河鍋暁斎が明治7年に発行した滑稽諷刺雑誌「絵新開日本地」から近代日本の漫画文化が始まった。当時流行語となっていた「ポンチ」を誌名に入れ、『ジャパン・パンチ』をまねようとした。しかこの雑誌は人気雑誌とならず、はたした役割は、明治8年の戯画入り雑誌『寄笑(きしょう)新聞』 橋爪錦造(梅亭金鵞)・月岡芳年の創刊を促し、明治10年の時局風刺雑誌『団団珍聞(まるまるちんぶん)』 となってゆく。
 福神漬の命名者梅亭金鵞がこの編集者の時でもあった。それにしても『寄笑新聞』全11巻の内10巻を収集した長野県上田の飯島花月という人の先見性を感じる。
 ふざけた遊びが好きだった梅亭金鵞の周辺の人達は七福神を漬物の福神漬に見立てたとき、(なたまめ)は何に見立てたのだろうか。
不平将軍
不平将軍と言う言葉あった。明治期の軍人の中には、新政府の政策に反対するが故に<不平>将軍と呼ばれた人々がいた。
 彼等の中には自らの政治的意見を発表する手段のために、新聞の後援を行った人々もいた。陸羯南が明治22年に発行する新聞日本の後援者の中にはこうした<不平将軍>連もいたのである。前年末の会合時に団団珍聞と言う風刺新聞を発行していた野村文夫が参加している。この野村の参加で新聞『日本』の発行所が神田雉子町32となる。団団社の軒先を借りて発行する事となった。団団珍聞には福神漬を命名した梅亭金鵞が参加しているので『日本』の人たちは福神漬を食べていた可能性がある。梅亭金鵞(明治26年死去)なお正岡子規のかかりつけの医者は神田雉子町の医者だったと言う。

福神漬の周囲は反明治政府・反薩長の人たちと親江戸派の人たちが集まっている。ただ梅亭金鵞は明治22年2月13日に倒れたので新聞日本社の人達とは縁がなかったかもしれない。

浅野長勲(あさのながこと)
日本初の洋紙メーカーは、明治5年(1872)年、東京・日本橋蠣殻町で創業した「有恒社」です(操業開始は明治7年)。有恒社は広島藩の最後の藩主・浅野長勲が大蔵省雇いの外国人技術者から製紙法を聞いて設立しました。
 明治10年西南戦争が始まると過熱した新聞報道によって新聞読者が増え、滞貨していた洋紙が順調に売れるようになりましました。明治22年2月11日に憲法が発布された日に新聞「日本」が創刊されました。主な資金は浅野長勲から出たといわれています。浅野長勲と芸藩(今の広島県出身)の野村文夫(團團珍聞社主)の関係は元主従関係と洋紙の得意先であったかもしれません。日本新聞が神田雉子町32に本社社屋を構えたのは社屋購入で團珍社(神田雉子町31)を資金援助したといわれます
 明治初期には新聞を拡大する販売政策を国がとっていました。日本で新聞の普及は文字を読める読者が江戸東京に多かったこと新時代の活字・洋紙が銀座近辺でそろいました。明治10年発行の團團珍聞は新聞弾圧を避けるため伏字(○○)を利用するなど、新聞雑誌等の発酵禁止を避けるため、あらゆる報道の可能性が試された時期でもあった。また新聞社も読者の拡大を目指し、「絵入り・振り仮名つき」など工夫をして漢字の読めない人でも記事の内容が理解できるようにしていました。
 福神漬の命名者梅亭金鵞は武家出身ですが戯作の道に入り、明治になって新聞の主筆になった人です。生活のために引き札(広告文)も作成していました。

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