神戸大学電子図書館で新聞記事文庫を検索する。『日本郵船』『福神漬』と入れて検索する。直ぐに常陸丸の事件が出てくる。さらに『常陸丸』『日本郵船』と入れるとか海上保険の記事として出てくる。
常陸丸事件の記事分類は海上保険の問題の切抜きであった。当然のことながら当時は日本郵船・東京海上保険・日本政府間の保険請求の問題でもあった。
第一次大戦が始まると海上保険の引受人が少なくなり保険料率も高騰の兆しが見えた。日本政府は大正3年に地中海地域を想定し輸出貨物に戦時海上保険保障法を制定した。戦局の拡大に伴い大正6年7月に戦時海上再保険法を制定した。日本郵船の常陸丸が出航したのはこの法律が制定された後であった。
第一次大戦でイギリスの商船隊は打撃を受け、比較的戦場から遠かった日本の海運業者は政府保証による保険で海運業が発展した。
結果として第一次大戦の政府保証による海上保険制度は保険金収入が損害した船や貨物に支払った保険金を上回った。このことから大正6年に日本にあった海上保険会社は20社であったのが第一次大戦終結後の大正9年には39社となり保険料率が下がり保険会社各社の収益が減ったと言う。その新規の保険会社で有力な会社は三井の大正海上と三菱の三菱海上であった。
大正7年9月の三菱海上保険の発起認可申請書によると、三菱合資が持ち株会社に移行することによって自保険を取り扱うことは保険業法上疑問があったということと東京海上保険が三菱に対しての保険料率の値引きが無く、三菱グループ各社の不満がたまっていた。さらに三井が大正海上保険を発足したことが原因であると言う。明治から大正の初め東京海上は三菱系と見られていて海上保険業のリーディンッグカンパニーだったが三菱合資から独立した各企業には保険料率に不満があったという。東京海上火災保険株式会社60年史より
東京海上火災保険株式会社60年史は先の大戦直前に発刊された本で戦後の100年史や125年史より戦時海上保険の状況が詳しく記述してある。それほど社史の中では重要であったと言うことでもある。戦争で亡くなるのは軍人だけでなく物資を運搬する商船も近代戦争では攻撃の対象となった。常陸丸の船長もその一人である。
大正の戦時海上再保険
第一次大戦が始まると保険業者の自己負担率20%も保険金額の増加によって日本の業者の資力の不足によって、ロンドンに再保険することとなるのだがイギリスはドイツと戦争状態なのにかかわらず保険料率はロンドン市場に左右されるので非常に不便であった。
日本政府は大正6年7月20日・9月20日に戦時海上再保険法を制定し日本船籍および日本から輸出する貨物を再保険することとし、日本代理店は船舶95%貨物90%、外国代理店は85%として再保険を引き受けることとした。第一次大戦の日本政府が引き受けた海上再保険総額の60%が東京海上保険だったという。
損害額の中で最大の損害金の発生は日本郵船の常陸丸で損害額834万円、保険金664万円となっている。宮崎丸保険金557万円・八坂丸376万円となっている。なお日本郵船の第一次大戦の戦時海上再保険総額2772万円(損害保険金)だったので日本郵船三隻の保険金で全体の63%を占めることとなる。従って日本郵船にとっては常陸丸が損害保険金をもらえるかどうかが経営上の大問題となっていたのである。
日本郵船の海上保険担当関係者は福神漬を食べるたびインド洋の常陸丸事件の思い出が語られたのだろうか。
東京海上保険株式会社60年史
神戸大学新聞記事文庫 海上保険より
『行方不明となった常陸丸は戦時保険を付けているがもしこのままに行方不明の原因判明しない場合保険関係は如何になるべきかに研究を要すべき問題である。従来行方不明となった場合には三ヶ月を経過した後に普通保険を支払い同時に戦時危険に由ること判明したる場合には之により保険金を支払うべき契約をするのが普通である。もし行方不明の原因判明しない時はかりに戦時危険によって沈没或は撃沈されたとする。その証明或は証拠のない限り之を認定する材料なきを以て政府は勿論戦時保険法を適用せず保験会社もまた普通海難として取り扱うほかないといえる。こうして若しかりに行方不明の原因永久に判明せず周囲の事情より推測して政府もこれを戦時保険と認められないとすれば保険会社は普通海難として保険金を支払うべきこととなる。荷主は大部分戦時普通両者の保険をつけているので何れにしても大なる相違なけれど保険会社より補償さるべき8割を得ることができないため其の損害はかえって大きい損害を免れず又船主たる日本郵船は海難等の普通保険は自社保険に付けてあるため全損に終るだろう。されば同社は此の際極力行方不明の原因を捜索して戦時危険によるものであることを証明するしかないと言える。右につき片山戦時保険局長は次のように語った。
我が船舶にて地中海其の他において行方不明となったものは松昌洋行の千寿丸を始めとし実例乏しからずといえども保険関係に於て戦時補償法の問題を起こしたものは今回の常陸丸を以て初めてとする。戦争に基因せる故障により沈没せること明瞭とならば政府は東京海上保険会社外一社が常陸丸船体及び荷物に対して契約せる保険金の八割の補償をすること当然のことだが、今日の行方不明の状態が継続し且つ遭難の原因を知るに方法がないとすればここに保険補償法上の新問題を起こす次第である。遭難の原因が戦争上の事故であるかないかを証明する責任は補助(保険?)請求者(日本郵船)で従って今回の行方不明のものに対して日本政府はこれが補償をするべきでない。 』 大阪朝日新聞 1917.10.27(大正6)
上記の原因を調査するため日本郵船はインド洋に調査隊を派遣したのである。他の新聞記事からも日本政府・東京海上・日本郵船の間に色々な保険上の問題が生じていたのである。この新聞記事はまだ遭難してから間もない時期なので後の展開を想定していなかった。福神漬の木箱の残骸を調査隊がインド洋で発見した状況はこのような事情のもとであった。
途中経過は忘れるもので
結果がわかっている歴史では途中経過の様子が当事者以外は忘れ去るものである。大正の常陸丸も日露戦争の常陸丸の事件で忘れ去られ、第一次大戦後日本はドイツと友好関係になったためさらに事件の悲劇性を忘れさせられた。
インド洋で常陸丸が行くえ不明になってから3ヵ月後,新聞の記事内容は戦時海上保険金の裁判が必至であると書いていた。そして大正7年2月、インド洋から常陸丸の捜索船が日本に帰ってきた。そこには池之端・登録商標・福神漬と焼印のある木箱と練乳木箱(明治屋の焼印)が見つかった。
この証拠物件だけでは日本政府は戦時遭難とみなすことはできないと戦時保障法における保証金支払いを拒絶していた。
遭難が認められても
大正7年3月にはいると常陸丸の遭難のくわしい状況がイギリス・ドイツから情報が入ってきた。常陸丸の保険は船体には東京海上保険、積荷は各保険会社だった。英国海軍の公報だけではまだ日本政府は戦時補償金を払わないと言う態度をとっていた。
最終的には日本郵船は戦時補償金を得たのだが一時は当事者間の行政訴訟も予定していたくらい緊迫していた。
酒悦福神漬の木箱や明治屋の焼印のある練乳の木箱がインド洋で発見した時、日本郵船の社員はどんな思いであったろうか。当時の新聞紙上では保険金の問題と捉えていて会社の経営問題と見ていたような気がする。
東京海上保険 125年史より
明治12年、国の鉄道払い下げを見込んで集めた華族の資本60万円の転用を渋沢栄一等の発案で日本での海上保険の業務をおこなう本格的な株式会社ができた。この会社の株式の人気がよく三菱は株数を減らされ20%の持ち株となった。東京海上保険は政府の保護を受けて設立初期はリスクの少ない貨物保険であったが保険料率計算に精通している人材がなく、後に経営問題となった時、政府の手厚い援助を受けた。
設立時東京海上保険は三菱系と見られていたが東京海上の日本代表の保険会社という自負により、三菱の物件と他の物件も同一引き受け条件であった。三菱合資には不満がたまっていて第一次大戦末期三菱海上保険が大正7年に発足した。三菱海上保険は発足後数年で日本郵船関係の保険を奪取した。1920年頃から東京海上の増収率がマイナスとなり、1922年(大正11年)には17年(大正6年)の三分の一まで三菱関係の保険扱高まで減少した。同じ期間に日本全体の保険は40%増えているので東京海上は大打撃となっていた。日本郵船にとって見れば東京海上が安く保険を受け負わなかったので当然の行動でもあった。
この危機を打開するため東京海上の各務謙吉氏は三菱合資の末延道成と談判し、東京海上保険は三菱海上保険を系列化し、東京海上は三菱系から三菱色の強い会社となった。
日本郵船の保険取扱い高が減ったのは、常陸丸の遭難の件のしこりが広く郵船一般社員にも知れ渡っていて、表向きは東京海上保険より安い三菱海上を得意先に薦めたのだが急速に減ったのは福神漬を食べるたびに事件を思い出していたと思われないか。
常陸丸事件の記事分類は海上保険の問題の切抜きであった。当然のことながら当時は日本郵船・東京海上保険・日本政府間の保険請求の問題でもあった。
第一次大戦が始まると海上保険の引受人が少なくなり保険料率も高騰の兆しが見えた。日本政府は大正3年に地中海地域を想定し輸出貨物に戦時海上保険保障法を制定した。戦局の拡大に伴い大正6年7月に戦時海上再保険法を制定した。日本郵船の常陸丸が出航したのはこの法律が制定された後であった。
第一次大戦でイギリスの商船隊は打撃を受け、比較的戦場から遠かった日本の海運業者は政府保証による保険で海運業が発展した。
結果として第一次大戦の政府保証による海上保険制度は保険金収入が損害した船や貨物に支払った保険金を上回った。このことから大正6年に日本にあった海上保険会社は20社であったのが第一次大戦終結後の大正9年には39社となり保険料率が下がり保険会社各社の収益が減ったと言う。その新規の保険会社で有力な会社は三井の大正海上と三菱の三菱海上であった。
大正7年9月の三菱海上保険の発起認可申請書によると、三菱合資が持ち株会社に移行することによって自保険を取り扱うことは保険業法上疑問があったということと東京海上保険が三菱に対しての保険料率の値引きが無く、三菱グループ各社の不満がたまっていた。さらに三井が大正海上保険を発足したことが原因であると言う。明治から大正の初め東京海上は三菱系と見られていて海上保険業のリーディンッグカンパニーだったが三菱合資から独立した各企業には保険料率に不満があったという。東京海上火災保険株式会社60年史より
東京海上火災保険株式会社60年史は先の大戦直前に発刊された本で戦後の100年史や125年史より戦時海上保険の状況が詳しく記述してある。それほど社史の中では重要であったと言うことでもある。戦争で亡くなるのは軍人だけでなく物資を運搬する商船も近代戦争では攻撃の対象となった。常陸丸の船長もその一人である。
大正の戦時海上再保険
第一次大戦が始まると保険業者の自己負担率20%も保険金額の増加によって日本の業者の資力の不足によって、ロンドンに再保険することとなるのだがイギリスはドイツと戦争状態なのにかかわらず保険料率はロンドン市場に左右されるので非常に不便であった。
日本政府は大正6年7月20日・9月20日に戦時海上再保険法を制定し日本船籍および日本から輸出する貨物を再保険することとし、日本代理店は船舶95%貨物90%、外国代理店は85%として再保険を引き受けることとした。第一次大戦の日本政府が引き受けた海上再保険総額の60%が東京海上保険だったという。
損害額の中で最大の損害金の発生は日本郵船の常陸丸で損害額834万円、保険金664万円となっている。宮崎丸保険金557万円・八坂丸376万円となっている。なお日本郵船の第一次大戦の戦時海上再保険総額2772万円(損害保険金)だったので日本郵船三隻の保険金で全体の63%を占めることとなる。従って日本郵船にとっては常陸丸が損害保険金をもらえるかどうかが経営上の大問題となっていたのである。
日本郵船の海上保険担当関係者は福神漬を食べるたびインド洋の常陸丸事件の思い出が語られたのだろうか。
東京海上保険株式会社60年史
神戸大学新聞記事文庫 海上保険より
『行方不明となった常陸丸は戦時保険を付けているがもしこのままに行方不明の原因判明しない場合保険関係は如何になるべきかに研究を要すべき問題である。従来行方不明となった場合には三ヶ月を経過した後に普通保険を支払い同時に戦時危険に由ること判明したる場合には之により保険金を支払うべき契約をするのが普通である。もし行方不明の原因判明しない時はかりに戦時危険によって沈没或は撃沈されたとする。その証明或は証拠のない限り之を認定する材料なきを以て政府は勿論戦時保険法を適用せず保験会社もまた普通海難として取り扱うほかないといえる。こうして若しかりに行方不明の原因永久に判明せず周囲の事情より推測して政府もこれを戦時保険と認められないとすれば保険会社は普通海難として保険金を支払うべきこととなる。荷主は大部分戦時普通両者の保険をつけているので何れにしても大なる相違なけれど保険会社より補償さるべき8割を得ることができないため其の損害はかえって大きい損害を免れず又船主たる日本郵船は海難等の普通保険は自社保険に付けてあるため全損に終るだろう。されば同社は此の際極力行方不明の原因を捜索して戦時危険によるものであることを証明するしかないと言える。右につき片山戦時保険局長は次のように語った。
我が船舶にて地中海其の他において行方不明となったものは松昌洋行の千寿丸を始めとし実例乏しからずといえども保険関係に於て戦時補償法の問題を起こしたものは今回の常陸丸を以て初めてとする。戦争に基因せる故障により沈没せること明瞭とならば政府は東京海上保険会社外一社が常陸丸船体及び荷物に対して契約せる保険金の八割の補償をすること当然のことだが、今日の行方不明の状態が継続し且つ遭難の原因を知るに方法がないとすればここに保険補償法上の新問題を起こす次第である。遭難の原因が戦争上の事故であるかないかを証明する責任は補助(保険?)請求者(日本郵船)で従って今回の行方不明のものに対して日本政府はこれが補償をするべきでない。 』 大阪朝日新聞 1917.10.27(大正6)
上記の原因を調査するため日本郵船はインド洋に調査隊を派遣したのである。他の新聞記事からも日本政府・東京海上・日本郵船の間に色々な保険上の問題が生じていたのである。この新聞記事はまだ遭難してから間もない時期なので後の展開を想定していなかった。福神漬の木箱の残骸を調査隊がインド洋で発見した状況はこのような事情のもとであった。
途中経過は忘れるもので
結果がわかっている歴史では途中経過の様子が当事者以外は忘れ去るものである。大正の常陸丸も日露戦争の常陸丸の事件で忘れ去られ、第一次大戦後日本はドイツと友好関係になったためさらに事件の悲劇性を忘れさせられた。
インド洋で常陸丸が行くえ不明になってから3ヵ月後,新聞の記事内容は戦時海上保険金の裁判が必至であると書いていた。そして大正7年2月、インド洋から常陸丸の捜索船が日本に帰ってきた。そこには池之端・登録商標・福神漬と焼印のある木箱と練乳木箱(明治屋の焼印)が見つかった。
この証拠物件だけでは日本政府は戦時遭難とみなすことはできないと戦時保障法における保証金支払いを拒絶していた。
遭難が認められても
大正7年3月にはいると常陸丸の遭難のくわしい状況がイギリス・ドイツから情報が入ってきた。常陸丸の保険は船体には東京海上保険、積荷は各保険会社だった。英国海軍の公報だけではまだ日本政府は戦時補償金を払わないと言う態度をとっていた。
最終的には日本郵船は戦時補償金を得たのだが一時は当事者間の行政訴訟も予定していたくらい緊迫していた。
酒悦福神漬の木箱や明治屋の焼印のある練乳の木箱がインド洋で発見した時、日本郵船の社員はどんな思いであったろうか。当時の新聞紙上では保険金の問題と捉えていて会社の経営問題と見ていたような気がする。
東京海上保険 125年史より
明治12年、国の鉄道払い下げを見込んで集めた華族の資本60万円の転用を渋沢栄一等の発案で日本での海上保険の業務をおこなう本格的な株式会社ができた。この会社の株式の人気がよく三菱は株数を減らされ20%の持ち株となった。東京海上保険は政府の保護を受けて設立初期はリスクの少ない貨物保険であったが保険料率計算に精通している人材がなく、後に経営問題となった時、政府の手厚い援助を受けた。
設立時東京海上保険は三菱系と見られていたが東京海上の日本代表の保険会社という自負により、三菱の物件と他の物件も同一引き受け条件であった。三菱合資には不満がたまっていて第一次大戦末期三菱海上保険が大正7年に発足した。三菱海上保険は発足後数年で日本郵船関係の保険を奪取した。1920年頃から東京海上の増収率がマイナスとなり、1922年(大正11年)には17年(大正6年)の三分の一まで三菱関係の保険扱高まで減少した。同じ期間に日本全体の保険は40%増えているので東京海上は大打撃となっていた。日本郵船にとって見れば東京海上が安く保険を受け負わなかったので当然の行動でもあった。
この危機を打開するため東京海上の各務謙吉氏は三菱合資の末延道成と談判し、東京海上保険は三菱海上保険を系列化し、東京海上は三菱系から三菱色の強い会社となった。
日本郵船の保険取扱い高が減ったのは、常陸丸の遭難の件のしこりが広く郵船一般社員にも知れ渡っていて、表向きは東京海上保険より安い三菱海上を得意先に薦めたのだが急速に減ったのは福神漬を食べるたびに事件を思い出していたと思われないか。