印度洋の常陸丸
著者の長谷川伸は一般に大衆小説や新国劇の劇作家として知られていたが,彼がどうして『印度洋の常陸丸』を書いたのだろうか?
長谷川伸は横浜市日の出町生まれで、生活のためドック(造船所)で小僧生活を送り、職を転々とし新聞記者(都新聞・今の東京新聞)となったのち、作家となった。
戦時中、従軍記者となって南方を回る。昭和31年『日本捕虜志』で第4回菊池寛賞を受賞。この本を知り合いに贈ったところ、日本郵船の常陸丸の話が出て取材が始まったという。
2代目常陸丸遭難の話は忘れられていたのである。戦争前は捕虜の話をすることは好まれない時代であった。生きて虜囚の辱を受けずという言葉の時代であった。
長谷川の『印度洋の常陸丸』もドイツの仮装巡洋艦の攻撃を受けて、捕虜になってからの話が中心となっている。
カレーライスと福神漬の話題がなぜ日本郵船の話となるのでしょうか。長谷川伸全集第9巻 朝日新聞刊 村上元三氏の解説によると昭和37年の時点で日本郵船の社員でも常陸丸の悲劇の話は知っていても日露戦争の時の話で第一次大戦の話は知っている人も皆無といって良かった。この『印度洋の常陸丸』が上梓されたとき、日本郵船でまとめて購入し社員に読ませたという。雑誌に連載された時はあまり反応がなかったが、出版され新聞等に紹介されてから評判となったという。
三菱の長崎造船所で1898(明治31)年には国産初の近代的大型貨客船「常陸丸」も竣工しました。「常陸丸」は日本郵船欧州航路開設時に発注された大型船6隻の中の一隻で、他の5隻はイギリスで建造されました。日露戦争の折、陸軍御用船となり兵員輸送中に玄界灘でロシア艦隊に砲撃され沈没してしまいました。九段の靖国神社入り口付近には初代常陸丸の殉難記念碑があります。
この様な意味では『常陸丸』という名は三菱グループには記念すべき船であった。明治政府の御用を受け戦時に事業を拡大していった三菱には必然的に受ける損害でもあった。
著者の長谷川伸は一般に大衆小説や新国劇の劇作家として知られていたが,彼がどうして『印度洋の常陸丸』を書いたのだろうか?
長谷川伸は横浜市日の出町生まれで、生活のためドック(造船所)で小僧生活を送り、職を転々とし新聞記者(都新聞・今の東京新聞)となったのち、作家となった。
戦時中、従軍記者となって南方を回る。昭和31年『日本捕虜志』で第4回菊池寛賞を受賞。この本を知り合いに贈ったところ、日本郵船の常陸丸の話が出て取材が始まったという。
2代目常陸丸遭難の話は忘れられていたのである。戦争前は捕虜の話をすることは好まれない時代であった。生きて虜囚の辱を受けずという言葉の時代であった。
長谷川の『印度洋の常陸丸』もドイツの仮装巡洋艦の攻撃を受けて、捕虜になってからの話が中心となっている。
カレーライスと福神漬の話題がなぜ日本郵船の話となるのでしょうか。長谷川伸全集第9巻 朝日新聞刊 村上元三氏の解説によると昭和37年の時点で日本郵船の社員でも常陸丸の悲劇の話は知っていても日露戦争の時の話で第一次大戦の話は知っている人も皆無といって良かった。この『印度洋の常陸丸』が上梓されたとき、日本郵船でまとめて購入し社員に読ませたという。雑誌に連載された時はあまり反応がなかったが、出版され新聞等に紹介されてから評判となったという。
三菱の長崎造船所で1898(明治31)年には国産初の近代的大型貨客船「常陸丸」も竣工しました。「常陸丸」は日本郵船欧州航路開設時に発注された大型船6隻の中の一隻で、他の5隻はイギリスで建造されました。日露戦争の折、陸軍御用船となり兵員輸送中に玄界灘でロシア艦隊に砲撃され沈没してしまいました。九段の靖国神社入り口付近には初代常陸丸の殉難記念碑があります。
この様な意味では『常陸丸』という名は三菱グループには記念すべき船であった。明治政府の御用を受け戦時に事業を拡大していった三菱には必然的に受ける損害でもあった。