福神漬の歴史を調べているうちに日露戦争後の不良債権の処理問題において渋沢栄一・郷誠之助・中野武営等により帝国商業銀行の破綻させず、減資という手段によって金融市場の混乱を避けた。この帝国商業銀行は日本銀行総裁川田小一郎と原六郎等によって設立された株式取引所の取引員のための機関銀行として設立された。後に馬越恭平・浅田正文が支配人となっている。日本の株式市場は江戸時代からの株仲間から発達し結構世界的に見ても発達していたという。明治の株式市場は当時から投機的バクチ場として見られたようである。
男爵郷誠之助君伝から
郷誠之助は渋沢栄一死去後の第一次大戦後から戦前にかけて日本財界のリーダーとなった人ですが帝国商業銀行の再建や日本醤油醸造の処理には失敗した。のちに「財界世話業」と呼ばれた郷誠之助は色々な業績不振な会社を再建しました。
明治41年渋沢栄一や中野武榮の推薦により整理のために帝国商業銀行の会長に就任した。帝商は一般の銀行と違って投機性の強い株式仲買人の金融をする関係銀行であった。さらに日露戦争後産業資本と金融の関係が密接となり小資本では独り立ちは難しくなっていった。また日露戦争後の一時的好況の時に多額の貸し出しが、すぐやってきた恐慌によって貸し出しが焦げ付いた。この貸し出し方針はは馬越恭平の考えでこの融資の失敗問題を追及していたのは浅田正文であった。このため銀行内は馬越派と浅田派に別れ、抗争していたが馬越が引き、浅田が経営しても帝国商業銀行はたびたび貸し出しが焦げ付く融資が発生し立ち直らなかった。
郷誠之助がこのような時、銀行の再建に向った。再建には失敗した後に明治44年東京株式取引所理事長に就任した。帝国商業銀行や日本醤油醸造は福神漬の歴史に関係している。
明治末期の金融安定化法
明治41年に発覚した帝国商業銀行の不良債権問題は今で言うと株式市場に株券を担保として融資する銀行が日露戦争後の不況のため焦げ付きが増え危機をむかえた。帝国商業銀行の内部では営業優先の馬越と経理優先の浅田との二派に別れて不良債権処理が遅れたようである。その時第二代東京商工会議所会頭の中野武営が入ってとりあえず混乱を抑えたが浅田はこの年に22年取締役だった日本郵船の役職を降りている。東武鉄道等の役職を降りたのは彼の死期の迫った明治44年末頃に役職を降りている。
三菱グループには三綱領と言うものがあります。どれかの綱領に抵触した部分があったのだろうか。処事公明=フェアプレーに徹する に反したのだろうか。
馬越は後に日本のビール王となったが浅田の記録は少なく消え去ったとも言える。日本郵船の関係者の『福神漬』の記憶にあるが記録がない原因の一つかもしれない。
明治末期の金融危機
いまは大恐慌以来の金融危機であるといわれるが明治末期にも証券市場の金融機関のひとつである帝国商業銀行の経営危機は支援した渋沢栄一や中野武営も損失を被ったと言う。
中野武営は数々の経営危機に陥った企業を再建した人だが日本醤油醸造株式会社と帝国商業銀行の再建は結果として失敗だったと言われる。
『中野武営と商法会議所』の本の宣伝には『中野武営は、今から100年も前に「官から民、中央より地方へ」「小さな政府」などを訴え、満州の植民地化に反対、排日に傾くアメリカと中国(清)との民間経済外交の道を切り拓いた実業界の指導者で、徳富蘇峰も「俗中の俗なる実業界にすみつつも一種出色の風格を持った中野武営。風貌を平人にして、その骨は武士たり。その志はつねに君国に存じたり」』
帝国商業銀行の馬越恭平と浅田正文は危機のあと役員を退任するのだが、馬越はビール業に本腰を入れて働くようになって日本最大のビール会社となった。
浅田が記憶から消された原因の一つは帝国商業銀行の失敗にあるのかもしれない。彼は明治44年に主な役職を退任し翌明治45年に死去している。
渋沢栄一
渋沢栄一傳記資料 第5巻
渋沢記念館があるせいで比較的史料が揃っています。さて第五巻は銀行関係の史料で390ページから403ぺ-ジにかけて帝国商業銀行の件があります。明治41年帝国商業銀行の重役間に軋轢があって取締役全員が辞職し、郷誠之助が取締役会長に就任しました。この件で明治41年1月頃から渋沢栄一の周辺で日本銀行総裁を始め原六郎・井上準之助・根津嘉一郎など多数の金融関係者としばしば善後策を相談している。
後に帝国商業銀行取締役会長であった郷誠之助の談話(5巻403頁)帝国商業銀行のことで渋沢と郷との関係を講演した。
『これは馬越恭平と浅田正文がけんかした問題で、何しろ(日露戦争後)のブーム時代の借金を帝国商業銀行がうんと背負い込んで困っていたのを私が(郷が)引き受けたがこれは成功しなかった。銀行と言うものは一度大きな借金をしたりして信用を失うと中々回復できないものである。いったい銀行と言うものは2x2=4がすべてで細かい計算の上に成り立って行くものだから一度躓くと立ち直りか容易でない。一般の産業会社なら、その時の景気の風の吹き具合によって、良い時までじっと我慢して、いざ時流に乗るとパット成功するものだが銀行と言うものは厘毛から段々と作っていく商売だからその手が使えない。
私は渋沢栄一や中野武営から見ると(王子製紙を再建したので)整理屋のように思われていた。』と語っている。
明治41年8月15日銀行通信録
帝国商業銀行は明治27年資本金500万円をもって東京・大阪その他日本各都市の株式取引所関係者により設立し、以来証券業者間の機関銀行であったものだが明治40年取締役会長浅田正文が辞職し馬越恭平に代わったが、その頃から重役間に軋轢が生じ、取締役全員が辞職し新たに郷誠之助が取締役会長となった。渋沢栄一は相談役に就任した。
日本醤油醸造のの破綻は色々な問題を引き起こしていた。サッカリンという人工甘味料は今でも食品に添加するとを嫌われているが、嫌われる原因がここから始まる。
男爵郷誠之助君伝から
郷誠之助は渋沢栄一死去後の第一次大戦後から戦前にかけて日本財界のリーダーとなった人ですが帝国商業銀行の再建や日本醤油醸造の処理には失敗した。のちに「財界世話業」と呼ばれた郷誠之助は色々な業績不振な会社を再建しました。
明治41年渋沢栄一や中野武榮の推薦により整理のために帝国商業銀行の会長に就任した。帝商は一般の銀行と違って投機性の強い株式仲買人の金融をする関係銀行であった。さらに日露戦争後産業資本と金融の関係が密接となり小資本では独り立ちは難しくなっていった。また日露戦争後の一時的好況の時に多額の貸し出しが、すぐやってきた恐慌によって貸し出しが焦げ付いた。この貸し出し方針はは馬越恭平の考えでこの融資の失敗問題を追及していたのは浅田正文であった。このため銀行内は馬越派と浅田派に別れ、抗争していたが馬越が引き、浅田が経営しても帝国商業銀行はたびたび貸し出しが焦げ付く融資が発生し立ち直らなかった。
郷誠之助がこのような時、銀行の再建に向った。再建には失敗した後に明治44年東京株式取引所理事長に就任した。帝国商業銀行や日本醤油醸造は福神漬の歴史に関係している。
明治末期の金融安定化法
明治41年に発覚した帝国商業銀行の不良債権問題は今で言うと株式市場に株券を担保として融資する銀行が日露戦争後の不況のため焦げ付きが増え危機をむかえた。帝国商業銀行の内部では営業優先の馬越と経理優先の浅田との二派に別れて不良債権処理が遅れたようである。その時第二代東京商工会議所会頭の中野武営が入ってとりあえず混乱を抑えたが浅田はこの年に22年取締役だった日本郵船の役職を降りている。東武鉄道等の役職を降りたのは彼の死期の迫った明治44年末頃に役職を降りている。
三菱グループには三綱領と言うものがあります。どれかの綱領に抵触した部分があったのだろうか。処事公明=フェアプレーに徹する に反したのだろうか。
馬越は後に日本のビール王となったが浅田の記録は少なく消え去ったとも言える。日本郵船の関係者の『福神漬』の記憶にあるが記録がない原因の一つかもしれない。
明治末期の金融危機
いまは大恐慌以来の金融危機であるといわれるが明治末期にも証券市場の金融機関のひとつである帝国商業銀行の経営危機は支援した渋沢栄一や中野武営も損失を被ったと言う。
中野武営は数々の経営危機に陥った企業を再建した人だが日本醤油醸造株式会社と帝国商業銀行の再建は結果として失敗だったと言われる。
『中野武営と商法会議所』の本の宣伝には『中野武営は、今から100年も前に「官から民、中央より地方へ」「小さな政府」などを訴え、満州の植民地化に反対、排日に傾くアメリカと中国(清)との民間経済外交の道を切り拓いた実業界の指導者で、徳富蘇峰も「俗中の俗なる実業界にすみつつも一種出色の風格を持った中野武営。風貌を平人にして、その骨は武士たり。その志はつねに君国に存じたり」』
帝国商業銀行の馬越恭平と浅田正文は危機のあと役員を退任するのだが、馬越はビール業に本腰を入れて働くようになって日本最大のビール会社となった。
浅田が記憶から消された原因の一つは帝国商業銀行の失敗にあるのかもしれない。彼は明治44年に主な役職を退任し翌明治45年に死去している。
渋沢栄一
渋沢栄一傳記資料 第5巻
渋沢記念館があるせいで比較的史料が揃っています。さて第五巻は銀行関係の史料で390ページから403ぺ-ジにかけて帝国商業銀行の件があります。明治41年帝国商業銀行の重役間に軋轢があって取締役全員が辞職し、郷誠之助が取締役会長に就任しました。この件で明治41年1月頃から渋沢栄一の周辺で日本銀行総裁を始め原六郎・井上準之助・根津嘉一郎など多数の金融関係者としばしば善後策を相談している。
後に帝国商業銀行取締役会長であった郷誠之助の談話(5巻403頁)帝国商業銀行のことで渋沢と郷との関係を講演した。
『これは馬越恭平と浅田正文がけんかした問題で、何しろ(日露戦争後)のブーム時代の借金を帝国商業銀行がうんと背負い込んで困っていたのを私が(郷が)引き受けたがこれは成功しなかった。銀行と言うものは一度大きな借金をしたりして信用を失うと中々回復できないものである。いったい銀行と言うものは2x2=4がすべてで細かい計算の上に成り立って行くものだから一度躓くと立ち直りか容易でない。一般の産業会社なら、その時の景気の風の吹き具合によって、良い時までじっと我慢して、いざ時流に乗るとパット成功するものだが銀行と言うものは厘毛から段々と作っていく商売だからその手が使えない。
私は渋沢栄一や中野武営から見ると(王子製紙を再建したので)整理屋のように思われていた。』と語っている。
明治41年8月15日銀行通信録
帝国商業銀行は明治27年資本金500万円をもって東京・大阪その他日本各都市の株式取引所関係者により設立し、以来証券業者間の機関銀行であったものだが明治40年取締役会長浅田正文が辞職し馬越恭平に代わったが、その頃から重役間に軋轢が生じ、取締役全員が辞職し新たに郷誠之助が取締役会長となった。渋沢栄一は相談役に就任した。
日本醤油醸造のの破綻は色々な問題を引き起こしていた。サッカリンという人工甘味料は今でも食品に添加するとを嫌われているが、嫌われる原因がここから始まる。