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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語 53

2010年01月04日 | 福神漬
日本郵船と福神漬 

明治17年(1884年)横浜生まれの作家長谷川伸という人がいた。小学校も2年ほどしか行けず、横浜のドックで働き、後に新聞記者となり、小説を合間に書いているうちに本当に大衆小説家になった。福神漬の証言者である鶯亭金升日記にも序文を載せていて気にはなっていたがこれから日本郵船・横浜から福神漬の物語が始まることとなる。彼は股旅物の作者として知られているが福神漬の話には『日本捕虜志 』 1955 第4回菊池寛賞)から始まる。戦争中から書き溜めていて、戦後自費出版し、菊池寛賞を 受賞してから一般に知られた。そしてインド洋で行方不明となりドイツに捕虜となった日本郵船常陸丸の小説を書くこととなった。
その『日本捕虜志)の中の逸話として、日本兵士が捕虜となった敵兵を見学に行くことになったが、ある兵士が『普段は職人などの仕事をして働いていた人が戦争となって兵士となり、捕虜となった。兵士は昔は武士である。捕虜となった姿を見られるには忍びないから見学したくない。』と言ったら、その部隊は捕虜見学をやめたという。日清・日露の戦役の時代の気風が残っていた。

 佐藤忠雄の『長谷川伸論』によると先の大戦で日本軍は捕虜に対して敵味方の区別なく、非人道的な態度をとっていたが、日露戦争まで捕虜に対して、差別意識がなかったということを克明に蒐集されていて、捕虜の対する差別意識が日露戦争に育成されたという。

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福神漬物語 52

2010年01月04日 | 福神漬
上野戦争23回忌 まとめ
下谷生まれの幕臣の子・内田魯庵によると薩長によって代表される維新の江戸文化破壊が最も遅れて及んだのが浅草であったという。浅草以外に新しい歌舞伎の劇場(新富座)が出来、次第に文明開化の影響が現れた。
 明治23年は彰義隊23回忌と第三回内国博覧会が上野公園で開かれると、その見物客を当て込み竹柴其水と五代目菊五郎は上野戦争を上演することとなった。しかし現存する当事者のためと演劇改良運動の影響で事実に沿っての芝居となって冗長の感があった。しかし当時の状況を知っている下谷の人々には懐旧の情を呼び起こし成功であった。
 下谷の特に上野山下の人々がこの歌舞伎を見に行った時、当然池之端の酒悦主人は見物に行ったと思われる。維新以前には上野山下には香煎を商う店が三軒あったが上野戦争で寛永寺がさびれ、上野公園として人々が戻ってくるまで苦難の年月であった。このような時新しい味の開発を明治10年頃からはじめ、缶詰入りの福神漬となった。
 新富座で上演された皐月晴上野朝風は五代目菊五郎の興行宣伝の活躍で成功したが演劇改良と西洋の芝居に関する合理的な考えが浸透し歌舞伎役者が悩んでいた時期でもあった。この芝居は上野の鐘の音で始まり七幕目の第三回内国博覧会の場で博覧会終了のベル(文明開化の象徴)で終わった。第十二代市川團十郎の本『團十郎の歌舞伎案内』によると歌舞伎とは『その時代その時代のお客様の嗜好によって変化し、左右されて発展してきた庶民の芸能』という。劇聖といわれ明治時代に活躍した九代目市川團十郎の悩みも尽きなかった時だった。
 寛永寺の輪王寺宮の兄や榎本武揚もお忍びで新富座にて見物したようで当時のことを思い出して涙を流したと言う。事実による芝居の筋書きはどこかで省略しなければ時間に収まらず竹柴其水の苦労は大変だっただろう。
 浅草に住んでいた戯作者等の文化人が新富座のある銀座方面に移行していく時期でもあった。特に銀座に集中した新聞会社は庶民の読者を獲得するため定期購読を条件として劇場無料招待などをしていた。
 都新聞(今の東京新聞の前身・遊郭・歌舞伎・芸能情報に強い)は5月22日の初日興行を買い切り読者に提供したと言う。

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