日本郵船と福神漬
序
明治17年(1884年)横浜生まれの作家長谷川伸という人がいた。小学校も2年ほどしか行けず、横浜のドックで働き、後に新聞記者となり、小説を合間に書いているうちに本当に大衆小説家になった。福神漬の証言者である鶯亭金升日記にも序文を載せていて気にはなっていたがこれから日本郵船・横浜から福神漬の物語が始まることとなる。彼は股旅物の作者として知られているが福神漬の話には『日本捕虜志 』 1955 第4回菊池寛賞)から始まる。戦争中から書き溜めていて、戦後自費出版し、菊池寛賞を 受賞してから一般に知られた。そしてインド洋で行方不明となりドイツに捕虜となった日本郵船常陸丸の小説を書くこととなった。
その『日本捕虜志)の中の逸話として、日本兵士が捕虜となった敵兵を見学に行くことになったが、ある兵士が『普段は職人などの仕事をして働いていた人が戦争となって兵士となり、捕虜となった。兵士は昔は武士である。捕虜となった姿を見られるには忍びないから見学したくない。』と言ったら、その部隊は捕虜見学をやめたという。日清・日露の戦役の時代の気風が残っていた。
佐藤忠雄の『長谷川伸論』によると先の大戦で日本軍は捕虜に対して敵味方の区別なく、非人道的な態度をとっていたが、日露戦争まで捕虜に対して、差別意識がなかったということを克明に蒐集されていて、捕虜の対する差別意識が日露戦争に育成されたという。
序
明治17年(1884年)横浜生まれの作家長谷川伸という人がいた。小学校も2年ほどしか行けず、横浜のドックで働き、後に新聞記者となり、小説を合間に書いているうちに本当に大衆小説家になった。福神漬の証言者である鶯亭金升日記にも序文を載せていて気にはなっていたがこれから日本郵船・横浜から福神漬の物語が始まることとなる。彼は股旅物の作者として知られているが福神漬の話には『日本捕虜志 』 1955 第4回菊池寛賞)から始まる。戦争中から書き溜めていて、戦後自費出版し、菊池寛賞を 受賞してから一般に知られた。そしてインド洋で行方不明となりドイツに捕虜となった日本郵船常陸丸の小説を書くこととなった。
その『日本捕虜志)の中の逸話として、日本兵士が捕虜となった敵兵を見学に行くことになったが、ある兵士が『普段は職人などの仕事をして働いていた人が戦争となって兵士となり、捕虜となった。兵士は昔は武士である。捕虜となった姿を見られるには忍びないから見学したくない。』と言ったら、その部隊は捕虜見学をやめたという。日清・日露の戦役の時代の気風が残っていた。
佐藤忠雄の『長谷川伸論』によると先の大戦で日本軍は捕虜に対して敵味方の区別なく、非人道的な態度をとっていたが、日露戦争まで捕虜に対して、差別意識がなかったということを克明に蒐集されていて、捕虜の対する差別意識が日露戦争に育成されたという。