年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語 67

2010年01月18日 | 福神漬
 馬越恭平 橋本竜太郎著
日本の首相になる前に政治家橋本竜太郎が著した郷土の偉人の伝記
 帝国商業銀行において馬越恭平と浅田正文の関係が橋本氏の本で明らかとなった。二人の関係は馬越は三井・浅田は三菱で接点がなさそうであるか横浜で三井物産横浜支店長だった馬越と日本郵船の浅田と交際があったと書かれている。
馬越恭平は今ではあまり知られていないが日本のビール王として知られ、戦前は日本のビール業界のシェア75%を占めていたという大日本麦酒(日本麦酒、朝日麦酒、札幌麦酒の合併会社)の社長を務めた人物であった。
馬越が三井物産をやめて二年後、日本銀行の第二代総裁であった富田鉄之助や浅田の推薦で帝国商業銀行の重役となった。
明治時代に本格的に日本で普及したビールの販売方法は福神漬の初期の販売方法によく似ている。
 橋本氏の本では馬越はビール事業より帝国商業銀行のほうが熱心に仕事をしていたが明治41年に帝国商業銀行の業績不振の責任をとって会長を退き、ビール事業に向ったと言う。馬越と浅田は帝国商業銀行の混乱が辞任の理由となっているがこの件に関しての記述がない。
 郷土の偉人の伝記を書いた橋本竜太郎の『馬越恭平』をよむと芸者xx人切とかの話はでず、さらりと書いているがビールの売込みには必要な営業上の行動であることは知られていない。
明治初期におけるビールの売り込み方
馬越恭平翁伝より
『販売先は4者に集中すべし。学者・医者・芸者・役者である。世のインテリや有名人に集中して無料試飲会を開いて大いに宣伝してビールを売り込み、そこから多数の消費者に浸透を図ることである。』
 明治26年2月第二回医学大会が東京で開かれた際、東大教授や軍医1200名を目黒の工場に招待、小石川の植物園で開かれた薬学大会には3000人の来会者に無償で飲ませている。ビールを普及させるにはビールの衛生効果を知らせる必要があると馬越恭平は考えていた
日露戦争時の遊郭吉原での大演説
日露戦争時において、サッポロビールが東京に売り込みのため吉原遊郭の経営者・芸者・女郎を集め大宴会を開いた。そのとき壇上に立ったサッポロビールの専務は『諸君、いまやわが国は未曾有の国難に会している。軍国資金として金は特に重んじなければならない。
 ところでこれからはビールの飲む季節である。諸君、東京の人は去年までエビスビールとかキリンビールを飲んでおられたようであるがこの非常時、今からそのようなことを止めるべきである。エビスやキリンは外国の材料を日本の金で仕入れて製造したものである。従って飲めば飲むほど貴重なお金を浪費していることになる。
 そこである北海道で栽培した大麦で作ったサッポロビールを飲むべきである。これまでサッポロで醸造していて馴染みはないが、実は(明治)30年吾妻橋のそばに工場を建設しようやくこのたび落成を見たので、本年夏からサッポロビールを飲んでもらいたいと思うのである。吉原浅草は地元ともいえるのでよろしくお願いいたします。』
 日露戦争でも砂糖とか貴重な外貨を浪費すると思われていたものは節約を強制されていた。この演説だと明治37.38年の吾妻橋工場稼動となるが史料では明治33年ともある。吾妻橋付近にビール工場が作られたのは原料を水運で運ぶためと書いてあったが、浅草等の行楽地が付近にあったことも立地条件の一つと考えられる。この吾妻橋工場は今ではアサヒビール本社となっている。

明治初期に肉食がまだ嫌われていたとき今では考えられないことが信じられていた。そのような時代に西洋の馴染みのない食べ物を食べさせるにはある程度医学的によいとか幸運が授かるとかの迷信を利用したりして、現代と同じように宣伝する必要があった。

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