下谷茅町の三菱
明治22年頃の池之端茅町2-18の様子
鶯亭金升日記より
根岸入谷はまだ町の中の村里なり。然るに不忍は下谷の町中にて、一見しても根岸入谷より都なるを知れども、茅町辺りはこれに相違して、大晦日というのに人力車さえも余り通らず、折々通るのは働く人や肥えを運搬する車である。根岸より田舎にてことに前には池あり山ありと書いてある。
池之端茅町はいまの台東区池之端一丁目にあたる。明治22年頃の閑静な様子がわかる。
下谷茅町には三菱の岩崎本邸(明治11年購入)がある。日本郵船社員となった浅田正文は直ぐそばに屋敷を構えた。しかし森鴎外の小説『雁』に出てくる無縁坂に突き当たる路地に接していて、寂しい土地であった。三遊亭円朝の落語『七福神詣で』は明治31年の設定となっているが浅田正文は落語の落ちになるくらいの貴紳士と知られていたようである。
明治22年9月27日の鶯亭金升日記
隣他は福地源一郎氏の所有だったが借財のため公売となり、当日に至って郵船会社朝田(浅田正文の間違い)といえる者が購入したが火災を恐れるため左右の土地を買って火除けにしようとするためであった。
つまり鶯亭金升の借家は浅田正文のために家を取り壊され移転するようになってしまった。このとき何か世俗的交流があったと思われる。東京市下谷区池之端茅町に福神漬の関係者が同時代に揃っていたことになる。また後に日本銀行総裁になった日本郵船の川田小一郎もこの地に関係ある妾を得ている
明治のスキャンダル報道
萬朝報 明治 31 年7月14日
浅田正文 帝国商業銀行取締役兼支配人たる同人はもと柳橋の千代こと小平まん(30)を妾として下谷池之端2―18の自宅に置く。この小平まんは築地料理店野田屋の娘なるが、野田屋はこれがため大いに融通を得たり。
下谷池之端2―18 には福神漬の関係者鶯亭金升 も同じ場所に住んでいた。
この地は今の横山大観記念館のところの南隣に当たる。
弊風一斑 蓄妾の実例
明治31年(1898)年7月7日から9月27日『萬朝報』に連載された。各著名人の女性関係を実名報道していた。
浅田は帝国商業銀行となっているが日本郵船出身であるのだが今では余り知られていない
明治30年代の萬朝報のスキャンダルジャーナリズムによって、『妾』を持つことが次第に批判されるようになっていった。日本郵船は日本の会社であるが欧米諸国と付き合いがあるので浅田正文の報道はこたえただろう。後に第三代日本銀行総裁となった川田小一郎も芸者を妾にするため、富貴楼のお倉に頼んでいる。お倉は日本郵船の設立には陰の役割を果たした女性である。
日本郵船に酒悦の福神漬が納入されたいきさつはどう考えても池之端グループの口ぞえがあったと想像される。
萬朝報は明治のノゾキ趣味が満ち満ちて読者を増やして行った。いわゆる売り上げを増やすために行き過ぎた報道があったため『まむしの周六』恐れられた。明治の時代は金銭のやり取りで新聞記事の差し止めがあった時代だった。
明治22年頃の池之端茅町2-18の様子
鶯亭金升日記より
根岸入谷はまだ町の中の村里なり。然るに不忍は下谷の町中にて、一見しても根岸入谷より都なるを知れども、茅町辺りはこれに相違して、大晦日というのに人力車さえも余り通らず、折々通るのは働く人や肥えを運搬する車である。根岸より田舎にてことに前には池あり山ありと書いてある。
池之端茅町はいまの台東区池之端一丁目にあたる。明治22年頃の閑静な様子がわかる。
下谷茅町には三菱の岩崎本邸(明治11年購入)がある。日本郵船社員となった浅田正文は直ぐそばに屋敷を構えた。しかし森鴎外の小説『雁』に出てくる無縁坂に突き当たる路地に接していて、寂しい土地であった。三遊亭円朝の落語『七福神詣で』は明治31年の設定となっているが浅田正文は落語の落ちになるくらいの貴紳士と知られていたようである。
明治22年9月27日の鶯亭金升日記
隣他は福地源一郎氏の所有だったが借財のため公売となり、当日に至って郵船会社朝田(浅田正文の間違い)といえる者が購入したが火災を恐れるため左右の土地を買って火除けにしようとするためであった。
つまり鶯亭金升の借家は浅田正文のために家を取り壊され移転するようになってしまった。このとき何か世俗的交流があったと思われる。東京市下谷区池之端茅町に福神漬の関係者が同時代に揃っていたことになる。また後に日本銀行総裁になった日本郵船の川田小一郎もこの地に関係ある妾を得ている
明治のスキャンダル報道
萬朝報 明治 31 年7月14日
浅田正文 帝国商業銀行取締役兼支配人たる同人はもと柳橋の千代こと小平まん(30)を妾として下谷池之端2―18の自宅に置く。この小平まんは築地料理店野田屋の娘なるが、野田屋はこれがため大いに融通を得たり。
下谷池之端2―18 には福神漬の関係者鶯亭金升 も同じ場所に住んでいた。
この地は今の横山大観記念館のところの南隣に当たる。
弊風一斑 蓄妾の実例
明治31年(1898)年7月7日から9月27日『萬朝報』に連載された。各著名人の女性関係を実名報道していた。
浅田は帝国商業銀行となっているが日本郵船出身であるのだが今では余り知られていない
明治30年代の萬朝報のスキャンダルジャーナリズムによって、『妾』を持つことが次第に批判されるようになっていった。日本郵船は日本の会社であるが欧米諸国と付き合いがあるので浅田正文の報道はこたえただろう。後に第三代日本銀行総裁となった川田小一郎も芸者を妾にするため、富貴楼のお倉に頼んでいる。お倉は日本郵船の設立には陰の役割を果たした女性である。
日本郵船に酒悦の福神漬が納入されたいきさつはどう考えても池之端グループの口ぞえがあったと想像される。
萬朝報は明治のノゾキ趣味が満ち満ちて読者を増やして行った。いわゆる売り上げを増やすために行き過ぎた報道があったため『まむしの周六』恐れられた。明治の時代は金銭のやり取りで新聞記事の差し止めがあった時代だった。