年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語 74團團珍聞

2010年01月25日 | 福神漬
團團珍聞

明治前半期に起こった自由民権運動は、政権を握っていた藩閥政府に対して国会開設を早期樹立する運動だった。しかしこの運動を明治政府で様々な方法をとって弾圧した。最初の自由民権を主張する人々は活動の場を新聞とした。しかし明治政府は1875年新聞紙条例・讒謗律(ざんぼうりつ)の2法を制定して新聞を規制した。さらに1880年集会条例を制定し、演説会を抑えようとした。そんな時、明治10年の西南戦争のときに政治を風刺するマンガ雑誌が発行された。社主野村文夫は芸州藩主だった浅野長勲の資金援助を受けたものだった。浅野は明治5年(1872年)、日本最初の東京・日本橋蠣殻町で創業した洋紙製造工場「有恒社」(大正13年王子製紙に吸収合併)を設立、明治7年(1874年)稼動した。西南戦争で新聞の発行が増え、洋紙製造が採算にのるようになった。
また明治22年(1889年)2月11日、明治憲法発布の日に創刊された新聞『日本』(日本 (新聞))に出資した。新聞『日本』は團團珍聞と同じ神田雉子町31で創業した。つまり野村文夫の自宅の敷地に『團團珍聞』と『新聞・日本』が同居していたのである。
團團珍聞は○○珍聞ともいい。○○は政府に弾圧されない工夫でもあった。しかし慣れない一般読者や事情を知らない人は記事の内容が不明となる。平成の時代から團團珍聞を読み解く事は当時の状況を理解する必要がある。福神漬が團團珍聞主筆の鶯亭金駕によって命名された。明治16年から18年にかけてどの様な事があったのだろうか。

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