日本郵船と福神漬
日銀総裁の艶聞
川田小一郎の妾の話は明治43年8月23日の都新聞(今の東京新聞の前身)の記事『花柳界の女傑・富貴楼のお倉』の中に記述されています。明治時代の新聞はとにかく報道のルールなどないように思えるくらい行き過ぎた記事が多数ありました。しばしば人のプライバシーなど関係なく報道していました。時には記事の捏造等もあってしばしば訂正記事もあり、新聞発行禁止されたこともありました。一面で政治外交を論じていて三面では芸者のお披露目や歌舞伎等の話題や遊女の心中記事でのぞき趣味のある読者を増やす努力をしていました。
明治43年8月の都新聞の記事で『川田小一郎の恩人』としてつぎのような記事があります。
『日本銀行の川田小一郎氏も(富貴楼の)お倉をひいきにしてそこここに遊んでいましたが。川田氏は仲町芸者の吉次に思いをかけ是非妾にしようとしたが、吉次は有名な男嫌いが看板で誰がなんと言っても「男は嫌い」の一点張りでさすがの川田氏の金の力も何の効果なく、業を煮やして言い出した意地と惚れた弱みに富貴楼に来て、男嫌いの吉次を妾にしてくれれば川田はお倉を一生の恩人だとも言い出してひたすら頼んだ。お倉も他の女ならば手のないことだが相手は吉次とあっただけに一寸困ってしばらく考えてよろしいと引き受けた上、吉次を訪ねいやだと言う吉次を無理やり納得させ川田の邸に妾として上げ、二人の子供まで生んだと言う。かくして日銀総裁であった川田はこれを恩としてますます富貴楼をひいきにしたという。』
この逸話も高橋箒庵の『箒のあと』には吉次は吉原の芸者として記述されている。川田は明治29年に死去しているのでいつごろの話だろうか。福神漬は明治19年前後に上野池之端の酒悦によって創製された。福神漬の普及には池之端の人脈の影響と待合茶屋でも出されただろう。郵船に積まれた福神漬の経緯は事実があるがなかろうが郵船社員には幹部の行状が新聞紙上によって報道され池之端といえば三菱・郵船となっていて記憶にのこっていたのではあるまいか。日本郵船歴史博物館の人の話ではカレーライスと福神漬の話は郵船社員には広く知れていた話であるということである。
隋録三遊亭円朝 藤浦富太郎著
馬越恭平翁と円朝から
円朝は明治28年まで8年ほど新宿に住んでいた。その後川田小一郎(第三代日本銀行総裁・三菱グループの基礎を創った)の持家に住んでいた。(他の円朝関係の書では川田の家に住んでいたことは否定されている)川田は明治29年11月に亡くなっているので最晩年の付き合いとなる。円朝がいつまでも川田が家賃を取ってくれないので気に入らず引越しを考えていた時、その噂を聞きつけた馬越恭平が家賃を取ることを条件に馬越邸に移り住んだがなかなか家賃の請求が来ず約束が違うと再び移住する決意をしたが藤浦富太郎氏の父が間に入って家賃を取ることなり、二年間馬越邸に円朝は住んだ。
三菱・日本郵船の川田と三井・エビスビ―ルの馬越との接点ここに現れた。円朝の落語『七福神詣で』で川田が亡くなっていたのに出てきた理由がわかる。
福神漬をめぐる人の交流から数奇な明治時代と文明開花のいたずら現れてくる。藤浦富太郎氏は昭和10年に築地市場が発足した時、青果荷受会社東京中央青果(現東京市シティ青果株式会社)の初代社長である。当時は京橋大根河岸の三周と知られていて、三遊亭円朝の贔屓として知られている。
日銀総裁の艶聞
川田小一郎の妾の話は明治43年8月23日の都新聞(今の東京新聞の前身)の記事『花柳界の女傑・富貴楼のお倉』の中に記述されています。明治時代の新聞はとにかく報道のルールなどないように思えるくらい行き過ぎた記事が多数ありました。しばしば人のプライバシーなど関係なく報道していました。時には記事の捏造等もあってしばしば訂正記事もあり、新聞発行禁止されたこともありました。一面で政治外交を論じていて三面では芸者のお披露目や歌舞伎等の話題や遊女の心中記事でのぞき趣味のある読者を増やす努力をしていました。
明治43年8月の都新聞の記事で『川田小一郎の恩人』としてつぎのような記事があります。
『日本銀行の川田小一郎氏も(富貴楼の)お倉をひいきにしてそこここに遊んでいましたが。川田氏は仲町芸者の吉次に思いをかけ是非妾にしようとしたが、吉次は有名な男嫌いが看板で誰がなんと言っても「男は嫌い」の一点張りでさすがの川田氏の金の力も何の効果なく、業を煮やして言い出した意地と惚れた弱みに富貴楼に来て、男嫌いの吉次を妾にしてくれれば川田はお倉を一生の恩人だとも言い出してひたすら頼んだ。お倉も他の女ならば手のないことだが相手は吉次とあっただけに一寸困ってしばらく考えてよろしいと引き受けた上、吉次を訪ねいやだと言う吉次を無理やり納得させ川田の邸に妾として上げ、二人の子供まで生んだと言う。かくして日銀総裁であった川田はこれを恩としてますます富貴楼をひいきにしたという。』
この逸話も高橋箒庵の『箒のあと』には吉次は吉原の芸者として記述されている。川田は明治29年に死去しているのでいつごろの話だろうか。福神漬は明治19年前後に上野池之端の酒悦によって創製された。福神漬の普及には池之端の人脈の影響と待合茶屋でも出されただろう。郵船に積まれた福神漬の経緯は事実があるがなかろうが郵船社員には幹部の行状が新聞紙上によって報道され池之端といえば三菱・郵船となっていて記憶にのこっていたのではあるまいか。日本郵船歴史博物館の人の話ではカレーライスと福神漬の話は郵船社員には広く知れていた話であるということである。
隋録三遊亭円朝 藤浦富太郎著
馬越恭平翁と円朝から
円朝は明治28年まで8年ほど新宿に住んでいた。その後川田小一郎(第三代日本銀行総裁・三菱グループの基礎を創った)の持家に住んでいた。(他の円朝関係の書では川田の家に住んでいたことは否定されている)川田は明治29年11月に亡くなっているので最晩年の付き合いとなる。円朝がいつまでも川田が家賃を取ってくれないので気に入らず引越しを考えていた時、その噂を聞きつけた馬越恭平が家賃を取ることを条件に馬越邸に移り住んだがなかなか家賃の請求が来ず約束が違うと再び移住する決意をしたが藤浦富太郎氏の父が間に入って家賃を取ることなり、二年間馬越邸に円朝は住んだ。
三菱・日本郵船の川田と三井・エビスビ―ルの馬越との接点ここに現れた。円朝の落語『七福神詣で』で川田が亡くなっていたのに出てきた理由がわかる。
福神漬をめぐる人の交流から数奇な明治時代と文明開花のいたずら現れてくる。藤浦富太郎氏は昭和10年に築地市場が発足した時、青果荷受会社東京中央青果(現東京市シティ青果株式会社)の初代社長である。当時は京橋大根河岸の三周と知られていて、三遊亭円朝の贔屓として知られている。