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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語76河鍋暁斎

2010年01月27日 | 福神漬
河鍋暁斎

福神漬命名者梅亭金鵞が瓜生政和という名前で編集者となり、明治20年暁斎画談という本を出版している。
 ある資料から河鍋暁斎が根岸で明治22年に亡くなったという。根岸とどのような関係があったのだろうか。この件で埼玉県西川口にある河鍋暁斎美術館の人に聞く。河鍋暁斎は明治17年頃から根岸に住んでいたという。資料は明治20年ころ根岸に引っ越したことになっている。根岸党との関係はあったのだろうか。饗庭篁村が根岸に住んだのが明治19年のことなのでほぼ同じ頃になる。

1867(慶応3年)37歳 上野の東叡山寛永寺管主輪王寺宮家の家臣・大沢行衛の娘・近(ちか)と結婚し湯島四丁目に住む。
12月10日(慶応四年1月4日)娘・とよ(後の暁翠)生まれる。
1870(明治3年)上野・不忍弁天の長蛇亭にて、俳諧師・其角堂雨雀主催書画会で描いた戯画により、逮捕、投獄される。狂斎から号を暁斎と改める。
上野の歴史を調べていると、福神漬と美術界とが地域と時代が重なるのに、接点がないと思って史料収集の対象から外していたが河鍋暁斎の経歴から無視できなくなった。
 江戸幕府の専属絵師となった狩野派は幕末になると絵の技術が衰えていた。従って幕府が崩壊し明治に入ると、才能のない人たちは先祖の資産を切り売りして生活しなければならなかった。木挽町狩野の俊才と言われた橋本雅邦は陸軍局の地図を書く仕事で生活を維持した。また同じ塾の狩野芳崖に至っては田舎に帰って田畑を耕作し10数年過ごしたという。最後の狩野派と言われた河鍋暁斎だけが浮世絵などをこなし、明治の時代と下町商人の需要を取り入れ安定していた生活をしていた。
 明治3年不忍池料亭での筆渦事件を起こし、その刑罰は下谷の人達の同情を呼び支援したと思われる。また彼の妻となった上野・東叡山寛永寺の輪王寺の縁者ということあって同情を誘った。明治新政府の役人が外国人にペコペコし、詳しい資料はないが下谷の住民に対して傲慢な態度をとっていたのを揶揄した狂画を描いたといわれる。
 明治に入って日本に来た外国人で日本美術に興味を持った画商やコレクターが河鍋暁斎に興味を持った人が多いのは一人の日本人の影響があるかもしれない。三河屋幸三郎という人物で、開国後横浜で美術商をしていた人である。下谷の彫刻家高村光雲などと付き合い、根付けなど日本人が見捨てた品物を外国人に販売していた人である。彼は上野戦争で亡くなった彰義隊戦士の遺体を持前の義侠心から弔った人でもある。
 河鍋暁斎と付き合いのあったことが知られているのは、大森貝塚を発見したモース、東大で哲学等を教えたフェノロサ、建築家コンドル。ドイツ人医師ベルツなどが知られている。
 河鍋暁斎は明治18年頃まで約30年間湯島に住んでいて、のちに根岸に転居した。湯島の家も池の端に近く、下谷の地域の住民であった。根岸では根岸党の人々と酒を飲んでいたという文献もある。ここで福神漬を河鍋暁斎が食べていた可能性がある。彼は大酒のみで酒で亡くなったといわれる。
 訪問した美術館の学芸員の話から、狂斎から暁斎となったので読み方は《キョウサイ》となる。上野戦争直前に生まれた娘は幸田露伴・夏目漱石・内田魯庵・正岡子規・鶯亭金升・小栗上野介の娘(国子)と同じ明治元年生まれ組と重なる。江戸で生まれた人たちは親幕府・反明治政府(反薩長)になる人が多い。特に輪王寺の縁者を娶った河鍋暁斎は旧幕臣および下町(絵画の購入者)ひいきとなるのは当然のことである。酔った勢いでどのような絵画で新政府の反感を買ったのだろうか。明治3年頃は上野のあたりは寛永寺参拝客もなく不景気の頂点だった。幕臣は静岡に行き、地方から来た人(下級武士)たちとの江戸市民の摩擦となる。また最後の浮世絵師といわれた小林清親は暁斎に一時弟子になったという。
根付の研究 上田令吉著
根付とは江戸時代に小物を紐で帯から吊るし持ち歩くときに用いた留め具という。従って帯をしめない現在では装飾品としてのものとなる。
 この本によると根付けが海外に流出した原因は三河屋幸三郎が関係していたという。幕末ペリー来航時、幕府の人足頭で横浜に警備に行ったところ、偶然米国人と知り合い幸三郎の持っていた根付をあげたところ米国人からお返しの品を無許可でもらったため、「幕府とアメリカとが開国貿易交渉しているときに密貿易した」と幕府の咎めを受け獄に入れられた。しかし、このことを聞いた米国人は事の次第を話し、ようやく幸三郎は許された。
 神奈川が貿易港となったとき、偶然幸三郎がその米国人と出会い、出獄についての礼を述べたところ、その米国人と友達となった。双方で会話が進むうち幸三郎の根付けの話題となり、米国人が資金を出し、幸三郎が日本各地で根付を買い集め、神奈川に送り、海外に輸出されたという。
 幸三郎は神田旅籠町に三幸商会という美術商を開き、横浜にも店を出し、根付けのほかに外国人の好む美術品の輸出を始めたという。明治22年5月5日に死去
彼は上野戦争で彰義隊の死者を弔ったひとで旧幕臣との交遊もあり、榎本武揚と親しかった。また彫刻家高村光雲とも親しく付き合っていた。明治の前半は日本の美術品が海外に流出していた時でもあった。三幸商会は幸三郎の死去後もあって、明治の読売新聞に思い出の記事がある。

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