北白川宮能久親王(きたしらかわよしひとしんのう)
千代田区北の丸公園にある旧近衛師団司令部庁舎を改修してできた「東京国立近代美術館工芸館」あります。その東隣に「北白川宮能久親王銅像」があります。
江戸から明治にかけて、東叡山寛永寺(上野)を統括していたのが、出家した天皇家子息『輪王寺宮』と呼ばれる方々でした。この輪王寺宮は、親王を自分の後継者として迎え、天台宗の統括を図るという天海大僧正の遺言により実現したものです。幕末の輪王寺宮は後の北白川宮能久親王で慶応3年(1867)21歳のとき輪王寺門跡を相続されていました。この後、上野の寛永寺に彰義隊が篭った時に反官軍の代表に擁立されています。
明治維新の時、有栖川宮熾仁親王は恭順を条件に徳川慶喜を助命する方針を固めており、江戸から東征中止の要請と慶喜の助命嘆願のために訪れた輪王寺宮と静岡で会見し、宮に慶喜の恭順の意思を問うている。一方で、公現入道親王(後の北白川宮能久親王)のもう一つの目的であった東征中止については、有栖川熾仁親王はこれを断固拒否した。天皇家子息でありながら幕府側とみなされ、維新後、謹慎生活の後ドイツに留学し陸軍に入りました。日清戦争後台湾出兵を志願し台湾にて死去しました。
福神漬の『酒悦』の店名は『輪王寺宮』からいただいたと言われています。従って明治維新後、店主の行動はどちらかと言えば反明治政府の人達との交流が目立ちます。
覚王院義観の生涯 長島進著
上野戦争時、東叡山寛永寺の執当職であった覚王院義観のことを書いてある本を読む。彼は今の埼玉県朝霞市の出身で縁あって東叡山に入った。慶應3年寛永寺の執当職つまり天台座主に代わり職務の代行を行う最高の地位についた。44歳であった。ほぼ同じ時期に21歳の輪王寺宮もその地位に付いた。前例のない幕末政治情勢に彼等は寛永寺を守らねばならなかった。
慶應4年の鳥羽伏見の戦いの後、徳川慶喜が江戸に戻り、謹慎ということで江戸城を出、寛永寺で蟄居することから彼等が歴史の騒動の中に巻き込まれることとなった。
徳川慶喜を助命嘆願するため、静岡に向うが適当にあしらわれた。一般にこのことから覚王院義観の心に変化が生じ恭順から主義主張するという方向に変化したと言う。しかしこの本によると彼は執当職を忠実にこなしていたため徳川の意地を貫いた。明治になって彰義隊が悪役となったが輪王寺宮の処遇と上野戦争の戦犯との整合性のため彼に責任を負わせた歴史となっている。
吉村昭著『 彰義隊』の広告に
戊辰戦争でたった一人朝敵となった皇族がいたとあった。
上野の戦争の時。寛永寺の管主は輪王寺宮で元皇族でもあった。僧籍であったが最後の将軍が江戸城を出て寛永寺で謹慎することから彼の人生が変ってしまった。
西軍(京都方)の理不尽な要求に対して抵抗をしようとした武士が彰義隊を結成し、最初は寛永寺での将軍警護と言う目的から江戸市中警護と言う仕事に変化し、西軍と衝突しさらに水戸に将軍が移動すると、寛永寺守護が目的となってしまった。
福神漬の創られる以前の歴史が福神漬の命名等の歴史の前提となっていて、彰義隊の上野戦争の歴史がなければ多分福神漬はその名称はなく単なる七目醤油漬とかの名前になっただろう。
明治28年9月30日資料作成
大倉喜八郎が福神漬300樽を寄贈している。
『留守第4師団より大倉組よりの献納福神漬の件』
日清戦争が終わったのが明治28年4月だがどうして留守部隊だった大阪の第四師団へ大倉喜八郎の大倉組が福神漬を献納したのだかわからなかった。
この当時の直前大阪第四師団の師団長が北白川宮能久親王で明治26年から赴任していた。北白川宮能久親王は上野戦争の時は輪王寺宮であった。日清戦争が始まり明治28年1月15日に有栖川熾仁親王が亡くなると兄の小松宮が直ちに参謀本部長となり、弟の北白川宮は第四師団長を免ぜられ近衛師団長となり広島に赴任した。5日後、日本と清国は休戦した(3月15日)。
日清戦争後の福神漬献納はどんな意味があるのか?
日清戦争は明治28年4月頃休戦となるがその年の9月に大倉組が留守第四師団に東京名産福神漬を300樽献納したいという書類があった。明治28年1月終わり頃大阪にあった第四団の師団長は北白川親王(元輪王寺宮)で2月に近衛師団に移り、4月に中国大陸に行き、情勢不安となった台湾に六月初め向った。日本軍は台湾を制圧するのに苦労し、宮は10月28日台湾で死んだ。
大倉喜八郎の大倉組が献納した福神漬は宮が行った近衛師団と共に台湾に向ったのだろうか。大倉喜八郎は明治の当時から「死の商人」と知られていて、大阪の第四師団に福神漬を献納したのは何か意味があったと思われる。何しろ上野戦争の時、大倉喜八郎は武器を両者のところに販売していたので、下谷池之端「福神漬」の意味があって献納したと思われる。
千代田区北の丸公園にある旧近衛師団司令部庁舎を改修してできた「東京国立近代美術館工芸館」あります。その東隣に「北白川宮能久親王銅像」があります。
江戸から明治にかけて、東叡山寛永寺(上野)を統括していたのが、出家した天皇家子息『輪王寺宮』と呼ばれる方々でした。この輪王寺宮は、親王を自分の後継者として迎え、天台宗の統括を図るという天海大僧正の遺言により実現したものです。幕末の輪王寺宮は後の北白川宮能久親王で慶応3年(1867)21歳のとき輪王寺門跡を相続されていました。この後、上野の寛永寺に彰義隊が篭った時に反官軍の代表に擁立されています。
明治維新の時、有栖川宮熾仁親王は恭順を条件に徳川慶喜を助命する方針を固めており、江戸から東征中止の要請と慶喜の助命嘆願のために訪れた輪王寺宮と静岡で会見し、宮に慶喜の恭順の意思を問うている。一方で、公現入道親王(後の北白川宮能久親王)のもう一つの目的であった東征中止については、有栖川熾仁親王はこれを断固拒否した。天皇家子息でありながら幕府側とみなされ、維新後、謹慎生活の後ドイツに留学し陸軍に入りました。日清戦争後台湾出兵を志願し台湾にて死去しました。
福神漬の『酒悦』の店名は『輪王寺宮』からいただいたと言われています。従って明治維新後、店主の行動はどちらかと言えば反明治政府の人達との交流が目立ちます。
覚王院義観の生涯 長島進著
上野戦争時、東叡山寛永寺の執当職であった覚王院義観のことを書いてある本を読む。彼は今の埼玉県朝霞市の出身で縁あって東叡山に入った。慶應3年寛永寺の執当職つまり天台座主に代わり職務の代行を行う最高の地位についた。44歳であった。ほぼ同じ時期に21歳の輪王寺宮もその地位に付いた。前例のない幕末政治情勢に彼等は寛永寺を守らねばならなかった。
慶應4年の鳥羽伏見の戦いの後、徳川慶喜が江戸に戻り、謹慎ということで江戸城を出、寛永寺で蟄居することから彼等が歴史の騒動の中に巻き込まれることとなった。
徳川慶喜を助命嘆願するため、静岡に向うが適当にあしらわれた。一般にこのことから覚王院義観の心に変化が生じ恭順から主義主張するという方向に変化したと言う。しかしこの本によると彼は執当職を忠実にこなしていたため徳川の意地を貫いた。明治になって彰義隊が悪役となったが輪王寺宮の処遇と上野戦争の戦犯との整合性のため彼に責任を負わせた歴史となっている。
吉村昭著『 彰義隊』の広告に
戊辰戦争でたった一人朝敵となった皇族がいたとあった。
上野の戦争の時。寛永寺の管主は輪王寺宮で元皇族でもあった。僧籍であったが最後の将軍が江戸城を出て寛永寺で謹慎することから彼の人生が変ってしまった。
西軍(京都方)の理不尽な要求に対して抵抗をしようとした武士が彰義隊を結成し、最初は寛永寺での将軍警護と言う目的から江戸市中警護と言う仕事に変化し、西軍と衝突しさらに水戸に将軍が移動すると、寛永寺守護が目的となってしまった。
福神漬の創られる以前の歴史が福神漬の命名等の歴史の前提となっていて、彰義隊の上野戦争の歴史がなければ多分福神漬はその名称はなく単なる七目醤油漬とかの名前になっただろう。
明治28年9月30日資料作成
大倉喜八郎が福神漬300樽を寄贈している。
『留守第4師団より大倉組よりの献納福神漬の件』
日清戦争が終わったのが明治28年4月だがどうして留守部隊だった大阪の第四師団へ大倉喜八郎の大倉組が福神漬を献納したのだかわからなかった。
この当時の直前大阪第四師団の師団長が北白川宮能久親王で明治26年から赴任していた。北白川宮能久親王は上野戦争の時は輪王寺宮であった。日清戦争が始まり明治28年1月15日に有栖川熾仁親王が亡くなると兄の小松宮が直ちに参謀本部長となり、弟の北白川宮は第四師団長を免ぜられ近衛師団長となり広島に赴任した。5日後、日本と清国は休戦した(3月15日)。
日清戦争後の福神漬献納はどんな意味があるのか?
日清戦争は明治28年4月頃休戦となるがその年の9月に大倉組が留守第四師団に東京名産福神漬を300樽献納したいという書類があった。明治28年1月終わり頃大阪にあった第四団の師団長は北白川親王(元輪王寺宮)で2月に近衛師団に移り、4月に中国大陸に行き、情勢不安となった台湾に六月初め向った。日本軍は台湾を制圧するのに苦労し、宮は10月28日台湾で死んだ。
大倉喜八郎の大倉組が献納した福神漬は宮が行った近衛師団と共に台湾に向ったのだろうか。大倉喜八郎は明治の当時から「死の商人」と知られていて、大阪の第四師団に福神漬を献納したのは何か意味があったと思われる。何しろ上野戦争の時、大倉喜八郎は武器を両者のところに販売していたので、下谷池之端「福神漬」の意味があって献納したと思われる。