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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語 70日本郵船100年史

2010年01月21日 | 福神漬
日本郵船株式会社百年史. 昭和63年刊行であるが、昭和57から58年頃百年史のためのエピソード募集が社報『ゆうせん』に載っており、カレーと福神漬の話が昭和60年の社報に出ている。いわゆるカレー本の福神漬とカレーの関係の記述はここから始まったのではないのだろうか。昭和60年は何かと日本郵船の創立100年ということで注目されていて誰にも無難な話題として、社報『ゆうせん』の記事を引用したのではないのだろうか。
 瑣末の事柄は歴史の中では記述されず、福神漬もこの一例で郵船社員関係者の中では周知の事実であったが記述はされてないので郵船歴史博物館の雑学紹介のエピソードもあいまいな表現となっている。
 郵船百年の歴史の中で福神漬はどうして記録にはないか記憶に残っているのだろうか。郵船の始まりと発展は明治日本の御用船徴用の歴史であった。従って社員の意識には他と違う意識があったと思う。百年以上の社史の中で第二次大戦で徴用された商船が攻撃をうけ、犠牲となった船員の数が多数あることを一般人にはあまり知られていなかった。
 その戦没商船の歴史の中で第一次大戦末期インド洋において行方不明となった常陸丸の歴史もあった。日本の商船は軍の護衛も少なく任務についていた。常陸丸の日本から欧州に向かうときの出港の様子は悲壮感が漂っていて、残された家族はただ無事を祈るだけであった。
 常陸丸を捜索に行った船が日本に帰り『酒悦』『池之端』『福神漬』の焼印のある木箱が見つかったとき初めて常陸丸が捕らわれたれたのではなく遭難に遭ったことを感じたのではないのだろうか。木箱の新聞報道があってから20日位たって常陸丸の乗員・船員の生存の望みのある知らせが届き、船長の自決の知らせも届いた。この当時の郵船社員とその家族の記憶に強く残っており百年史の思い出募集に福神漬が出てきたのではないのだろうか。

日本郵船株式会社百年史. 昭和63年刊行であるが、多くの社史を読んでいくとそこには共通の事情が出てくる。それは都合の悪いことや社史編纂時期にあまり重要性が感じられない事項はあまり記述されないか、またはあっさりと触れている。時代や時期によって法規範に反する行為となって記述されないこともある。

円朝の落語『七福神詣で』は明治30年代始めの豪商・金持ちをめぐる話だが円朝の貴紳士交友振りが知られる。福神漬は明治20年代では当時としては高価な漬物で販売するにはかなりの努力を要していて、結果として広まったのだがその過程は今でも不明で想像推測でしかない。
缶詰価格
明治の当時の缶詰の価格は1缶が20銭から35銭で、白米1升が7.65銭であったことから、いかに高価な食品であったかが判る。(出典:日本缶詰協会創立80周年記念「缶詰業界の歩みと団体の活動」)この物価は明治何年代か解らない。明治時代物価が連続的に上昇したのは日清戦争からである。
白米一升は約1.5kgなので今の米の小売価格が10kg3000円とすると一升は約450円となるので缶詰の価格が1350円以上となる。福神漬がこの様な高価格であっては一般の人には販売するに困難であっただろう。この様な高価格の福神漬缶詰を食することが出来るのは料亭等に出入りする人しか考えられない。
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