goo blog サービス終了のお知らせ 

 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語 64

2010年01月15日 | 福神漬
日本の実業家―近代日本を創った経済人伝記目録
日本工業倶楽部編集より

浅田正文の履歴は戦前発行された伝記本を圧縮し、まとめたように思える。明治18年日本郵船発足とともに会計支配人となり、22年理事。会計課長、函館支店長を勤め、26年郵船専務、29年川崎八右衛門(川崎金融財閥)創始者と共に東武鉄道を創立し、相馬半治・小川鋪吉(日本郵船取締役)と森村市左衛門(森村財閥の創設者)共に明治製糖を創立に参画して取締役に就任、他に帝国商業銀行・東京建物に創立や経営に関わった。相馬半治は後に明治製菓株式会社の創業者となる。
 慶応義塾出身等のことは記述されていない。浅田の経歴はどう見ても経営者と見るより会計支配人として見たほうが良いのだろうか。
 三遊亭円朝の落語「七福神めぐり」に出てくる財界人になぜ浅田が入っていたのだろうか。

 明治時代の役員・取締役は今の経営者と違って無限の責任を負っていたようで責任をとると言うことは財産を失うことになることを求められていた。後に帝国商業銀行での失敗により、浅田の文献が少ない理由かもしれない。
東武鉄道の創業時の本社は最近再建された三菱1号館に事務所があった。浅田正文は創立者12人の中で浅田は取締役にもならず、さらに一番出資金も少なくどうして検索すると東武鉄道創立者の上位に出るのでしょうか。
 第三代日本銀行総裁の川田小一郎が産業振興のため国家的事業のため株券を担保として資金を融通する金融機関の設立を企画し、横浜正金銀行で手腕を発揮していた原六郎を帝国商業銀行の頭取として迎えるようにしました。また川田は元日本郵船におり、浅田は郵船の経理を担当する部下であった。従って東武鉄道が創業時丸の内三菱ビルの一画の中に事務所を置いた理由は理解できる。
 浅田正文は明治22年4月日本郵船理事、明治26年12月専務取締役、翌明治27年3月取締役に退いた。明治29年6月東武鉄道の創立願いの書類の署名した12名のうち一人。そこには浅田正文の住所として下谷区茅町2-16となっている。
 明治31年7月の萬朝報のスキャンダル報道のとき浅田は帝国商業銀行取締役兼支配人だった。浅田は郵船の取締役期間は22年の長きにわたるという。
明治45年4月19日東京朝日新聞の記事より
浅田正文氏逝去
日本郵船元取締役浅田正文(せいぶん)氏は薬石効無く神田区鈴木町一の別邸において逝去せり。享年59.
 氏は遠州横須賀西尾家の臣にて明治7年三菱会社会計課に入りしか将来計数に明らかなる人ならば簿記法を応用してよく出納を整理せるは日本において西洋簿記を活用せるは氏をもって嚆矢とする。云々
 前年の10月に病気が発見して治療中であったが10日にすべての役職を辞職し葬儀の手配をして亡くなったという。
死亡記事は次に彼の関係した会社が列記している。日本郵船・明治製糖・加富登ビール・東京建物・神戸電鉄・東洋移民会社等が書いてある。彼の晩年を悩ました帝国商業銀行は記載されていない。明治の5大ビール銘柄で今でも復活していない銘柄はカブトビールだけである。(他はキリン、エビス、サッポロ、アサヒ)
 葬儀は鶴見・総持寺にて執り行われ喪主浅田正吉氏・葬儀参加者は千名にのぼったという。葬儀の記事では正文(まさぶみ)となっている。
 福神漬が郵船に積まれたのはどのような理由であろうか。浅田の紹介で船に積載されたかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする