小原鉄心
浦賀に黒船が来た時、浦賀奉行戸田伊豆守は黒船との対応を過去の幕府の対応方法をよく知っている浦賀の与力にまかせ、自身は見物人等によって不測の事故が起こらないように予てから要請していた親戚筋にあたる大垣藩に連絡をしました。異国の軍隊が戦争を開始する口実を与えないためでした。これは以前アメリカ商船モリソン号が浦賀に来た時、幕府の異国船打ち払い令によって砲撃していたため、次回の来航時に砲撃すれば反撃する可能性があるという情報がもたらされていました。
戸田の要請を受けて小原鉄心は黒船来航時に大垣藩士130名を率いて浦賀の警備に向います。戸田氏栄と小原はペリー退去後、様々な状況を話し合ったと思われます。外国艦隊を見た小原は大垣藩にて次第に大砲鋳造と軍隊整備に向います。鳥羽伏見の戦いでは大垣藩は旧幕府軍に属しており、小原鉄心は急遽藩論を新政府帰順に統一し、大垣藩は東山道軍の先鋒となった。浦賀の経験から幕府の弱体状況を知っていたと思われる。
高島嘉右衛門(1832-1914)
横浜市営地下鉄の『みなとみらい線』に新高島駅として名が残る人。高島易断の創始者。
高島嘉右衛門は、「ハマの恩人」といわれ、天保3年(1832)、今の東京都中央区銀座に材木商の子として生まれる。
後に開港後の横浜でガス・水道・電気事業のほか高島学校の設立・易学の普及など文明開化的事業を行い、数多くの功績を残した人物。これらの事業の中でも代表的なものが、その後の横浜の発展に大きく貢献したといえる鉄道用地の埋立事業。彼の埋め立てた土地付近の地名が旧東横線高島駅となっていた。高島嘉右衛門の姉が嘉永3年大垣戸田藩に行儀見習いとして勤め藩主の子を宿した。この子が戸田欽堂で明治13年日本に最初の政治小説を書いたといわれる。
明治5年新橋横浜間の鉄道開設に活躍した関係から、まだ史料が見つかっていないがペリー来航時,浦賀奉行だった戸田伊豆守氏栄の3男、長井昌言が工部省鉄道寮に勤めていたという。残念ながら長井昌言は明治6年に亡くなっていたので文献等がまだ見つからないが事実とすれば旧幕臣だった失業中の昌言を鉄道の仕事を世話したのは高島嘉右衛門の姉の口利きと高島の財力と思われる。長井昌言は鶯亭金升の父で明治6年に亡くなっているのでこの事実は知られていない。
浦賀に黒船が来た時、浦賀奉行戸田伊豆守は黒船との対応を過去の幕府の対応方法をよく知っている浦賀の与力にまかせ、自身は見物人等によって不測の事故が起こらないように予てから要請していた親戚筋にあたる大垣藩に連絡をしました。異国の軍隊が戦争を開始する口実を与えないためでした。これは以前アメリカ商船モリソン号が浦賀に来た時、幕府の異国船打ち払い令によって砲撃していたため、次回の来航時に砲撃すれば反撃する可能性があるという情報がもたらされていました。
戸田の要請を受けて小原鉄心は黒船来航時に大垣藩士130名を率いて浦賀の警備に向います。戸田氏栄と小原はペリー退去後、様々な状況を話し合ったと思われます。外国艦隊を見た小原は大垣藩にて次第に大砲鋳造と軍隊整備に向います。鳥羽伏見の戦いでは大垣藩は旧幕府軍に属しており、小原鉄心は急遽藩論を新政府帰順に統一し、大垣藩は東山道軍の先鋒となった。浦賀の経験から幕府の弱体状況を知っていたと思われる。
高島嘉右衛門(1832-1914)
横浜市営地下鉄の『みなとみらい線』に新高島駅として名が残る人。高島易断の創始者。
高島嘉右衛門は、「ハマの恩人」といわれ、天保3年(1832)、今の東京都中央区銀座に材木商の子として生まれる。
後に開港後の横浜でガス・水道・電気事業のほか高島学校の設立・易学の普及など文明開化的事業を行い、数多くの功績を残した人物。これらの事業の中でも代表的なものが、その後の横浜の発展に大きく貢献したといえる鉄道用地の埋立事業。彼の埋め立てた土地付近の地名が旧東横線高島駅となっていた。高島嘉右衛門の姉が嘉永3年大垣戸田藩に行儀見習いとして勤め藩主の子を宿した。この子が戸田欽堂で明治13年日本に最初の政治小説を書いたといわれる。
明治5年新橋横浜間の鉄道開設に活躍した関係から、まだ史料が見つかっていないがペリー来航時,浦賀奉行だった戸田伊豆守氏栄の3男、長井昌言が工部省鉄道寮に勤めていたという。残念ながら長井昌言は明治6年に亡くなっていたので文献等がまだ見つからないが事実とすれば旧幕臣だった失業中の昌言を鉄道の仕事を世話したのは高島嘉右衛門の姉の口利きと高島の財力と思われる。長井昌言は鶯亭金升の父で明治6年に亡くなっているのでこの事実は知られていない。