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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

記憶の劣化で過去のブログをこれから直す

2024年01月22日 | 福神漬
時々GOOブログから掲載基準の改定メ―ルが届く。過去にさかのぼると今では不適切と思う部分もある。そこで訂正を始めたのだが、これは遺品整理に近く、なぜこんなことを書いたのが思い出せない。それでも続けていると概要が判ってくる。また調べたことが適切かの疑念が沸く。人生という泥沼のヘドロから浮かび出る泡が出ては消え、また次の物が出る。そして出た泡を分析すると、何か根拠のありそうな事例もある。
 特に本人が書いた自伝でも記憶の間違いがあって、鵜呑みに出来ないことがあった。福神漬の絡みで岩崎弥太郎伝とか三菱地所等の社史で三菱が大坂から東京へ進出した三菱社の住所が南茅場町16とあった。ところが明治10年の南茅場町の沽券地図(中央区京橋図書館郷土資料室)には三菱の住所らしきところには、江戸時代の清酒白雪関係の人物が記載されている。この沽券地図は今の感覚だと固定資産税の根拠となる台帳で三菱の名義となっていない。
 南町奉行時与力の家が残っていた。今の地下鉄茅場町駅は道路拡張によって、位置関係は不明である。築地にいた時に知り合った茅場町の人に聞くと江戸時代から今でも茅場町に住んでいる人は数人という。
 このような後から間違いが見つかるので訂正は必至となる。最近訂正したのは遠山影普を遠山景元にした。遠山景普は長崎奉行・大目付だった。遠山景元は遠山景普の実子として生まれたが、父の景普が遠山家の養子だったため、実子扱いを外され、市中に徘徊するようになり、入れ墨伝説が生まれた。後であとで跡取りが亡くなり、景元が遠山家に戻り、町奉行職になった。このことが庶民の伝説の刺青伝説となる。明治期は生首の刺青、今は桜吹雪の伝説。
 今更思うが福神漬の資料調査でここまで脱線調査が来ると、好奇心と暇な時間が仕向ける。漬物の歴史は文献が少なく、こう調べないと根気が続かない。
 なぜ遠山景元を調べる必要があったのかというとまず築地市場の移転問題の基本は日本橋魚河岸の仕組みから来ている。天保の改革で株仲間が無くなり、嘉永年間に幕閣上層部によって再興が計られた。この時の情報隠しがあって、関係者は老中阿部正弘、遠山景元(南町奉行)筒井政憲(留守居役・元南町奉行職等の少数だった。嘉永3年10月末の高野長英の捕縛時の殺害を調べると、納得のいかないことが気になっていた。
 幕府の法制度では生きて捕縛する。一応文献では抵抗したと言いうが撲殺の様な記録があって、不明。さらに高野を江戸市中で匿った人物が4名捕まり、一人は獄中で亡くなり、三名が伊豆へ遠島となった。この3名のうち、一名が新島流人史で明治維新後の明治元年末に恩赦で釈放されちゃ記録がある。ところが残り二名の記録が東京都公文書館、都の文化財となっている八丈実記にも記載されていない。伊豆七島の流人管理は厳しく、島抜けもあって、記録漏れはあったか、江戸で嘉永3年末に遠山景元によって判決後に亡くなったのだろうか。
コメント
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