親の3回忌を終えて、夜中に思うのだが、自分自身の評価でも実親への介護寄与度は1%も無いと思っていて、遺産協議の時も放棄の方針だった。ここで主張しても寄与度が少ないし、今後にあった時も放棄なら、それほど揉めることは無いとおもう。さらに今後の生活で親の生きている証をどのように残すかと考えると、谷中墓地等を散策していて、関藤藤陰(石川和介)の墓地は消えていて、150年も経てば、消える現実を知った。さらに儒者の墓があるところ記録を見ると女性の子供しかいないところが消えている。ただ文献にその名が残る。
アナログの墓とか寺院とかは今残っているが300年も経てば、無縁墓地となり、寺院も消える。法事の回数も減るし、お経の内容も不明。CDのお経もあって、さらに墓地清掃のサ-ビスもある。管理の無い、自然が豊富な墓地は雑草の行き場であっという間に草で覆われる。法事で冗談でビックモ-タ-で使っていた除草剤を使ったらと言ったが誰も笑わなかった。
長い介護で短い介護でも、当事者は亡くなっていて、評価を聞けそうにない。そこであの世とか来世という言葉で非現実の世界を作り出し、そこで生きている世の評価を移転して、人生を動かそうとしている。それは人の顔を鏡に映して見ていると同じである。鏡に映っている像は自分で無いと知っているのに表情が鏡によって見えている。
まだ介護施設でお客様満足度1位という宣伝を聞いたことが無い。何かネット情報で地方の特養が空室が出来そうで、自由度の高い老健を増やしているという。近所の保育園の様子も少子ということでずいぶん変わった。
介護は終わって見て評価が始まるのでなく途中でも他の人の評価が加わる。多くはすれ違いとなる。いや全部が評価のすれ違いとなる。そこに評価が安定するには自分の予想では長い時間が必要と思うが、多分日常生活で忘れるということでわだかまりが消えると思う。ただ例外的な事例があって、その後の不幸で消えない人も出て来る。これがまた怨念というやつで消し去ることが難しい。