年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

江古田会談での脱線会話

2024年01月18日 | 宅老のグチ
廃業した元の同業者との長時間の雑談で色々な話題に変化した。今の状況を聞くと忙しいという、何故忙しいかを聞くと介護という。モスで会った理由も彼の配偶者が介護で施設に入所していて、発熱等があった時に、施設から連絡があってすぐに駆け付けるので、遠くに行けない。用のある時は当日の健康状態を把握して、子供に連絡を行くようにしているという。
 百を超えて亡くなった母はデイサ-ビスの入浴中に体調が急変し、救急車で病院に行くことが度々あった。このことは築地から離れてから知った。ごくまれで実情を見ていないし、報告も結果のみで深刻さが判らなかった。さらに運ばれた病院での母の態度が入院制度を毛嫌いしていて、点滴後にいつも家に帰りたいとごねて、結果として入院ということは無かったと記憶する。
 介護事業者は規則と手配しなかったことによる訴訟を避けるために救急手配するようだ。さらに彼は相続対策はしないと言っていた。驚くと、理由を聞いて納得した。多くの人は都心に小規模の土地を持っていても資産として安心感が無い。そこで銀行等の提案で不動産の評価値を下げる賃貸マンション計画が出る。だが実際は高齢入居者等の死亡、家賃不払い、残置物等々の問題で利益率は良くない。
 JR新橋駅付近には多くの小規模オフィスビルがあって、設備が古く、さらにトイレ等のきれいさで新築ビルに負け人手確保時に困るという。確かに築地いた時は求人してすぐそばまで来ていてもトイレ清潔さで戻った人もいた。当然古いビルは安さで維持するしかなく、中央区港区の大きなビルは買収の歴史でもある。
 従って彼は相続の時に、駐車場としていて未使用地を処分して税金を賄うように指示しているという。不動産の価値は買い手があって成立する。相場が下がっている時に売るには難しいし、そこが適切価格と判らない。今の中国の不動産の下がりは日本の例から下がって、政府の対策が行われ、上がり、また塩漬負債を上がった不動産で処理する。これを日本は30年繰り返し、やっと株が元に戻りつつある。どこが底だったかは今は解るが当事者は大変だった気がする。
 金額は少ないが中国市場で日本株ETFが買えるということで売買ストップ高という。今度の2月の春節でトランク詰められた福沢諭吉が大量に戻ってくる。来年になれば渋沢栄一で福沢の帰国が日本では目立ってしまう。中国政府が経済数字をいじくっているのは日本とかアメリカは理解しつつあるが、中国人民は政府を信頼している。これは日本の先の戦争の大本営発表を信じ切っていて、勝利報道で作戦計画をまちがった時もあった。
 日本が負けてすぐに食が困難になったのでなく、本土決戦用の食が出てきていたが敗戦直後から日本領土だった台湾・朝鮮と満州から食料が来なくなった。さらにその地域から日本人が引き揚げてきた。配給だけで生を保っていた裁判官が餓死したのは昭和22年だった。山口 良忠(1913年(大正2年)11月16日 - 1947年(昭和22年)10月11日) 
 本当に食の危機は昭和22年の時だろう。でもこの年の出生者数は戦後の最大だった。いわゆる団塊の世代の始まり。その後数年は出生者数は多かったが次第に減っていった。多産多死の戦前から、多産少子になり、サンガ-夫人の活躍も記憶に微かに残る。
 産児制限運動の勝利だろうが少子になった今の評価は変わるのだろうか。出生児数はいじくると移民の少ない国は訂正に難儀する。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする