年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

べったら市余談⑥ サッカリン

2006年10月15日 | 宅老のグチ
昭和9年6月24日朝日新聞 夕刊
インチキ多き世かな
酒を良くする薬 何のこと“サッカリン”
目黒区xx町OOは郷里新潟で酒屋をやっていた経験があり、昨年上京しサッカリンを水に溶解し1ポンドづつビンに詰め図々しくも「内務省衛生試験所検定済」のレッテルを張り悪い酒を良くする素と称して東京市内や横浜方面に欲張り酒屋160軒に一本5円ないし10円で売ったが酒は良くなるどころかかえって苦くなり悪くなって酒屋は真っ赤になって怒っておった。同人はこのほど州崎署に御用となり青くなった由。

不景気で水増しの酒が出回り始めていたのだろうか。このような姦商によってサッカリンのイメージは悪く報道され今でも続いている。
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べったら市 昭和6年②

2006年10月15日 | べったら市
昭和12年9月30日東京朝日新聞
荻原井泉水
日本食の缶詰
アメリカに来て日々の洋食に閉口すると思っていたがかの地に住む日本人諸君によって「日本食」なるものでご馳走になり今ではうんざりしている。
 もちろん日本食は結構な物であるがこの地の日本食は日本で食べるのと大分違うのである。
 吸い物のハマグリは日本から来た缶詰である。煮付けのしいたけ、蒲鉾。クワイ、沢庵、なら漬、みそ漬も日本から来た缶詰である。こんなまずい缶詰を食べるより当地の新しいトマトやレタス等を使いあたらしい料理を考えた方が良いと忌憚のない意見を話したのである。しかし彼らは一生日本に帰れないのだからせめて食物において、日本を身内に取り入れようとするのだ。彼らが比較的高い値段も苦にしないで日本産の缶詰を愛好する心理がここにあることがわかった。正月のモチ、天ぷらもあるという。私はこの地にカンヅメとなっている人にせいぜい美味しい日本食の缶詰を送って喜ばせたいと思う。
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べったら市 昭和6年

2006年10月14日 | べったら市
昭和6年10月20日朝日新聞
べったら市の延期
江戸の名残りの日本橋大伝馬町吉例のべったら市は19日開かれる予定であったが雨のため順延される。
べったら市に順延と始めて見る記事。ボロ市はかなり順延があった。べったら市は雨が多いので逆に順延が少ないかもしれない。
昭和6年は満州事変が勃発した年でこの頃から戦時の商品の動きと不景気のせめぎ合いとなっていく。9月に満州事変が勃発すると軍需食品でもある梅干は相場が強くなった。
今ではあまり見かけないが漬物の缶詰がかなり出回っていて、特に福神漬は多かった。京橋にあった河村与兵衛商店には浅漬の缶詰があった。当時のレッテルが“練馬の商品作物と漬物・練馬区郷土資料室編集”という本に載っています。浅漬の缶詰の中身はべったら漬だと思いますがどんな味がしたのでしょうか。今では浅漬の缶詰はありません。グアム島やサイパン・パラオ諸島が日本の領土であった時かなり漬物が輸出されていて現地の住民も馴染んでいたのでしょうか沢庵は食べるようです。ただかなり甘辛く味付けし直していて食べるとびっくりすると思います。グアムの日本食販売の人の話です。

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昭和4年・5年・6年の景況

2006年10月13日 | 趣味としての漬物
昭和4年・5年・6年満州事変が起こるまでの漬物の景況
昭和4年の漬物の景況は世間の不況が追従し、夏期の天候不順でも成績は良くなかった。秋のベッタラ用大根の不作は高値であったが世間の不況に押され大損害をこうむった。つまり高い大根でベッタラを作っても高くて買う人がおらず投売りしたと言うこと。さらにタクワン用大根を干す時に暖冬で不良干し大根が大量に出、大損害をこうむった年であった。
 年が変わって昭和5年になっても不況は続き、漬物業界は常に販売不振となり困難を極めた。その理由として日本各地の行政当局は農家を保護するため蔬菜の栽培を促進した。従来、東京市場には関東近郷の蔬菜しか入荷がなかったが鉄道・自動車の発達によってより遠距離から東京に入荷するようになって来ていった。特に保存食である漬物(タクワン)は遠距離輸送がきき、関東で大根が不作で高値であっても、日本各地から高値で取引している東京市場に向けて,出荷してきて東京の産地である練馬の沢庵業者・沢庵農家を悩ました。平均価格が6割くらいの値段になってしまった。野菜の価格の低迷は一方では原料漬物の原価が安くなったということになるので翌昭和6年を期待して漬け込みを増加した。
 
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べったら市余談⑤ 露店

2006年10月12日 | べったら市
べったら市余談 露店
戦前から昭和26年末まで中央区の銀座辺りには夕方から夜遅くまで歩道に常設的に露店が出ていましたが今は“縁日露店”しかなくなっている。
東京都中央区史によると東京の露店の歴史は明治15年・明治30年・昭和24年にそれぞれ露店の撤廃令が出ている。
明治15年は① 露店商同士のケンカ沙汰
② 販売している飲食物の不衛生
③ 外国人に対する体裁上。特に銀座は目障りだった。
以後鑑札制度等によって続く
明治30年はいかがわしい商品の販売と露店商同士の目に余る喧嘩沙汰(主として場所取り争い)

昭和24年 進駐軍の婦人たちが銀座等の飲食物の不衛生な露店を見、GHQに働きかけ、昭和26年末に常設的な露店は禁止された。

明治15年と昭和24年はいわゆる外圧を口実としていた露店の撤廃を目指した。

べったら市は特殊露店慣行地で年中行事として一定の時期に立てることを認められた地域にあたる。
中央区史によると
露店は遊びに行く所・散歩する所で売るのが当時の世相。そして市のように商品を並べるだけでは売れない。露店は買ってもらうより、買わせる、売りつけるというのが商売の鉄則。
 露店は常に店の位置の変化があり、目新しい商品があり、変わった方法で販売する。例えば“バナナの叩き売り”など。加えて子供向きの各種飲食物玩具が介在することで初めて露店らしい雰囲気が出る。これが露天の生命で、露店を冷やかして見る気を起こさせ、いつの間にか買って見る気持ちを起こさせるのである。
 昭和6年、中央区の縁日露店の数と昭和30年の縁日露店の数を比較すると戦後は戦前の四分の一の数となっている。べったら市は中央区で開かれる縁日露店の数は平成の今でも一位である。
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昭和の初めの景況

2006年10月10日 | 趣味としての漬物
昭和の初めの頃の漬物の景況
 大正15年12月25日で終わり昭和元年12月25日から始まりました。昭和元年は一週間ほどしかなく直ぐに昭和2年になりました。このころになると食料品商という業態が出現した。色々な食品を店頭に並べ販売する商店を「食料品商」と改称する人が現れた。
 昭和2年の漬物業界は家庭において日常欠くべからざる食料品であるが故他の商品と違って不況の影響は少なかったが製造者卸売業者は金融関係で影響を受けた。漬物の原料の蔬菜は平年作で価格も低廉であったため漬物類の生産が盛んであった。梅干は夏の収穫時期は不作であったが、日本各地で梅樹の増殖が盛んになり、それによる増産によって価格が数年前の半値となってしまった。
 昭和3年になると俄かに漬物にサッカリン使用が社会問題となった。
 近年,沢庵に甘味料としてサッカリンを使用するものがある。ことに青物市場にはこれが甚だしく、この影響で正業者が非常な打撃を受けている。漬物組合はサッカリンを使用しないと決議し注意書を配布した。
 漬物組合長は警視庁衛生課課長と面会し、サッカリン取締の方針を質した。
衛生課長の答えは
「サッカリンが有害であるか否かは未だ確実に研究されていないが法規上充分に取締ることになっている。しかし、経費予算の関係上、目下係員が不足のため徹底的に取締ることが出来ないが発見しだい厳重に取締る」と言明した。
昭和3年の商況は前年の大根の不足と夏期の野菜の不作で漬物の売れ行きは良く、世間の不景気の中で順調な年であった。
 サッカリン問題の対処するため全国的な組織の作成の必要性が生じ、後に全国の業界が結集し、昭和8年大阪中央卸売市場で史上初の全国漬物大会が開催された。
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べったら市 昭和3年②

2006年10月09日 | べったら市
昭和3年10月19日都新聞
べったら市近づく
浅漬の良否とその見分け方
昨今浅漬が大分漬物屋の店頭に現れて来ましたが、まだ浅漬としても本当の味が出ていないようである。元来浅漬は原料となる大根は初めは美濃早生を用い、中頃から俗称大根を用いるのでありますが両方とも秋大根に比べて品質が劣っているのであります。一体浅漬の良否は原料によってその品質に関係することが多いのでありますから如何に作業その他に熟練していても原料が悪いと良品を得る事が出来ません。ことに浅漬は漬け込み時にいまだ気温が高いから原料が悪いとすぐに酸味をおび浅漬として価値がないようになるものがあります。今参考に原料品について述べてみますと大根の大きさは小さい物より大きい物が良い。なお、近頃砂糖の代用品としてサッカリンを混入して販売している物が非常に多い。注意しなければなりません。サッカリンで味付けたものは甘苦い感じがいつまでも残りますが砂糖で味付けた物はほんのりと甘味を感じて、それも舌に残らずあっさりと消えます、また味としては樽の上の方や底の方にあった浅漬はよろしくありません。中間のところが美味しいわけです。

俗称大根とは何のことか解らない。
当時は冷蔵庫で漬け込むことはなかったのでかなり製造が難しかった。
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べったら市 昭和3年①

2006年10月08日 | べったら市
昭和3年10月19日朝日新聞
行事予定
19日べったら市・・・とあるのみ

関東大震災の少し前から新聞の漢字制限の議論が深まり、大正14年頃から具体的になり、昭和に入ると急に“べったら市”の記事が少なくなり、昭和に入ると“漬”の字が消えた。
 この頃の記事“浅づけ・浅ヅケ”という表記に変わりCDロムの記事検索に浅漬では出てこなくなり、もちろん“くされ市”では何も出て来ない。
 戦前の漢字の字数は5万字以上もあり、欧米に学問で追いつくために学校で教える教育漢字を減らそうという動きは明治時代からありました。漢字を教える時間を減らし、他の教科の時間を増やしました。それでも明治時代の小学校で教える漢字の数は非常に多かった。当然、新聞記事の漢字は多く熟練した組版工が多数必要となりました。明治の新聞のページ数は少なくかったが昭和の頃はページ数も多く時間に追われて大変だったでしょう。
 戦後当用漢字表に“漬”の字がなかったため、法律や新聞記事には“つけ物”と書かれた。今(漬物・つけ物・漬け物)と書かれるのはこの混乱の影響である。なお、今は常用漢字表に”漬“が入り(不動産の塩漬)などにも利用されている。
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べったら市 大正時代のまとめ

2006年10月07日 | べったら市
大正時代のべったら市 まとめ
大正時代は第一次世界大戦後の本格的不況・恐慌が日本に来た(大正9年3月)まではべったら市は雨さえなければそこそこの売れ行きだったが時折サッカリンの等を添加したり、甘酒をまぶしただけの大根を売ったり、不正販売の記事が出ていたが総じて交通網の整備と景気の良さで売れていた。べったら市の風習といえるコウジをなすりつける風習は取締りによって消えていったと思われる。
 大正9年の恐慌は日本橋一帯の経済を不振とし、大正12年の関東大震災によって,日本橋区(今の東京都中央区日本橋)は火災で殆どの家屋が焼失し、震災後地震の被害のない関西の商人によって東京進出が始まり江戸以来の恵比寿講のための市であるべったら市は本来の意味を失い一時代が終わった。大正の末頃よりべったら市の記事が減り、昭和に入るとべったら市の記事がマレとなった。あってもべったら市の予告のような記事が増える。
 大正期は
1. 米の需要が都市部で増えた
2. 所得の増加によって麦食から米食を求めるようになった。
3. 大正期の食文化と言われる洋食の普及は象徴であって、庶民までは普及していない。
 米食の拡大と都市部の軍隊・工場・寮等での漬物需要の拡大が大根の需要の拡大を招き、各地の農会は大根栽培を奨励したと思われる。ただ、都市部に於いては蔬菜の価格の低落時には各家庭で漬け込んでいて、漬物業者を泣かせていた。べったら市の大根の価格は大根栽培者にとってかなり刺激的な値段と思われ、この時代に日本各地において大根の品種改良が行われたり栽培指導が農会によって行われた。
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べったら市 大正15年

2006年10月06日 | 宅老のグチ
大正15年10月17日都新聞
この20日は恵比寿講
東京での誓文払いの復活
この10月20日は恵比寿講ですが昔はこの日商家では西宮大神宮を祭り神前に神饌・神酒や鯛などを供え、酒宴を開いて客人を招いて即売し商売繁盛とばかり倉を開いてこの日だけ利を薄くして品物を安くし多くの衆の便を図ったものです。これを誓文払いといいますが江戸時代はこのためにわざわざ西京辺りから色々な品を持ってきて、京の商人が書きいれ時と江戸八百八町を賑わしくしたと伝えられてます。しかし、こうした風習も江戸が東京となってから殆ど廃れて、今日ではわずかに関西方面で遺風が伝えられているようです。

このころ関西系の百貨店がしきりに恵比寿講に掛けて「誓文払い」の復活を図ろうとしていた。
昭和4年10月20日都新聞
今日10月20日は恵比寿講である。この恵比寿講は昔大江戸の時代は商人の大祝日として盛大に祝われたものであるが今ではかすかに残るくらいで京大阪の方が盛んである。この日大呉服店では恵比寿布称した布をいろいろ安く売る。この布を使って財布を縫うと金に不自由がないというのである。なお京阪各神社仏閣では参拝者に宝船をわける。この収集家で大分繁盛する。東京でも各百貨店がこの恵比寿講の普及に努めている。
べったら市は恵比寿講のために供える品を商うために始まったが何時の間に恵比寿講が廃れ、べったら市だけが残った。
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大正14年 景況

2006年10月05日 | 趣味としての漬物
大正14年の漬物の状況
大正14年の漬物組合員は減少した。その理由として、蔬菜の安値で乱売競争に陥った状況をどのようにするかの問題で組合は分裂した。
 13年より持ち越した漬物によって年前半期は不景気とともに需給の調節に誤り乱売となり価格の低落となり売上高の減少となった。
 下期は夏の野菜の不出来で少し持ち直したが総じて大正14年は一年を通じて不況だった。梅の実は全国的に大豊作で梅干が多量生産となり価格が暴落した。
 この年の報告書によると翌大正15年度も価格の低迷は免れず、経済の状況の回復を待つのみとなっている。
 この頃になってやっと天候や野菜の作柄の影響と世間の景気が連動して来るようになった。都市において徐々にではあるが専業のつけ物製造者が誕生し乱売となった。さらに鉄道網の整備は販路の拡大と共に他府県の漬物が東京に乱入し価格統制がきかず、不正品がはびこるようになる。また、不景気のため価格の安い物を求める購入者の要求に対応するためでもあった。東京は日本の中心で新聞によって意図的に不正品の摘発報道がなされ、特にサッカリン混入の摘発はしばしば行なわれた。大正の終わり頃から昭和の初めには砂糖の自給が出来たのである。(当時は台湾が日本領土)政府は砂糖による税収が確保と国内自給で砂糖輸入による外貨節約になった。
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べったら市 大正14年

2006年10月04日 | べったら市
大正14年10月20日都新聞
浅漬の漬け方を教えてください
大根のスのない良いのを選びさっと干し(三日ほど)、大根30本について塩6合位コウジ一枚ないし二枚位なら間違いないと思われます。まず一通り塩とコウジを容器の底に敷き、大根を並べて、その上に塩とコウジという風に順々に重ねていきます、すっかり漬け終わったら初めの一週間くらいは重い重石をし。後の一週間は重石を軽くして二週間目くらいには食べらるようになります。
大正14年10月20日都新聞
賑わうべったら市
東京名物の一つ日本橋大伝馬町のべったら市は19日例年の如く開かれた。小伝馬町・堀留町通りと宝田神社付近一帯は両側の道を挟んだ露店の賑わい。黒襟に桃割れの髪の下町娘たちの人出で身動きならぬほどの。去年の浅漬大根はサッカリン問題で騒いでいたので今年は戸毎に堀留署の厳重なお調べ、それでも“うれるわー・うれるわー”一本20銭・30銭・40銭という風に飛ぶように売れてゆく。昔名残の江戸情緒がしのばれて面白い。
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べったら市 大正13年

2006年10月03日 | べったら市
大正13年10月18日都新聞
復興するべったら市
明19日は日本橋区大伝馬町宝田神社のべったら市である。昨年は大震災で同神社も丸焼けとなったが神体を安置していた土蔵造りの神殿だけは焼け残り左甚五郎作と伝えられている恵比寿像も無事で新築の拝殿の落成記念を兼ねて当日は参詣者で賑わうべく吉例の福財布の外、本年は特に恵比寿の神殿を掛けたものにして頒布するという。当日は堀留署では久松署・新場橋署の応援を得て雑踏を取り締まるという。

宣伝広告より
べったら市
10月19日より売り始め
切山椒 日本橋通はたご     梅花亭

大正13年10月20日都新聞
警察が漬物の山
甘味料にサッカリンを混入した浅漬をことごとく押収する。
昨夜の日本橋べったら市は非常なる賑わいにてすでに午後6時頃から交通を遮断した程で8時頃には混雑の絶頂であって9時過ぎに至って雨のためさすがに帰っていく人が多かった。昨夜の警視庁衛生部より技師を出張し浅漬屋の大検査を行い、深川清住町の青物商xx及び本所区緑町青物商が本所の江東市場より仕入れた物、府下尾久町xx、府下三河島xx,自家で漬けた者外十数名の浅漬は何れもサッカリンを混入していたことが判明し全部久松署に押収した物で同署は浅漬の山を築いたほどだった。

大正13年の漬物業界
前年の関東大震災で一般家庭で漬けていた自家製の漬物が欠乏した結果、漬物を購入せざるを得なかったため売れ行きは順調であった。
 漬物類の生産は梅の実の不作と夏期の旱魃によってシソ(着色用)とショウガの減産となり梅干の市価が高騰した。秋期の大根の出来は不作が予想されたが天候が持ち直し豊作となった。それ故沢庵漬及び菜漬は漬け込み生産費が半額となった位で近年稀なくらい不景気となっていった。

年末に至り東京府では北豊島郡の出荷組合の組織計画が進む。
「練馬大根・練馬沢庵」のブランド化計画のはじまり

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 大正12年 漬物の市況

2006年10月02日 | 築地市場にて
大正12年の漬物業界の報告から
関東大震災前後の状況
大正11年の農作物の不作によって蔬菜が高く、前年の野菜安による漬物原料の豊富で仕入れ価格が低価格であったため相当売れ行きがよかった。
 しかし、大震災の後の不振は幾分不況のせいかと思われた。年前半期は大正11年に原料野菜が安く種類によって生産過剰なものがあってゆっくりと価格が低下していたが9月1日の大地震と火災は漬物の需要を一変させた。東京市内の漬物業者の在庫品は殆ど焼失し、その量は多大で品物によっては他の地域から補充の当てもないものがあった。そのため漬物の商品の価格も暴騰した。その後日本各地から救援の漬物等が入ると需要を補った。しかし、救護の商品の配給は供給が充分になると漬物の販売不振となった。
 火災を免れた同業者は罹災者の需要が集中し一時的に非常なる活況を示していた。しかし、火災の後罹災者の住宅建設が中々進まず、住民が少ないため、以前の状況に至るのはかなり難しいと思われていた。
 この大震災で漬物組合員関係者353名の死者が出た。
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べったら市 大正11年

2006年10月01日 | べったら市
大正11年10月17日都新聞
今年は浅漬がやすい
いよいよ19日は東京年中行事の一つであるべったら市である。堀留署は例により久松・新場橋署の応援を求め本部を小伝馬町の祖師堂境内に置いて警戒ことになった。名物の浅漬大根は今年は上出来で昨年は一樽25円から26円が一樽22円から23円、小売は昨年百匁35銭~36銭前後から20銭~30銭で昨年より約2割方安いが日照り続きであって大根にス入りが多いという。

大根のス入りとは大根の芯(しん)にできる空洞。空洞の周りは硬い。

大正11年10月19日都新聞
「魚を召せ」と市内大宣伝
コレラのたたりから3週間近い休業で魚河岸は墓場のよう。さすがの江戸っ子も青息吐息、魚市場500余軒の問屋と市内7000の小売店た一万人のボテ振りと河岸の小揚・軽子2000人とか日干しとなる。
 コレラも下火の今日この頃安心して魚も食えるからと市民諸君に人助けの意味で魚を食ってもらいたい。ということで大日本水産会は20日ごろ50万枚のビラを撒いて「魚を食え」との宣伝をするそうな。
江戸時代魚や干物(ひもの)を天秤棒(てんびんぼう)でかついで売りにくる人を「ぼて ふり」とよんでいました。しかし、平成の今でも築地にはボテ振りの人がいます。天秤棒の端に発泡スチロ-ルをぶら下げて運んでいます。荷傷みが少ないのでしょうか。
小揚・軽子とは魚河岸市場内の荷受作業・配送者を示す用語。
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