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■ レイ・ブラッドベリの短編集『10月はたそがれの国』(創元SF文庫)。手元にあるのは2004年61版だが、初版は1965年と、古い。版を重ねて長年読み継がれている名作。19作品を収める。
レイ・ブラッドベリはSFの抒情詩人と評される作家。短編作家とも言われるが、『華氏451度』のような長編の名作もある(過去ログ)。
『10月はたそがれの国』は読んでも読まなくても、書棚にあるだけでよい。ぼくにとってそんな本だ。
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■ レイ・ブラッドベリの短編集『10月はたそがれの国』(創元SF文庫)。手元にあるのは2004年61版だが、初版は1965年と、古い。版を重ねて長年読み継がれている名作。19作品を収める。
レイ・ブラッドベリはSFの抒情詩人と評される作家。短編作家とも言われるが、『華氏451度』のような長編の名作もある(過去ログ)。
『10月はたそがれの国』は読んでも読まなくても、書棚にあるだけでよい。ぼくにとってそんな本だ。
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■ 『なつかしい町並みの旅』吉田桂二(新潮文庫1987年2刷)。著者の吉田氏は建築家で全国各地に残る古い町並み(私は街並み、あるいはまち並みという表記の方が好きだが、書名に倣う)を7,80年代に訪ね歩いた。この本にはその中から選んだ、あまり有名な町並みを避けた26か所の紀行文を収録している。それぞれ数点ずつ繊細なスケッチが掲載されている。1枚だけ茅葺きの民家が連なる通りに火の見櫓が立っているスケッチがある(*1)。カバーのスケッチも吉田氏が描いたもの。
まえがきから引く。
**旅の楽しさは、見知らぬ土地を訪ねて自分なりの発見をすることだと思う。(中略)旅で何を発見するか、それは人によって違うはずだ。対象はこの本のように町並みであってもよく、あるいは食べ物であって焼物であっても、何でもよいが、日頃から自分が関心をもつことでなければ何も発見できない。見れども見えずということで終わる。関心の動機は興味だから、自分が興味をもつ対象への理解を深めるほど見える範囲がひろがってくる。**(下線は私が引いた) 全くもってこの通りだと思う。私も同じことを自著『あ、火の見櫓!』に**火の見櫓に関する知識を得て火の見櫓が見えるようになったのです。**と書いた。
この本には南洋堂という建築図書を専門に扱っている書店のシールが貼られている。上京した時に買い求めたのだろう。
マスク無しで旅行ができるようになったら(って、そんな日が来るのだろうか・・・)スケッチブックを持って旅行をしたいものだ。
鈍行列車で行くのんびり旅。荒涼とした日本海を窓外に見ながら、ワンカップ(ここは缶ビールではダメ)をちびちび飲む。あぁ、人生って寂しいものだな~などと思いながら・・・。
鄙びた宿に泊まり、スケッチをする。風景に火の見櫓があったら好いなぁ。
*1 七ヶ宿(宮城県刈田郡七ヶ宿町)
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『鏡の中の物理学』朝永振一郎(講談社学術文庫1976年第1刷発行)
■ この本も講談社学術文庫の創刊時に刊行された。講談社の力の入れようがこのときに刊行された34冊からうかがい知れる。
**現代の学者・評論家・作家の著作を中心にかつてのベストセラーで現在入手しにくい名著や未刊行の論文・報告書・資料・随筆・講演などオリジナルの書下ろしを含めて収録!
あらゆる科学の基本図書を提供する画期的シリーズ** リーフレットにこのような紹介文が載っている。
引用ばかりで気が引けるが・・・。
**ノーベル物理学賞に輝く著者が、ユーモアをまじえながら平明な文章で説く、科学入門の名篇「鏡のなかの世界」「素粒子は粒であるか」「光子の裁判」を収録。“鏡のなかの世界と現実の世界の関係”という日常的な現象をとおして、最も基本的な自然法則や科学することの意義が語られる。(後略)**
以上ブックカバー裏面の紹介文より。
書名は「鏡の中の物理学」だが、章題は「鏡のなかの物理学」となっている。
■ 『曠野から アフリカで考える』川田順造(中公文庫1980年再版) ぼくはこの文庫本を大学の後輩からプレゼントされた。巻末に送り主のメッセージと810323という日付が記されている。
カバー裏面の本書紹介文を引く。
**気鋭の文化人類学者が西アフリカのサヴァンナ地帯に腰を据えて五年余、大自然の息づかいや、曠野(こうや)に生きる人々の生活様式を背景に、折々の想いを鋭いまなざしと透徹した文体で綴る異色のエッセイ。** 昭和四十九年度日本エッセイストクラブ賞受賞 解説を柴田 翔が書いている。
あれから40年ちかく経った・・・、この本の送り主も今、広い視野に立つ優れたエッセイの書き手だ。
これからこの本を再読しようと思う。
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『狩猟と遊牧の世界 自然社会の進化』梅棹忠夫(講談社学術文庫1976年第3刷発行)
■ 講談社学術文庫の創刊は1976年6月。このとき34冊同時に刊行されている。当時大学生だったぼくにとって、この文庫の創刊は実にありがたかった、と今になって思う。
この梅棹忠夫氏の『狩猟と遊牧の世界』にはさんだままになっていたリーフレットに刊行された本のリストが載っているが、この本の他に3冊書棚にある。
リストを見て梅原 猛氏の『日本文化論』や会田雄次氏の『日本人の生き方』、山本七平氏の『比較文化論の試み』などは読んでおきたかった。もちろんこれから読んでも良いのだが、やはり本の初読には相応しい年齢があるだろう。
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『日本の民俗学』宮田 登(講談社学術文庫1978年第1刷発行)
■ 「ぼくはこんな本を読んできた」には処分しないで自室に残した文庫を載せている。もうしばらく続けようと思う。
女優の樹木希林さんは本を100冊くらいしか手元に置かなかったとのこと(過去ログ)。ぼくも減冊してとりあえず1,000冊まで減らし、更に500冊、最終的には200冊くらいにしたいと思う。その一方で書棚に並ぶ本はぼくの来し方を示すもの、との考えからこれ以上減らすことをためらう気持ちもある。
さて、例によってカバー裏面の本書紹介文から引用する。
**民族学、人類学、歴史学などがそれぞれ多様な展開を示し、日本の民俗学も柳田民俗学の文脈を修正したり復権させたりして複雑な発展をとげてきた今日、これらの変化のあり様を全体的に見直し、将来への展望を示すことは極めて重要な作業である。歴史研究における民俗学の位置づけ、民俗学的視点からとらえる歴史像のあり方に関心をいだく著者が、独自の立場から多岐にわたる日本の民俗学の現状とその課題を提示した待望の新著である。**
20代のころぼくは民家に興味があって(今もあるが)、休日に民家巡りをしていた(過去ログ)。それで民家での人々の暮らしにも関心が及び、このような本も読んでいたのだろう。なお、下にあげた『日本の民家』今 和次郎(岩波文庫1989年第1刷発行)は民家好きの方にはおすすめの1冊。カバーにも載っているが、スケッチを見るだけでもよい。
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■ きょう8月10日は山の日だから山にちなんだ本を載せようと思う。山と聞いて直ちに浮かぶのは深田久弥の『日本百名山』だが、この本は既に載せた(過去ログ)。で、やはり深田久弥の『わが愛する山々』(新潮文庫1978年13刷)を載せる。
深田久弥はあとがきに次のように書いている。**昔から注目された有名な山はあらかた登った。近頃はもっぱらあまり世に知られない、しかし山の立派さにおいては決して有名な山に劣らない、そういう山を探しだしては登っている。** この本にはそのような山、21座の山行記が収録されている。
文庫ではないが山にちなんだ本では『車窓の山旅・中央線から見える山』山村正光(実業之日本社1985年第9刷発行)が書棚にある。この本の著者・山村氏はプロフィールによると、昭和20年12月に国鉄に入り、以来40年間、主に中央線の車掌として新宿―松本間をおよそ4000回乗務したという。山村氏は日本山岳会の会員。
この本は中央線、山の逆旅(車窓からうしろに去り行く景色を楽しむ旅のこと)の記録を収めている。なお山村氏は中央線の車窓から見える山として130座!取り上げている。ちなみにラスト10座は鉢盛山、鉢伏山、鍋冠山(*1)、燕岳、仙丈岳(*2)、王ヶ鼻、常念岳、大滝山、有明山、乗鞍岳。
*1 鍋冠山は松本清張の『火の路』にでてくる。過去ログ
このブログカバーに使っているスケッチのクジラの背中のような形の山(ブログタイトルの下の山)。
*2 仙丈岳は南アルプスの高峰(3,033m)。
*3 北杜夫は『神々の消えた土地』(新潮社)で乗鞍岳について次のように書いている。**塩尻の駅を過ぎると、西の窓に忘れることのできぬ北アルプス連峰が遥かに連なっているのを、係恋の情を抱いて私は望見した。黒い谿間の彼方に聳える全身真白な乗鞍岳は、あたかもあえかな女神が裸体を露わにしているかのようであった。**(84頁)
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『論理と思想構造』沢田充茂(講談社学術新書1977年第1刷発行)
■ 難しい書名だが、若いころはこんな本も読んでいた。内容が理解できてもできなくても読んでいた。この本は1978年12月に松本で買い求めている。
例によってカバー裏面の本書紹介文から引く。
**著者は本書の前半で、確実な知識に到達する合理的な方法としての「現代論理学」の考え方を提示し、歴史的発展過程をあとづけ、後半では、その新しい視点から今日の文明現象を問いつめる。(中略)本書は現代の知的先端に位置する読者に、新しい思索の方法と文明の未来を眺望する視点を指し示す、最も有効な「哲学のすすめ」である。**
講談社学術文庫を読むことはなくなってしまった。脳がすっかり老いて難しい本を欲しなくなった・・・。
読みたいと思う本を読みたいときに読む。それで良い。
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『論理について』笠 信太郎(講談社学術文庫1978年第6刷)
■ 巻末の「講談社学術文庫」刊行に当たってという文章から引用する。**これは、学術をポケットに入れることをモット―として生まれた文庫である。学術は少年の心を養い、成年の心を満たす。その学術がポケットにはいる形で、万人のものになることは、生涯教育をうたう現代の理想である。(後略)**
この本は1979年5月15日に買い求めている。今は講談社学術文庫を読んでいないが、若いころは時々読んでいた。それで良しとしておこう。
**(前略)単なる知識の集積だけの現代の学問を反省、人生のための知識と知恵をいかに築いていくかを明快にとき、一人のすぐれた知識人の生き方をおのずと伝えてあますところがない。幅広い教養と豊かな人生経験に裏打ちされた深い洞察は混迷の現代を生きるわれわれに貴重な示唆を与える。** カバー裏面の本書紹介文より。
『星を継ぐもの』ジェイムズ・P・ホーガン(創元SF文庫2017年99版)
**月面調査隊が真紅の宇宙服をまとった死体を発見した。すぐさま地球の研究室で綿密な調査が行われた結果、驚くべき事実が明らかになった。死体はどの月面基地の所属でもなく、世界のいかなる人間でもない。ほとんど現代人と同じ生物であるにもかかわらず、五万年以上も前に死んでいたのだ。(中略)やがて木星の衛星ガニメデで地球のものではない宇宙船の残骸が発見されたが・・・。**扉にもカバー裏面にもこの謎が書かれている。この長編SFはこの謎を長大な理路によって解き明かすという内容。その内容に、ぼくは何回もなるほど!
理路は途中、次のようなところも通過する。
**惑星に取り残されたミネルヴァ原産の陸棲動物はやがて絶滅しました。ところが、地球から移入された動物たちは適応性を発揮して生き残ったのです。それどころか、先住者との競争がなくなって、地球動物はミネルヴァ全域をわがもの顔に闊歩したのです。こうして新米の移入生物は、何百万年も前に地球の海にはじまった進化を、片時も中断することなく続ける結果となりました。ところが、言うまでもなく、一方の地球でも、その同じ進化のプロセスが続いていました。共通の祖先から同じ遺伝形質を受け継ぎ、等しい進化ポテンシャルを備えた二つの動物集団が、二つの惑星でそれぞれ独自の進化を辿りはじめたのです。**(266、7頁)
帯に100刷突破とある。確かに実におもしろいSFだ。2019年8月に読んだ。
『ガニメデの優しい巨人』は『星を継ぐもの』の続編。物語はさらに『巨人たちの星』へと続く。
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■ 『ソラリスの陽のもとに』スタニスワフ・レム(*1)(ハヤカワ文庫)はソ連の映画監督タルコフスキーによって映画化され、1977年の春に日本で公開された。ぼくはこの映画「惑星ソラリス」を東京の岩波ホールで観た。原作を読んだのはずっと後で、たぶん1993年。
ソラリスは海に覆われた惑星。なんとその海は「知的生命体」で人の脳の思考活動や記憶を読み解き、それを目の前に出現させてしまう。この発想からしてすごい。ソラリス探査のために宇宙ステーションにいる主人公クリスの前にソラリスは何年か前に死んだ恋人(映画では確か妻)ハリーを出現させる。
映画を観たのは今から40年以上も前だが、未来都市として撮影された首都高速(手塚治虫が描いた未来都市ほどではないにせよ、確かにビル群を縫うように伸びる空中高速は当時かなり未来的だった)とラストに主人公クリスの故郷の家が、島となった敷地周辺と共にソラリスの海に浮かびあがるシーンを鮮明に覚えている。
忘れ難きはやはり家族、そして故郷。たとえ地球から遠く離れた宇宙にいたとしても。それが人としての原点、ということなのだろう。
**思考する〈海〉と人類との奇妙な交渉を描き、宇宙における知性と認識の問題に肉薄する、東欧の巨匠の世界的傑作**(カバー裏面の紹介文より)
再読したい作品。
レムの作品では『天の声・枯草熱』(国書刊行会2005年初版第1刷発行)が書棚にある。スタニスワフ・レム コレクション全6巻にソラリスと共に収録されている作品。
*1 ポーランドのSF作家
2016.04.18の記事 改稿再掲
『漱石文学における「甘え」の研究』土居健郎(角川文庫1973年7版発行)
■ 日本文化論の名著と評される『甘えの構造』(弘文堂1974年59版発行)の著者・土居健郎がその「甘え」理論により浮きぼりにする漱石文学の作中人物論。
本書で論じられているのは「坊ちゃん」「坑夫」「三四郎」「それから」「門」「彼岸過迄」「行人」「こころ」「道草」「明暗」 以上の作品。
**またわれわれは日夜人間関係の束縛の中に呻吟し、それを切りたくとも切れないでいるが、「坊ちゃん」は勇猛果敢にすべての束縛する関係を断ち切るので、彼に声援を送りたいような気持に駆られる。要するに「坊ちゃん」はわれわれ日本人すべての者が内心に秘めている夢を実現している。「坊ちゃん」がかくも一般の人気を博するようになった理由はまさにここに存していると考えられるのである。**(28頁)
2冊とも20代で読んだ。なぜ20代で読んだ本を多く残したのだろう・・・。遠い昔を懐かしむ気持ちが強いのかもしれない。
『復活』トルストイ(新潮文庫 上:1973年35刷 下:1973年31刷)
■ **トルストイがかりに『復活』以外、何も書かなかったとしても、なお且つ彼は、偉大なる作家として認められたであろう。**(上巻408頁) 上下2巻の場合、解説は下巻の巻末に載っているものと思うが、この小説は上巻に載っている(などと小説の内容と関係のないことを書く)。
今は海外の作品をあまり読まない。昔もそうだった。従って残した文庫本で海外の小説は少ない。上掲のような解説があるが、やはりトルストイといえば『戦争と平和』であろう。ぼくはこの長編を読んでいない。この先、読む機会はないだろう。「読まずに死ねるか作品」に何があるかなぁ・・・。
『半日閑談集 湯川秀樹対談集Ⅰ』(講談社文庫1980年第1刷発行)
『科学と人間のゆくえ 湯川秀樹対談集Ⅱ』(講談社文庫1981年第1刷発行)
湯川秀樹の相手とテーマは以下の通り(上:対談集Ⅰ 下:対談集Ⅱ)。40年前に読んでいた本。小松左京とどんな話をしたのか?、司馬遼太郎とは?梅棹忠夫とは?加藤周一とは?
本の良いところはいつでも書棚から取り出して読むことができること。そのフリーアクセス性。ただしカオスな書棚では無理。ぼくの場合、思い切ってかなり本を処分したから可能になった。いや、その前に本は書棚に並べることができるところが良い。電子本ではかなわない。このことで紙の本が好きな人が多いのではないだろうか、これはあくまでもぼくの推測に過ぎないが。
処分しないで残した文庫の全てをここに載せるつもりはないから、どこかで打ち切りにしないと・・・。
■ 日本ほど自国の文化論が書かれ、読まれている国は他にない、とよく指摘される。本書の解説(高階秀爾氏)によると、戦後に発表された「日本人論」は千点を超えるそうだ。私も日本人論、日本文化論が好きだ。
2007年(*1)に読んだ『「縮み」志向の日本人』李 御寧(講談社学術文庫2007年第1刷)は日本人の縮み志向、縮み好きに注目した日本人論。豊富な例示、説得力のある論考。
団扇を扇子に、庭園を箱庭に縮めてしまった日本人。縮めたものは他にも茶室とその入口の躙り口、そして正座。それから盆栽、折詰弁当、和歌、俳句、ウォークマン・・・、などいくらでもある。
「中銀カプセルタワービル」は黒川紀章も縮み志向の日本人だからこそ発想できた建築なのかもしれない(こじつけかな。これは論理的な推論としては正しくない。日本人に縮み志向があるからといって全員に当てはまるわけではないから。まあ、日常雑記ということで厳密性は問わないことに)。日本のプロジェクトということもあったのかも。
*1 2006年にブログを始めたので2007年に読んだこの本についても書いている。