■『「お静かに!」の文化史』今村信隆(文学通信2024年)を読み終えた。
「ミュージアムの声と沈黙をめぐって」というサブタイトルにあるように、本書で著者の今村氏は美術館で作品を鑑賞するときの相反する二つの欲求、「静かに鑑賞したい」、と「誰かと語りあいながら鑑賞したい」に関する論考を展開している。なるほど、こういうテーマも研究対象になるんだ、読み始めてまずそう思った。
今村さんはこのテーマに関する既存の論をいくつも示しながら、丁寧にじっくり議論を進めている。
本書の内容については横着をしてこの写真を載せるだけにする。
**熟視し、黙想し、芸術作品の深みへと沈潜していくこと。
対話し、ときには笑い合い、隣にいる人たちとのコミュニケーションを含めて作品を楽しむこと。
人は、その両方を求めてきたし、現在も求めているのではないか。芸術作品はこれまでその両方
の求めに応じてきたし、現在も、そして未来も、応じ続けていく力を備えているのではないか。**
引用したこの部分は、はじめにで書かれ(7頁)、第7章 声と語らいの価値で繰り返されている(292頁)。本書で今村さんが主張したかったことだろう。
本書で今村さんは上掲した2冊の本、『古寺巡礼』(岩波文庫1979年)と『大和古寺風物誌』(新潮文庫1953年発行、2002年76刷)を取り上げ、ふたりの仏像の捉え方が違うことについて言及している。和辻哲郎は仏像を美術作品として鑑賞しようとし、亀井勝一郎はあくまでも仏像を礼拝するものとして接していると。
ふたりの間には仏像に対する基本的な態度の違いがあるけれど、どちらの場合でも、仏像には静粛の雰囲気が漂っていると、今村さんは指摘している。なるほど。
本書読了後に考えたのは、「静寂」か、それとも「語らい」か、ということについては、芸術作品が鑑賞者に求めるということもあるだろう、ということだった。
例えば黒田清輝の「湖畔」(東京国立近代美術館で開催された「重要文化財の秘密」展にて2023年4月)は鑑賞者に静寂のなかでじっくり対峙して鑑賞することを求めるだろう。同じ絵画でも、例えばジョアン・ミロの作品はそうではなく、語らいを歓迎するのではないか・・・(*1)。
例外はもちろんあるだろうが、インスタレーションも同行者がいれば、作品について語らいながら鑑賞することを歓迎するだろう。
*1 東京都美術館で3月1日からミロ展が開催される。ぜひ行きたい。ミロの作品がどう反応するのか確かめたい。