透明タペストリー

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木曽義仲の母の墓

2024-08-10 | A あれこれ

 木曽義仲の松本成長説を押したい気持ちは身びいき故か。いや、義仲を庇護した中原兼遠は信濃国権頭(権守)であり、国府で政務に就いていたこと。そして国府は松本にあったとする説が有力であること(当時の公道である東山道は木曽谷ではなく伊那谷を北上、松本を通っていたことも国府が松本にあったことの傍証となるだろう)。義仲が信濃国で育ったのは1155年ころから1180年ころまでの期間であり、このころ木曽は信濃国ではなく美濃国に属していたとされていることなどから(*1)、通説である木曽成長説より妥当性が高いと判断されることに因る。

長興寺に義仲の母小枝御前(さえごぜん)の墓がある。この寺は塩尻市洗馬、明治初期まで木曽川と呼ばれていた現奈良井川の左岸の段丘の上にある。今日(10日)出かけてお参りしてきた。


長興寺 山門 2024.08.10


本堂脇に設置されている「木曽義仲御母堂の墓」の説明板

説明文には次のように記されている。**二歳の時、父義賢が甥の悪源太義平(中略)に討たれたため、母小枝御前と共に畠山重能や斎藤別当実盛に助けられ、信濃権守である中原兼遠がいた信濃国府(松本市)に逃れてきました。** 








木曽義仲の母小枝御前の墓 左側の刻字は寛永十七年庚辰九月吉日と読める(初めの二文字(?)は読めない)。寛永十七年は1640年。

夫を殺害され、幼子と共に信濃国筑摩郡まで逃れてきた小枝御前はどんな気持ちだっただろう・・・。


*1 **鳥居峠(とりいとうげ)は、長野県の塩尻市奈良井と木祖村藪原を結ぶ峠で、国境に位置しているため、中世には戦いが何度も行われた信濃国と美濃国の境として歴史のある峠です。**

木曽風景街道推進協議会のHPより

この説明で平安末期には木曽地域が美濃国に属していたことが判る。 


木曽義仲 木曽成長説と松本成長説

2024-08-10 | A あれこれ

 「木曽義仲 松本成長説」改稿

木曽義仲、幼名・駒王丸。出生地は武蔵国、現在の埼玉県と伝えられる。義仲の父の義賢は義朝との兄弟対立で、義朝の息子・義平(義賢の甥、義仲のいとこ)に討たれる。まだ2歳(もしくは3歳)の駒王丸にも義平から殺害の命が出されたため、義賢に旧恩のあった斎藤実盛の手引きで信濃国権頭(ごんのかみ)中原兼遠のもとに逃れ、木曽で育ったとされる。

さて、ここから義仲が通説通り木曽で育ったのかどうかについて書いてみたい。

 
前稿で長野県立歴史館で開催中の夏季企画展「疾風怒涛  木曽義仲」について書いたが、館内で入手した「長野県立歴史館たより」(写真)も上記のことに触れている。記述によく分からないところがあったので、今日(9日)県立歴史館に電話して記事の担当者に伺った。

木曽義仲 「木曽成長説」と 「 松本成長説」

木曽義仲は信濃国のどこで育ったのか。通説の「木曽義仲 木曽成長説」と歴史学者(*1)が唱えた「木曽義仲  松本成長説」があるわけだが、木曽歴史館でも松本歴史館(仮にこのような歴史館があるとして)でもなく、長野県立歴史館であれば、決定的な証拠がない限り、どちらかに組するような記事は書けない。従って具体的な記述を避けた曖昧な記述になっている。担当者の話の内容を私はこのように理解した。

**義賢のもとにいた駒王丸は(中略)信濃国権頭(ごんのかみ)中原兼遠のもとに逃がされました。当時の信濃国府は筑摩郡にありました。国府から近い木曽周辺に拠点があったと考えられます。** 

「長野県立歴史館たより」のこのような記述について、信濃国府が筑摩郡のどこにあったのかについて触れていないことと、拠点が何を指しているのか分からないので文意が理解できないと書き、続けて国府は松本の惣社あたりにあったという説が有力だという(*2)。惣社という地名もそのことを暗示しているように思われる。そうだとすると、引用文にある国府から近い木曽周辺ということは理解できない。木曽は鳥居トンネルがある現在でも松本から遠いからと書いた。

*2 『松本城のすべて 世界遺産登録を目指して』(信濃毎日新聞社2022年)は次のように記述し、国府は松本にあったとしている。**古代に信濃国の国府が筑摩郡下に置かれた。国の政庁がおかれた地域は府中といわれたので、松本は単に「府中」とか信濃国の府中という意味で「信府」とも呼ばれた。** 

だが、記事の担当者の話を伺った今は引用文のような表現も仕方がないのかな、とも思う。木曽がどこを指すのか、現在の木曽とは違う地域を指すのかもしれないし(*3)、仮に今の木曽と同じ地域だとしても、その周辺という曖昧な表現だと、松本地域も近いという捉え方もありかな、と思わないでもない。加えて近いとか遠いというのは相対的な概念ということでもあるし・・・。

*3 ウィキペディアの「木曽義仲」には**現在の木曽は当時美濃の国であったことから、義仲が匿われていたのは、今の東筑摩郡朝日村(朝日村木曽部桂入周辺)という説もある。**と書かれている。このことについて朝日村のHPには次のような記事が掲載されている。また同HPの別のところには下の地図が掲載され、桂入堤と加筆されている。


木曽部桂入とは現在の朝日村西洗馬三ヶ組辺りを指す。地図に三ヶ組と表記されている(光輪寺 卍 の右下)。桂入は現在もある。



*3 また、明治初期まで松本を流れる奈良井川も木曽川と呼ばれていたという。このことから松本平南部も木曽と呼ばれていたのかもしれない。木曽部桂入という古い地名もこのことに因るのかもしれない。この奈良井川沿いにある長興寺に義仲の母小枝御前(さえごぜん)の墓がある。


コトバンクによる。

兼遠の庇護のもとで育った義仲


先に書いたように信濃国府は松本の惣社辺りにあったとする説が有力のようだ。そう、東山道が通る松本にあったとするのが妥当な判断ではないか。だから中原兼遠は木曽(今の木曽)ではなく、松本にいて政務を執っていた。中原兼遠が木曽(今の木曽)にいて、そこから松本まで通ったとは到底思えないから。

そもそも当時、木曽(今の木曽)は信濃国ではなく、美濃国の領地ではなかったのか(このことについてはネット検索すると記事がいくつも見つかる。木曽がいつ信濃国に組み込まれたのかを示す決定的な史料はないようだが、鎌倉時代もしくは室町時代に美濃国から分離され、信濃国筑摩郡に編入されたとウィキペディアにはある)。

義仲は兼遠の庇護のもとで育っているわけだから、やはりその地は上述した理由から木曽(今の木曽)ではなく、松本だとする方が無理がなく妥当ではないかと思う。

「義仲 木曽成長説」に異を唱えた歴史学者・重野安繹

記事の冒頭に書いたように、通説「義仲 木曽成長説」に異を唱えた歴史学者がいた。このことについては2022年4月20日の記事に書いた(過去ログ)。

以下その記事から抜粋して再掲する。


*1 その歴史学者の名は重野安繹(しげの やすつぐ)。このことについて調べて、重野博士が明治27年9月30日に旧制松本中学で「木曽義仲の松本成長及佐久挙兵説」を講演していること、そしてその抄録が「松本市史」に収録されていることが分かった。松本中央図書館で「松本市史」を閲覧した(2022.04.19)。

「松本市史」上巻103頁
重野博士は木曽山中を義仲の成長地とする説について**余は其必ず誤謬なるを思ふ者なり。**と強く否定している。(上掲写真)
抄録を読み進むと、**兼遠は當時信濃國の權守なりしが故に信濃に來りしなり。**と信濃国に逃れた理由を説明している。で、当時の木曽について**兼遠の時代には中々人を成長せしむべき處に非りき。**としている。

**中原兼遠は名こそ權守なれど其實は國守なりしなり。**だから、**若し義平が攻め來るとも四方の嶮崕を鎖して之を防がば、毫も恐るべきに非ず、何を苦んで人跡稀なる木曾山中に育てんや。**(104頁)と説き、**義仲は決して木曾山中に成長せし者に非ずして、必ず此松本に成長せし者なるべしと思うなり。**と結ぶ。(太文字化したのはわたし)重野博士は義平は義仲をさほど厳重に捜索しなかったとも述べている。


義仲が育ったとされる木曽は距離的に離れすぎている

義仲は兼遠の息子の樋口兼光、今井兼平と共に遊んだとされている。このことについて重野博士は**義仲四天王中の樋口兼光、今井兼平は共に中原兼遠の子なり。**と紹介、続けて**兼光の居住したる樋口村は鹽尻村の彼方に今も尚残り、兼平の居住したる今井村は現に東筑摩郡中に在り、義仲は實に松本今井樋口の間に成長し、兼光兼平と共に遊びたりし人なり。**としている(104頁)。

抄録中の鹽尻村(現塩尻市)の先にあるという樋口村は現辰野町樋口、東筑摩郡今井村は現松本市今井(今井には今井兼平が中興の開基といわれる宝輪寺がある)。義仲、兼光、兼平の3人が子どものころ一緒に遊んで育ったということになると、義仲が木曽(今の木曽)で育ったとする説にはやはり無理があると思う。義仲が通ったとするには木曽(今の木曽)は距離的に離れすぎている。

文中の下線部、松本今井樋口の間とはどこなのか・・・。それが、朝日村木曽部桂入周辺、即ち朝日村西洗馬三ヶ組というわけ。「木曽義仲  松本成長説」を支持し、義仲は松本の隣・朝日村で育ったのだという説を紹介したくて、本稿を書いた次第。