透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

「成熟と喪失」江藤 淳

2011-02-13 | A 読書日記



■ 副題の〝〟付きの母とは何か。本文から何箇所か引用することでその輪郭が浮かび上がってくるだろう・・・。

**「母」が「家」に結びついているかぎり、「子」は「家」を出て東京に行き、「近代」に触れて「個人」というものに出世したと感じることができた。「母」は帰るべき場所であり、感受性の源泉であり、(後略)**75頁

**『抱擁家族』の作者が描こうとしているのは、だから「娼婦」に変容した「母」の美ではなくて、「人工」の浸透によって崩壊して行く「母」の肉体である。(中略)しかし私はむしろそこに、日露戦争後の日本の社会心理の源泉にひそむ不安をとらえていた、作者の感受性の鋭さを見たいような気がする。つまりそれは農耕社会から近代産業社会への移行を開始した時代に、はじめて日本の都会生活者の心理に生じた不安の美的反映とでもいうべきものである。**100頁 

**しかし占領が法的に終結したとき、日本人にはもう「父」はどこにもいなかった。そこには超越的なもの、「天」にかわるべきものはまったく不在であった。(中略)この過程はまさしく農耕社会の「自然」=「母性」が、「置き去りにされた」者の不安と恥辱感から懸命に破壊されたのと表裏一体をなしている。先ほどいったように、今や日本人には「父」もなければ「母」もいない。**140頁 

このような「不安の時代、困難な時代」をどう生きる・・・。 

**しかし、あるいは「父」に権威を賦与するものはすでに存在せず、人はあたかも「父」であるかのように生きるほかないのかも知れない。彼は露出された孤独な「個人」であるにすぎず、(中略)彼はいつも自分がひとりで立っていることに、あるいはどこにも自分を保護してくれる「母」が存在し得ないことに怯えつづけなければならないのかも知れない。**227頁

この文芸評論で江藤は、農耕文化に由来する「母」という精神的支えというか殻を近代化社会への移行過程で喪失した日本人(の男)は、家族や社会を秩序だてる、あるいは後ろ盾となる「父」という制度も戦後失った・・・。まず、この現実を直視せよ、と指摘しているのだ。

そうして結論付ける。

**だが近代のもたらしたこの状態をわれわれがはっきりと見定めることができ、「個人」であることを余議なくされている自分の姿を直視できるようになったとき、あるいはわれわれははじめて「小説」というものを書かざるを得なくなるのかもしれない。**227~228頁

ようやく30年ぶりの再読を終えた・・・。

注)下線部は本文では傍点。
  頁は昭和53年8月15日発行の講談社文庫のものを示す。





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