史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

美里 Ⅱ

2021年01月02日 | 宮城県

(法圓寺)

 

法圓寺

 

 法圓寺には参道入口に慰霊碑があり、墓地には慰霊碑にも名前の刻まれる今野大吉の墓がある。

 

戦没者慰霊之碑

 

 戊辰戦争、日露戦争、支那事変そして太平洋戦争に至る戦争におけるこの地域出身の戦没者の慰霊碑である。背面に戦没者の名前が刻まれている。戊辰戦争戦死者は、鈴木順之進、今野太市、今野運人、今野甚平、今野大吉、斎藤助大夫の六名。

 

今野家之墓(今野大吉の墓)

 

 今野(こんの)大吉(太吉とも)は、志田郡松山の人。慶應四年(1868)八月十六日、磐城駒ヶ峰にて戦死。傍らに墓誌によれば、法名は「大通院智徹明心信士」。没日は八月二十日となっており、「幕末維新全殉難者名鑑」と若干異なっている。享年二十八となっている。

 

(真禅寺)

 

真禅寺

 

清水家之墓(清水和泉之助の墓)

 

 清水和泉之助は銃士。中島兵衛之介隊。慶應四年(1868)五月二十七日、白河にて戦死。墓誌には「武門中興 軍覺院義忠良鏡居士」という法名と没日は五月二十有六日となっており、「幕末維新全殉難者名鑑」と一日の誤差がある。「白河城西手口於金勝寺山戦死仙臺藩庶士和泉之助源常房」と詳細が記載されている。享年二十二。

 

武門中興 軍覺院義忠良鏡居士

(清水和泉之助の墓)

 

 清水家の墓所には、和泉之助の法名が刻まれた古い墓石も並べられている。

 

(下小牛田共葬墓地)

 

佐藤家之墓(佐藤吉次郎の墓)

 

 佐藤吉次郎(吉二郎とも)は銃士。伊達安芸家来。遠田郡小牛田の人。十文字八郎手。慶應四年(1868)七月十五日、白河にて戦死。墓誌には「佐藤太治良」という名前とともに「真心月良忠信士」という法名と享年二十四歳という年齢が刻まれている。

 この墓も竹さんの執念によって発見されたものの一つである。地元の図書館で調べて吉次郎の墓が下小牛田共葬墓地にあるという記述のみを頼りに、周辺を探して行き着いたという。

 

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大崎 Ⅱ

2021年01月02日 | 宮城県

(桃源院)

 

桃源院

 

青木家之墓

 

誠孝院(青木与兵衛の墓)

 

 青木与兵衛は志田郡松山の人。慶應四年(1868)八月二十日、磐城旗巻にて戦死。

 法名碑によれば、享年二十九。「慶應三年」は「慶應四年」の間違い。

 法名碑にある「誠孝院嚴勇良義信士」という法名を刻んだ古い墓石が青木家の墓の裏側の最前列に並んでいる。

 

(青崎霊園)

 青崎霊園の入口に香川家の墓が集められており、その中に戊辰戦争殉難者香川斉の墓がある。

 

香川斉の墓

 

 香川斉は、遠田郡小塩の人。銃士。慶應四年(1868)七月十五日、白河にて戦死。

 

(祇劫寺)

 

祇劫寺

 

 祇劫(ぎこう)寺は承応二年(1653)、涌谷三代邑主伊達安芸定宗の菩提寺として、四代宗重が遺命により隠居所金剛殿の地に建立した寺院である。寺号は、定宗の法名の「祇劫院」からとられている。

 

祇劫院殿前藝州太守林雙凍雲大居士

(伊達定宗の墓)

 

今野家之墓(今野清治の墓)

 

 今野清治は銃士。遠田郡湧谷の人。慶應四年(1868)七月十五日、白河にて戦死。享年二十五。

 

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大崎 鹿島台 Ⅱ

2021年01月02日 | 宮城県

(慈明寺つづき)

 

内海家之墓(内海市太郎の墓)

 

 内海市太郎は志田郡竹谷村の人。慶應四年(1868)八月二十日、磐城駒ヶ峰にて戦死。傍らの墓誌によれば享年三十八。

 

壽良長遠誠禅定門(内海市太郎の墓)

 

 内海家の傍らに内海市太郎の法名を刻んだ旧墓を発見。

 

軽部佐右衛門の墓

 

 軽部家の墓所は、「わらじ村長」こと鎌田三之助の墓の隣にあった。軽部佐右衛門の墓は、墓石側面の没年で特定できたが、背後に壁、前面にはほかの墓石がぴったりと密着しており、残念ながら文字は読み取れない。

 軽部佐右衛門(佐五右衛門とも)は、志田郡小鶴の人。隊長。慶應四年(18868)八月十二日、磐城駒ヶ峰(二十日、旗巻とも)にて戦死。

 

 高橋六右衛門の墓は、墓地の一番奥にある。法名碑の先頭に六右衛門の名前が刻まれている。

 

高橋家代々之墓(高橋六右衛門の墓)

 

 高橋六右衛門は、茂庭周防勢。志田郡竹谷村住。慶應四年(1868)八月十六日、磐城駒ヶ峰口にて戦死。墓誌によれば享年四十四。

 

(酬恩寺)

 

酬恩寺

 

駒場家之墓(駒場七三郎の墓)

 

 駒場七三郎は、伊達弾正家来。慶應四年(1868)七月十一日、羽前金山にて戦死。二十九歳。法名は「天外義堅居士」。

 

 

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大郷 Ⅱ

2021年01月02日 | 宮城県

(真観寺)

 

真観寺

 

 大松澤家の墓所は、墓地でも端っこの林の中にある。そこにあると思っていかないと途中で諦めてしまうような場所である。その中央に仙台藩白河口軍事総督大松澤掃部輔の墓がある。

 

大松澤家の墓

 

大松澤掃部輔衝實之墓

 

 以下、竹さんの「戊辰掃苔録」から転載。大松沢掃部輔は仙台藩大松沢邑主。伊達家一族。六百石。白河口軍事総督。遠藤文七郎、富田小五郎、塩森左馬介と共に仙台藩四天王の一人。戦後は剃髪得度、真観寺の住職となり専ら戊辰戦死者の菩提を弔った。大正六年(1917)九月五日没。享年八十四歳。

 

片倉家之墓(片倉郷治の墓)

 

 竹さんが墓地の墓を一つひとつ確認して片倉郷治重祥の墓を発見。法名碑によれば、片倉郷治は慶應四年(1868)八月十八日、戊辰役従軍戦病死。二十六歳。法名は「眞穐軒誠心明正信士」。「幕末維新全殉難者名鑑」に記載はない。

 

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寒風沢島

2021年01月02日 | 宮城県

 前回、マリンゲート塩釜まで行ったものの、目の前で浦戸諸島行きの船が出てしまい、寒風沢島に渡ることができなかった。今回はそのリベンジである。

 午前中は岩切駅近くの関係会社にて仕事であった。何とか午前中で仕事を片付けて、昼前の電車で移動する手はずであった。

 首尾よく予定より早く仕事は終わり、このまま岩切駅に向かうことになった。ところが、同行していたI君が上司に気を使って

「近くにワールドカップで使われたスタジアムがありますから、見て行きましょう。」

と言い出し、言われるがまま迂回して利府町の総合運動公園に立ち寄ることになった。こっちは時計の針が気になって仕方なかったが、素知らぬ顔をしながら、スタジアム見学に付き合った。やっとの思いで岩切駅に着いた瞬間、上司とI君に対し

「では!」

と言い残して、そのままダッシュしてホームに駆け込んだ。東北本線小牛田行きで塩釜駅まで行って、そこから十数分歩いてJR仙石線西塩釜に移動し、待ち時間数分で仙石線に飛び乗って一駅。本塩釜駅で下車して、あとは歩いてマリンゲート塩釜に向かうのみである。出港時間の三十分前に滑り込むことができた。曲芸的移動であった。

 

塩釜と浦戸諸島を結ぶ

しおじ号

 

 塩釜港から寒風沢島まで乗船時間は、四十分強である。迂闊にも酔い止め薬を買うのを忘れていたため、四十分間、ひたすら目を瞑って時間が過ぎるのを待つしかなかった。幸いにして船酔いに襲われることなく、寒風沢島に上陸を果たすことができた。

 文字どおり、島には寒くて強い風が吹きつけていた。これがこの島の名前の由来なのだろうか。

 

(造艦之碑)

 最初の訪問地は、港から五分ほど海岸沿いに東に行った地点に立つ造艦の碑である。この碑は、この地で仙台藩の命により三浦乾也(けんや)が東北で初めて西洋型の軍艦「開成丸」を建造したことを記念して、その門人により建立されたものである。「開成丸」の建造に当たり、藩領各地から良材を収集し、安政三年(1856)起工、翌年秋に完成を見た。進水式には藩公慶邦や各藩の重役が多数参列した。「開成丸」は、全長十一丈(約三十三メートル)、幅二丈五尺(約七メートル半)、高さ(帆柱)十丈五尺(約三十一メートル半)という堂々たるものであった。

 

造艦之碑

 

(日和山展望台)

 

しばられ地蔵

 

 造艦之碑の少し南側にハイキング・コースの入り口がある。整備された階段を上ると、右に行くと「日和山展望台20m」、左に行くと「砲台場跡500m」という分岐点に出会う。日和山展望台は、すぐ目の前である。

 展望台というには周囲を樹木で囲われていて、必ずしも視界は良好ではない。ここには、逆風祈願のために縄でしばられている「しばられ地蔵」や十二支方角石などを見て、直ぐに砲台場跡へ向かう。

 

十二支方角石

 

(砲台場跡)

 日和山展望台から竹林に被われたハイキング・コースを五百メートル南下すると、海に突き出た岬に砲台場跡がある。この日、ハイキング・コースを歩く人影はなく、強風であおられて竹が当たるカチカチという音しか聞こえない。出会ったのは猫一匹であった。

 この砲台は、慶応三年(1867)、仙台藩が寒風沢、石浜水道が俯瞰できるこの地に築造したものである。加農(キャノン)砲三門を据え、弾薬庫、見張所を備えていた。沖砲台として、船入島には鉄製の大巨砲二門を置き、さらに石浜崎黒森に一門を据えた。

 藩より大砲方士卒五十人余りが、近くの寺院松林庵(松林寺のことか)に駐屯して警備にあたった。

 

砲台場跡

 

砲台場跡から

野々島陰田(かげた)島方面を臨む

 

(前浜)

 

前浜海水浴場

 

 砲台場跡から前浜海水浴場を見下ろすことができる。夏場は海水浴客で賑わうらしいが、オフシーズンは静かでのどかな空気が流れる。前浜の目の前に船入島が横たわっている。

 

(船入島)

 慶応四年(1867)八月十九日、榎本武揚率いる旧幕府艦隊は、開陽、回天、蟠竜、長鯨、三嘉保、咸臨、神速の七隻に、旧幕兵二千五百余を乗せて北に向かった。途中、銚子沖で大風に遭い、艦隊は離散。三嘉保は座礁沈没、咸臨丸は大破して駿河湾に流され九月十八日、官軍に捕獲された。残る艦隊は仙台藩領松島湾にたどり着き、ここで可能な限りの修理に取り掛かった。仙台藩は艦隊が到着すると各種の便宜を計ったとされる。榎本艦隊が停泊していたのが、松島湾内の東名浜と寒風沢であった。

 榎本艦隊が修理に手間取っている間に、九月に入ると奥羽の形勢は列藩同盟側にとって悪化の一途をたどり、九月四日には米沢藩、同月十五日には仙台藩が相次いで降伏した。官軍が仙台に入城した十月九日、牡鹿半島基部の折ノ浜に移った。これを追って官軍も討征のため十月十日、薩摩および津藩兵を石巻に送ったが、既に脱走軍は全艦出港した後であった。

 

前浜から

船入島・鷹島・沖鷹島

 

 右の一番大きな島が船入島である。

 船入島には榎本武揚の埋蔵金伝説が伝わっている。しかし、蝦夷地開拓を志す榎本武揚にしてみれば、莫大な資金が必要であり、一銭たりとも置いていく余裕はなかったはずである。

 

(松林寺)

 砲台にて警備についた仙台藩士が駐屯した松林寺である。

 

松林寺

 

化粧地蔵

 

 化粧地蔵は、作者、年代とも不詳。この地蔵の顔に紅、白粉を塗って祈願すると子宝に恵まれるといわれており、今日なお化粧が絶えない。

 

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仙台 Ⅹ

2021年01月02日 | 宮城県

(桜岡神社)

 

桜岡神社

 

 地下鉄東西線の大町西公園で下車して地上に出ると、桜ケ岡公園という広い公園に出る。その中心に位置しているのが、桜岡神社である。

 西公園の青葉通りに面した目立たない場所に明治天皇御駐輦碑が建てられている。

 

明治天皇御駐輦所趾

 

 明治九年(1876)、仙台で開かれた宮城博覧会に明治天皇が臨幸されたことを記念したものである。

 

(長称寺)

 仙台二日目は、土曜日ということもあって竹さん夫妻が仙台市内、大郷、大崎、美里、栗原、加美の史跡(主に戊辰殉難者の墓)を案内していただけることになった。仙台市近郊に在住されて、日頃から周辺の史跡を丹念に調査している竹さん以上のガイド役はいないだろう。最初に訪ねたのが、長称寺である。仙台市でも海に近い若林区二木に所在している。

 

長称寺

 

佐々木家之墓(佐々木彦市の墓)

 

 佐々木彦市(彦作とも)は、登米伊達筑前家来。慶應四年(1868)九月十日(七月八日とも)、磐城旗巻にて戦死。四十一歳。法名碑には「釋明誓」という法名が、両親や先妻後妻とともに刻まれている。

 

(安養寺)

 

安養寺

 

 下愛子字館の安養寺は、もともと現・宮城野区安養寺地区にあったが、十七世紀に現在地に移転したという。

 墓地には、戊辰戦争で戦死した庄子傳三郎の墓がある。簡単に見つかるかと思ったが、墓地に入ってみると「庄子家」の墓が無数にあり、しかも傳三郎は澤口家の墓に合葬されているため、実はなかなか見つけにくいのである。これを探し当てた竹さんの執念には恐れ入る。

 

澤口家之墓(庄子傳三郎の墓)

 

 庄子傳三郎は、慶応四年(1868)七月四日、志茂又左衛門を正使とする秋田藩に派遣された使者一行の一人。藩論定まらない秋田藩であったが、薩摩の大山綱良に使嗾された壮士によって旅宿を襲われ一行十名が惨殺された。これで秋田藩は奥羽列藩同盟軍と敵対することになった。墓誌によれば、庄子傳三郎の法名は「忠達清信士」とある。「幕末維新全殉難者名鑑」には記載がない。

 

(柳澤寺)

 柳澤寺は、広い市域を誇る仙台市でも北郊の泉区上谷刈字館にある。イノシシやクマが出そうな場所である。

 この寺は、正保元年(1644)、林泉寺の五世悦叟良観禅師によって創建されたものである。

 

柳澤寺

 

大立目家之墓(大立目武治の墓)

 

 大立目武治は、百石。八番大番士。中島兵衛之介隊。慶應四年(1868)五月二十六日、白河にて戦死。

 

(葛岡霊園)

 葛岡霊園は、もともと市内にあった三十五の寺院の墓地を集めたものである。自力で目当ての墓に行き着くのはほぼ不可能であろう。残り時間三十分を切った中で、竹さんの案内で立て続けに真田喜平太、戊辰殉難者である下田勇治、濱田源五郎、富田哲之助の四人の墓を訪ねることができた。

 

眞田家之墓(真田喜平次の墓)

 

 真田喜平太は文政七年(1824)、知行三百六十石の中士の家に生まれた。西洋砲術を下曽根金三郎、高島秋帆に学び、安政三年(1856)からの三年間、藩の講武場指南役として、門人一万三五百人に教授し、また革新的な兵制改革を建言した。近習目付であった慶應三年(1867)、喜平太は藩主に「郡県政体にあらざれば真の王政復古にあらず」と論じ、土地人民の奉還を進言した。しかし藩主はこの建言を採用せず、雄藩への機会を逸してしまった。奥羽鎮撫使下向後は、勤王派の参政として討会論の急先鋒となり、関宿会談では会津藩家老梶原平馬を説得して降伏三条件を受諾させた。また、長州藩世良修蔵の暗殺を必死に止めたが果たせず、辞職して籠居した。仙台藩は白河口で連戦連敗、藩敗滅の時となると喜平太はやむなく節を屈し、仙台藩参謀として出兵した。仙台真田家は幕府を憚って結雁金の家紋を用いていたが、慶応四年(1868)七月十四日の白河口攻防戦出兵時、真田家ゆかりの「六連銭」の大旗を掲げ、洋式軍装の一隊を率いて決死の戦いを挑んだ。明治二十年(1887)、没。享年六十四。この墓は葛岡霊園内成覚寺墓地内にある。

 

 竹さん夫妻によれば、真田喜平太の墓は石巻市の西光寺に再建されているらしい。こちらも何時か行ってみたい。

 

下田家之墓(下田勇治の墓)

 

 下田勇治は富田哲之助指揮。慶應四年(1868)七月十三日、磐城平城にて戦死。墓は、葛岡霊園内の見瑞寺墓地内にある。

 

濱田家先祖代代之墓(濱田源五郎の墓)

 

 濱田源五郎は卒。明治元年(1868)九月十日、磐城椎木山にて戦死。墓石側面には二十八歳と記載されている。濱田源五郎と富田哲之助の墓は、妙心院墓地内にある。

 

富田家之墓(富田哲之助の墓)

 

 富田哲之助は小隊長。「幕末維新全殉難者名鑑」では慶應四年(1868)七月~九月、磐城口にて戦死とされている。墓石には没月日は七月十三日と記されている。

 

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丸森 Ⅱ

2020年03月21日 | 宮城県

(鹿島神社)

 

鹿島神社

 

 鹿島神社の鳥居前にある戊辰役記念碑は、仙台藩領小斎から戊辰戦争に出陣したことを記念して明治二十五年(1892)五月に建立された石碑である。小斎からの参戦者名を刻むというが、摩耗が進んでおり極めて読み取りにくい。

 

戊辰役記念碑

 

(長者山)

 

西南戦争戦死者招魂之墓

 

 鹿島神社から伊達市に向かう途中、通りすがりに「西南戦争戦死者招魂墓」と刻まれた小さな石碑を発見した。急停車して引き返し、石碑のある小道を昇ることにした。落ち葉で覆われ、倒木が道を半分ふさいでいるような悪路であったが、辛うじて招魂墓の入り口まで自動車でたどり着くことができた。ここから雑草をかきわけて、道なき道を進む。木の枝に弾かれて帽子が飛び眼鏡を落とすハプニングに見舞われながら、やっとのことで招魂墓に行き着くことができた。薩軍の鎮圧のため、東北各所からたくさんの兵士が徴募され九州に送られたが、丸森町もその例外ではなかった。それにしても、どうしてこのような山の奥に招魂墓を建てたのだろうか。

 

南征戦死招魂之墳

 

 この招魂碑は、金山村、伊手村、小斎村、尾山村出身の戦死者で、いずれも警察官として出征した七人を葬ったもの。地震により倒壊して放置されていたが、平成十三年(2001)、建て直された。

 

 丸森から伊達市の旧梁川町へは、県道101号線を通って県境を超える。この沿道も昨年の台風19号の甚大な被害を受けたようで、今も復旧工事のため所々片側通行を余儀なくされている。県道に沿って流れる川は、今見ると小川のようなものである。この川が氾濫して一部の家屋が流され、あちこちで道路が崩落したとはなかなか想像がつかない。

 

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角田 Ⅱ

2020年03月21日 | 宮城県

(長泉寺つづき)

 

清流院殿聯山祖遠大居士(石川邦光墓)

 

 前回、宮城県南部を訪ねたのは、七年前のことになる。その時は、角田市の長泉寺で日没を迎えたため、長泉寺の墓地を歩くことは叶わなかった。七年越しのリベンジである。七年前には気が付かなかったが、長泉寺の墓地はとてつもなく広く、墓探しは大いに難渋した。まずは墓地内に五か所(古廟・文山様廟・中之廟・齢巌様塔・台山廟)に分かれて所在している、角田領主石川家の墓所を訪ねることにした。

 

 石川邦光は、天保十五年(1844)、角田領主石川義光の四男に生まれた。父の隠居にともない元治元年(1864)家督を相続した。戊辰戦争では一門筆頭として活躍。維新後は移民団を率いて室蘭に入植したが、失敗して支配地を返上することになった。西南戦争では旧家臣団を率いて各地を転戦し、城山における最終戦にも参加している。明治二十二年(1889)、角田町が発足するとその初代町長にも就任した。翌年辞職して再び北海道の開拓に乗り出すが、それに反対していた妻が無断で開拓地を売却してしまったため計画は頓挫。その後、角田に戻って隠居した。大正十二年(1923)、八十歳にて死去。

 

瀬谷家之墓(瀬谷一郎治の墓)

 

 瀬谷一郎治は石川大和邦光家来。明治元年(1868)九月十一日、磐城口にて戦死。四十二歳。傍らの墓誌には「一郎介恭次」と記されている。

 

 長泉寺も昨年の台風19号の豪雨により、境内が浸水し墓地の斜面が崩れる被害があった。今回、境内を歩いた限り、その痕跡を見ることはなかったが、山門の修理工事中であったのは、ひょっとしたら台風被害のためなのかもしれない。七年前、山門前に建っていた戊辰戦死の碑が見当たらなかった。

 

(徳蔵寺)

 墓石に刻まれた記述によると丹野平馬は、法名「至誠院義孝良忠居士」。仙台荒町の晈林寺に葬られた。伊達家の祐筆。慶應四年(1868)八月十一日、戊辰の役、宇田藤崎に於いて戦死。享年二十三。

 「幕末維新全殉難者名鑑」では表記は丙馬。戦死は八月十六日、場所は磐城駒ケ峰とされている。

 

徳蔵寺

 

丹野家之墓(丹野平馬の墓)

 

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亘理 Ⅱ

2020年03月21日 | 宮城県

(稲荷前共同墓地)

 

板橋春吉の墓

 

 稲荷前共同墓地は、文字とおり小さな稲荷神社の周辺にある共同墓地である。板橋家の墓が複数確認できるが、その中の一つに板橋春吉の古い墓石が置かれている。

板橋春吉は、亘理郡柴町の人。慶応四年(1868)七月二十八日、磐城熊川にて戦死。三十三歳。

 

(真光寺)

 真光寺には広島藩神機隊佐々木友五郎の墓がある。なかなか見つけられなくて、墓地を二周してようやく発見した。

 

真光寺

 

佐々木友五郎墓

 

佐々木友五郎は、佐伯郡地御前村出身。明治二年(1869)二月二十一日、陸中亘理の占領地で爆発事故のため死亡したとされる。墓碑には明治元年(1868)十二月八日と記されている。

 

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蔵王

2020年03月21日 | 宮城県

(龍源寺)

 

龍源寺

 

高澤家之墓(高澤忠吉の墓)

 

 傍らの法名碑に刻まれている、高澤忠吉の法名は「幻養掕躰清信士」。慶應四年(1868)七月十二日、三十六歳で戦死。「幕末維新全殉難者名鑑」によれば、秋田口にて戦死とされている。

 

秋保家歴代之墓(秋保盛章の墓)

 

 「秋保家歴代の碑」によると、秋保家は桓武天皇の流れを汲む家で、奥州に下って名取郡秋保村を賜って以来、秋保姓を名乗った。十四代目の当主秋保盛章は大番頭。戊辰戦争では小隊長を務めた。

 

(真田の郷歴史公園)

 真田の郷歴史公園と名付けられているが、小さな駐車場が用意されていることを除けば公園と呼びかねるような公園である。車外に出ると、強烈な有機質肥料の臭いに襲われる。真田幸村の人気にあやかってこの場所が公園化されたのは、今から三~四年前のことのようである。おそらく大河ドラマ「真田丸」の放映と前後したタイミングであろう。集客効果の程はよく分からないが、少なくとも連日観光客が列を成すような場所ではなさそうである。

信州や大阪から遠く離れたこの場所に真田幸村の子孫が生き続けた経緯は、少々説明が必要である。大阪夏の陣の後、幸村の次男大八は、四人の姉とともに伊達政宗の重臣片倉重綱のもとに託された。重綱は、大八の名を片倉久米助と改めさせ、密かに自領白石で養育した。大八は成人して真田四郎兵衛守信と名乗り、寛永十七年(1640)に伊達家に召し抱えられた。その際、主家に迷惑をかけることを恐れ、姓を片倉に戻している。一族が再び真田姓に戻したのは、二代辰信の晩年、正徳二年(1712)のことであった。

 

真田幸村公 血脈の地

 

真田幸清筆子塚

 

 辰信以降、仙台真田家は宗家と分家二流に分かれたが、幕末に至り本家から真田喜平太(幸歓)を生んでいる。喜平太の父が、八代目当主真田幸清である。幸清は分家の生まれだったが、宗家当主に子がなかったため十歳のとき宗家を継いだ。自宅で真田塾を開いて文久三年(1863)頃まで近隣の子弟に読み書きを教えた。明治四年(1872)、七十二歳で没した。真田の郷歴史公園にある筆子塚は、門弟らの手によって建てられた供養塔である。

 

真田豊治墓碑

 

 真田豊治は、幕末から明治初期の真田氏分家の当主で、幕末期には栗原郡三迫金成(現・宮城県栗原市金成)の代官所の役人を務めていた。慶応二年(1866)、栗原郡若柳で百姓一揆が発生した際、一揆勢が出した要求の中に「現在の代官を罷免し、あらたに真田豊治を郡方役人に任じてほしい」という条件があることから、民衆から信頼され、地域をまとめる手腕を認められた人物だったことを伺われる。維新後は教員となり、明治六年(1873)に開校した宮小学校では算術教師を務めた。明治十年(1877)、死去。墓碑には幸村十一世と刻まれている。

 

(刈田嶺神社)

 刈田嶺神社は、刈田郡総鎮守として、また伊達家の家臣白石城主片倉家の祈願神社として古くから崇敬を集めた。別号を白鳥大明神とも呼ばれる。本殿は享保三年(1718)に片倉家により、拝殿と随神門は文政十年(1827)に宮の豪商森家により建築奉納されたもので、嘉永年間に当地を訪れた吉田松陰、宮部鼎蔵も同じものを目にしたであろう。

 

刈田嶺神社

 

 「松陰の歩いた道」(海原徹著 ミネルヴァ書房)によれば、東北旅行中の吉田松陰と宮部鼎蔵は、刈田嶺神社付近で偶然にも江幡五郎(那珂弥八)と出会ったとされている。嘉永五年(1852)三月二十二日、白河で別れておよそ三か月ぶりの再会であった。松陰は「ここに至りて相逢ふ、抃躍に勝(た)ふるなし」と日記に記した。躍り上がって喜んだ様子が伝わってくる。彼らはそのまま白石城下に同行してそこで宿泊した。

 

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