十津川高校および文武館の職員およびその家族の墓苑、春風苑を訪ねたくて、二日目に再度十津川高校を訪問した。ちょうど学校では球技大会の最中であったため、校舎の周りに生徒や先生が集まっていた。私はその中のお一人、カメラを手にした先生に道を尋ねた。先生は丁寧に道を教えてくれたので、礼を言って父と言われた道を歩いていると、あとからその先生が追いかけてきて、
「分かりにくい場所なので、やっぱりそこまで案内します」
とおっしゃる。お言葉に甘えて、文武館跡と春風苑まで連れて行ってもらうことになった。
文武館跡と春風苑まで、一旦込之上橋という吊り橋を使って対岸に渡り、そこで左に折れて、あとは未舗装道路を歩くことになる。確かに案内無しではなかなか行き着くことは難しい。
込之上橋
込之上橋からの眺望
ご案内いただいた倉田先生は、奈良市内のご出身らしいが、もう十津川に赴任して二十年になるという。十津川高校では学校行事として春風苑への墓参りを年に一回行っているそうである。それにしても高校に附属した墓は全国的にも珍しいのではないか。少なくとも私の知る限り、同志社の若王子墓地くらいしか思い浮かばない。
文武館跡
平山の文武館跡である。鬱蒼とした杉木立に中に在る。さすがに校舎は残っていないが、当時を偲ぶ苔むした石垣が残されている。文武館は慶応元年(1865)にここに移転されて、昭和二年(1933)に現在地に移るまで六十年以上に渡って当地に在った。これも貴重な遺構である。
春風苑
加藤謙二郎墓
春風苑には、加藤謙二郎の墓がある。加藤謙二郎は、越中の人で中沼了三の門弟であった。中沼の推挙により文武館で儒学を教授したが、その講義は熱情ほとばしり、聴く人に感銘を与えずにおかなかったという。慶応三年(1867)三月、文武館の下河原で謎の割腹自殺を遂げた。三十七歳であった。
忙しい中、文武館跡・春風苑までご案内いただいた倉田先生に厚く感謝申し上げたい。
(重里)
重里の郵便局の横に深瀬家の墓があり、その傍らに深瀬繁理の歌碑と顕彰碑が建てられている。
深瀬繁理歌碑(左)
贈正五位深瀬君碑
深瀬繁理(しげさと)は、文政十年(1827)に十津川村重里に生まれた。二十四歳のとき諸国を遊歴し、安政五年(1858)に野崎主計らと上京し、梅田雲浜に学ぶ。文久三年(1863)の天誅組挙兵の報に接すると、急ぎこれに参戦し各地を転戦した。事敗れた後は中山忠光に閲して時機を待つことを進言した。直後、津藩兵に襲われて北山郷白川の河原で斬首された。年三十七。
左の歌碑には辞世が刻まれている。
あだし野の露と消えゆくもののふの
都にのこす大和魂
(上湯川大桧曾)
我々が泊ったのは、小料理宿「山水」という十津川下湯温泉に位置する一軒宿である。インターネットで調べて予約したので、行ってみるまではどんなものか不安であったが、山菜料理や源泉かけ流しの温泉も満足できるものであった。窓の外には満天の星。川のせせらぎと虫の声をBGMに夜は静かに更けていった。
と、書きたいところだが、現実はそうはいかない。父のイビキは尋常ではなかった。まるで獅子の檻に閉じ込められているようなものであった。これに毎日付き合っている母に改めて敬意を表したい。
朝、宿をチェックアウトして、宿の前の県道735号線をひたすらに西(龍神方面)に向かう。およそ半時間ほど自動車を走らせると、大桧曾のバス停に出会う。たばこ屋から老女が出てきたので、「田中光顕の歌碑を探している」と尋ねると、「たなかこうけんの碑だったら、この上にあるよ」と教えてくれた。土地の人に教わらないと、なかなか分かりにくい場所にある。老女によると、年に二~三人は、碑を訪ねてこの山間の集落まで来る人があるそうである。これまで色々な史跡を訪ねてきたが、辺鄙度ではここが最高であろう。
田中光顕歌碑
田中光顕(浜田辰彌)は、元治元年(1864)時勢に激して脱藩して長州に走り、同志井原應輔、橋本鉄猪(大橋慎三)、那須盛馬(のちの片岡利和)らと謀って大阪霍乱を計画したが果たせず、十津川に潜伏することになった。
田中光顕が潜伏したのが、上湯川大桧曾の田中主馬蔵宅である。滞在中、近隣の子弟に学問、剣術を教えたという。
慶應元年の春果てなし坂の上にて
父母のすみます國は見えながら ふみもゆるさぬ関守は誰そ 昭和十二年春録舊作
九十五叟 光顕
贈正五位田中君碑
田中光顕歌碑の近くに田中主馬蔵の顕彰碑がある。その横には主馬蔵の妻の墓も置かれている。
田中主馬蔵は、天保三年(1832)にこの地に生まれ、若くして田辺藩儒平松良蔵に学び、同藩の柏木兵衛に撃剣を習った。深瀬繁理、野崎主計らと上京して、中川宮の命を拝して禁闕警衛の任に当たった。文久三年(1863)の天誅組の変にも参加したが、敗れて和歌山藩兵に捕えられた。のちに脱して京都に逃れたが、慶応元年(1865)今度は幕吏に捕えられた。翌年、脱獄して郷里に帰り、病没した。年三十五であった。

十津川大桧曾集落
実はもう一つ十津川の史跡を訪ねる予定であった。これも「十津川かけはしネット」に掲載されている藤井織之助の遺髪碑である。蕨尾という集落で雑貨屋のおばあさんに聞いてみたが、分からない。近所で「先生」と呼ばれている方にも確認してもらったが、やはり分からない。藤井家の墓地は発見したが、そこに遺髪碑は見いだすことはできなかった。ここで小一時間ほど時間をロスしてしまった。この点だけが心残りであったが、ほかは十分満足して十津川をあとにした。
「分かりにくい場所なので、やっぱりそこまで案内します」
とおっしゃる。お言葉に甘えて、文武館跡と春風苑まで連れて行ってもらうことになった。
文武館跡と春風苑まで、一旦込之上橋という吊り橋を使って対岸に渡り、そこで左に折れて、あとは未舗装道路を歩くことになる。確かに案内無しではなかなか行き着くことは難しい。

込之上橋

込之上橋からの眺望
ご案内いただいた倉田先生は、奈良市内のご出身らしいが、もう十津川に赴任して二十年になるという。十津川高校では学校行事として春風苑への墓参りを年に一回行っているそうである。それにしても高校に附属した墓は全国的にも珍しいのではないか。少なくとも私の知る限り、同志社の若王子墓地くらいしか思い浮かばない。

文武館跡
平山の文武館跡である。鬱蒼とした杉木立に中に在る。さすがに校舎は残っていないが、当時を偲ぶ苔むした石垣が残されている。文武館は慶応元年(1865)にここに移転されて、昭和二年(1933)に現在地に移るまで六十年以上に渡って当地に在った。これも貴重な遺構である。

春風苑

加藤謙二郎墓
春風苑には、加藤謙二郎の墓がある。加藤謙二郎は、越中の人で中沼了三の門弟であった。中沼の推挙により文武館で儒学を教授したが、その講義は熱情ほとばしり、聴く人に感銘を与えずにおかなかったという。慶応三年(1867)三月、文武館の下河原で謎の割腹自殺を遂げた。三十七歳であった。
忙しい中、文武館跡・春風苑までご案内いただいた倉田先生に厚く感謝申し上げたい。
(重里)
重里の郵便局の横に深瀬家の墓があり、その傍らに深瀬繁理の歌碑と顕彰碑が建てられている。

深瀬繁理歌碑(左)
贈正五位深瀬君碑
深瀬繁理(しげさと)は、文政十年(1827)に十津川村重里に生まれた。二十四歳のとき諸国を遊歴し、安政五年(1858)に野崎主計らと上京し、梅田雲浜に学ぶ。文久三年(1863)の天誅組挙兵の報に接すると、急ぎこれに参戦し各地を転戦した。事敗れた後は中山忠光に閲して時機を待つことを進言した。直後、津藩兵に襲われて北山郷白川の河原で斬首された。年三十七。
左の歌碑には辞世が刻まれている。
あだし野の露と消えゆくもののふの
都にのこす大和魂
(上湯川大桧曾)
我々が泊ったのは、小料理宿「山水」という十津川下湯温泉に位置する一軒宿である。インターネットで調べて予約したので、行ってみるまではどんなものか不安であったが、山菜料理や源泉かけ流しの温泉も満足できるものであった。窓の外には満天の星。川のせせらぎと虫の声をBGMに夜は静かに更けていった。
と、書きたいところだが、現実はそうはいかない。父のイビキは尋常ではなかった。まるで獅子の檻に閉じ込められているようなものであった。これに毎日付き合っている母に改めて敬意を表したい。
朝、宿をチェックアウトして、宿の前の県道735号線をひたすらに西(龍神方面)に向かう。およそ半時間ほど自動車を走らせると、大桧曾のバス停に出会う。たばこ屋から老女が出てきたので、「田中光顕の歌碑を探している」と尋ねると、「たなかこうけんの碑だったら、この上にあるよ」と教えてくれた。土地の人に教わらないと、なかなか分かりにくい場所にある。老女によると、年に二~三人は、碑を訪ねてこの山間の集落まで来る人があるそうである。これまで色々な史跡を訪ねてきたが、辺鄙度ではここが最高であろう。

田中光顕歌碑
田中光顕(浜田辰彌)は、元治元年(1864)時勢に激して脱藩して長州に走り、同志井原應輔、橋本鉄猪(大橋慎三)、那須盛馬(のちの片岡利和)らと謀って大阪霍乱を計画したが果たせず、十津川に潜伏することになった。
田中光顕が潜伏したのが、上湯川大桧曾の田中主馬蔵宅である。滞在中、近隣の子弟に学問、剣術を教えたという。
慶應元年の春果てなし坂の上にて
父母のすみます國は見えながら ふみもゆるさぬ関守は誰そ 昭和十二年春録舊作
九十五叟 光顕

贈正五位田中君碑
田中光顕歌碑の近くに田中主馬蔵の顕彰碑がある。その横には主馬蔵の妻の墓も置かれている。
田中主馬蔵は、天保三年(1832)にこの地に生まれ、若くして田辺藩儒平松良蔵に学び、同藩の柏木兵衛に撃剣を習った。深瀬繁理、野崎主計らと上京して、中川宮の命を拝して禁闕警衛の任に当たった。文久三年(1863)の天誅組の変にも参加したが、敗れて和歌山藩兵に捕えられた。のちに脱して京都に逃れたが、慶応元年(1865)今度は幕吏に捕えられた。翌年、脱獄して郷里に帰り、病没した。年三十五であった。

十津川大桧曾集落
実はもう一つ十津川の史跡を訪ねる予定であった。これも「十津川かけはしネット」に掲載されている藤井織之助の遺髪碑である。蕨尾という集落で雑貨屋のおばあさんに聞いてみたが、分からない。近所で「先生」と呼ばれている方にも確認してもらったが、やはり分からない。藤井家の墓地は発見したが、そこに遺髪碑は見いだすことはできなかった。ここで小一時間ほど時間をロスしてしまった。この点だけが心残りであったが、ほかは十分満足して十津川をあとにした。
「藤井織之助遺髪之碑」はもう行かれました?でしょうか?
私も最近探して行ってきました。
十津川村の資料館の人と2~3度メールでやり取りして判明しました。
グーグルマップに場所を作成しましたので奈良県へお越しの際は「欣求寺了厳法師之碑」と合わせてお越しください。
感謝感激です。
当面、十津川には行けませんが、必ず行きたいと思います。
首はどこかに持ち去られてわからないと文献で知りました。(実記 天誅組始末 樋口三郎著)
が、SNSで和田佐市と縁のある方からメッセージをいただいて和田佐市のいとこが十津川から大八車でご遺体と首を持って帰ってきたと教えてもらいました。
有り難うございます。
「実記 天誅組始末」という書籍は存じ上げませんでした。入手したいと思います。