史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「日本医家伝」 吉村昭著 中公文庫

2024年11月25日 | 書評

山脇東洋、前野良沢、伊藤玄朴、土生玄碩、楠本いね、中川五郎治、笠原良策、松本良順、相良知安、荻野ぎん、高木兼寛、秦佐八郎といった、江戸時代後期から近代にかけて登場した医師12名を取り上げる。吉村昭は、この後、「日本医家伝」で取り上げた12人のうちの6人を題材にして「めっちゃ医者伝」(笠原良作)、「冬の鷹」(前野良沢)、「北天の星」(中川五郎治)、「ふぉん・しーほるとの娘」(楠本いね)、「白い航跡」(高木兼寛)、「暁の旅人」(松本良順)に長編化している。

これまでも「ふぉん・しーほるとの娘」、「白い航跡」、「暁の旅人」を読んでいたので、でっきり吉村昭の得意分野だと思っていたが、本書の「旧版文庫版あとがき」によれば、当初「クレアタ」という季刊雑誌の編集長をしていた岩本常雄氏から依頼があった際、「私には未知の分野で、調査もどのようにすべきかわからず、満足のゆける作品を書くことは不可能に思えた」と告白している。つまり「日本医家伝」を手掛ける前の吉村昭氏は、近代医史については得意分野ではなかったのだろう。それがこの作家における一つの大きな作品群の潮流の一つになったことを思い合わせると、「日本医家伝」の重みが理解できる。

個人的に興味深かったのが、前野良沢であった。歴史の授業で「ターヘル・アナトミア」「解体新書」「杉田玄白」「前野良沢」と呪文のように記憶したが、本書によれば、翻訳事業を進めるにつれ、杉田玄白と良沢の間にはずれが生じ、次第に溝が深まり、両者は距離を置くようになったというのである。その理由は野心家の杉田玄白が刊行を急いだことにあったらしい。一方の良沢は、「解体新書」は甚だ不完全な訳書であり、さらに年月をかけて完全なものにしてから刊行したいと考えていた。良沢は学者としての良心から自分の名を公けにすることを辞退し、その結果、「解体新書」の訳業をリードした前野良沢の名前は剥除された、というのである。良沢は、「解体新書」の刊行後も、オランダ語研究に没頭し、多くの訳書を残したが、それを刊行することすらしなかった。杉田玄白と前野良沢、その名前は常に並び称されるが、筆者吉村昭がどちらに好感を抱いているかは明らかであろう。

本書でもっとも感銘を受けたのが、笠原良策(白翁)である。福井の医家に生まれ、若くして名声を得ていた良策であるが、ある日西洋医学の優れていることを聴き、西洋医学に強く引き付けられた。三十一歳のとき、京都に上って蘭医日野鼎斎の門に入り、研鑽に励んだ。いったん福井に戻って西洋医学を広めたが、それに飽き足らず再び京都に上って蘭医学の修得に努めたとされる。

その頃、西洋には「種痘」により天然痘を予防する治療法が確立していて、既に中国でも種痘法が伝わっていた。当時、日本では毎年のように天然痘が流行して多数の人が死亡していた。幸い命は助かっても顔に見にくいあばた(痘痕)が残り、人々を終生嘆き悲しませていた。

良策は痘苗輸入が急務であることを説いて、幕府の輸入許可を求める嘆願書を提出したが、何度も役人の手で握りつぶされたしまった。福井藩主松平春嶽へ建言するという最終手段により、ようやく幕府から牛痘輸入許可がおりた。嘉永2年(1849)、長崎に痘苗を入手しに行く途中、京都で痘苗を入手することに成功し、まず京都で苦心の末に種痘に成功し京都での普及を果たした。当時の種痘は、人から人へ種継ぎをしていくしか確実な方法が無く、種痘を施した幼児を連れて雪深い藩境の峠を越えるという決死行によって福井城下に痘苗を運んだ。金とか名誉ではなく、とにかく民を救いたいという一心でここまでやる彼の情熱に心を動かされるものがある。

吉村昭は、この短編を端緒として「めっちゃ医者伝」(のちに改題・補填して「雪の花」)を発表している。「雪の花」を原作として、来年には映画化されるらしい。笠原良策(白翁)は、一般にはほとんど知られていない人物であるが、「福井にこんなにエライ人がいたんだ」という感動で熱くなる。「雪の花」も読んでみたいし、映画も見てみたいと思う。

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「関東・東北戊辰戦役と国事殉難戦没者」  今井昭彦著 御茶の水書房

2024年11月23日 | 書評

タイトルを見て、全国の戊辰戦争の戦跡や殉難者の墓を訪ねてきた私としては、避けて通れない書籍だと確信した。年に数冊、日本から取り寄せることができるその中の一冊に、迷うことなくこの本を選んだ。もし値打ちものなら、「戊辰掃苔録」の竹さんにも紹介しないといけない。

しかし、期待が高かっただけに、読み進めていくうちに期待は途端に落胆に変わってしまった。その理由は下記の3点に集約される。

  • プロローグにおいて、国事殉難者は靖国神社を頂点としたピラミッド体系に整理されるとしている。本書は、それを具体的に証明するものかと思って読み進めたが、どうもそうではない。ところどころ、西軍の殉難者がカミとして祀られているとか、東軍の殉難者がホトケとして葬られているという記述が散見されるが、最後まで体系的な解説を読むことはできなかった。筆者にしてみれば、前著で言及済ということかもしれないが、前著を未読の読者にしてみれば、消化不良感が残る。
  • 平成二十九年(2017)に野口信一氏が「会津戊辰戦死者埋葬の虚と実—戊辰殉難者祭祀の歴史—」(歴史春秋社)において、会津落城後の、西軍(新政府軍)による東軍戦没者への「埋葬禁止令」は、虚構であったと主張した。従来から定説となっている、東軍戦没者の遺体が放置され、埋葬されなかったというのは事実に反するとしたのである。本書では、「第四章 会津戊辰役と殉難戦没者」のうち、ほぼ一節を割いて会津城攻防戦の経緯を追い、戦没者の遺体が阿弥陀寺や長命寺に埋葬された経緯を解説している。だから東軍戦没者の遺体は埋葬が禁じられたのか、やはり野口氏が主張するように埋葬禁止は虚構だったのか、それについての著者の最終的な見解は明確にはなっていない。

――― 埋葬作業というものは、単純なものではなく、それを巡っては、様々な事例が考えられることに留意する必要があるだろう。今後の検討課題である。

として、本書で結論を出すことを避けている。プロローグにおいて「果たして「五〇年目の真実」とは、どうであったのか。本書では、こうした野口説を念頭に置きながら、再検討を試みるものである」としておきながら、「それはないだろう」という気がする。

  • 結局のところ、本書において大半を占めているのは、出流山事件、梁田における戦闘、白河城攻防戦、二本松攻防戦、母成峠の戦い、そして会津鶴ヶ城攻防戦の経緯に関する記述である。けれど、これくらいの記述であれば、ほかにもっと詳しく描いている本はいくらでもある。特に新発見があるわけでなく、やや退屈であった。

本書の副題は「上州・野州・白河・二本松・会津などの事例から」である。メイン・タイトルと合わせると随分と長いタイトルであるが、タイトル、中身とも要領を得ない。結局のところ最後まで読んでも何が言いたいのか分からないものであった。

とはいうものの、白河市付近での建碑状況(表1)や会津西軍墓地での土佐藩埋葬者一覧(表2)、土佐藩の戊辰役殉国者墳墓一覧(表3)など、網羅的なリストが掲載されているのは有り難い。改めてこのリストと照合して、抜けがないか確認したところ、新潟県村上市の一部の墓地は未踏であることが判明した。いずれ新潟県内はもう一度回らなければならない。その日が待ち遠しい。

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「悲劇の改革者 調所笑左衛門」 原口虎雄著 草思社

2024年10月27日 | 書評

本書は昭和四十一年(1966)に中公新書から発刊された「幕末の薩摩 悲劇の改革者調所笑左衛門」の主題・副題をひっくり返して改題し、実に五十八年ぶりに復刊したものである。それまで「悪の張本人」とされ、怨嗟の的であった調所に光を当て、彼の功績を浮かび上がらせた名著である。自宅の本棚には「幕末の薩摩」があるが、改めてこの本を手にとって調所笑左衛門という人の事歴を追ってみることとした。

この人物が「悪役」とされるのは、お由羅騒動で斉興・お由羅側についたためである。つまり、明治維新の勝者である薩摩藩の討幕派からは蛇蝎のごとく嫌われたのである。そのため調所一族は零落し、孫のノブ女は、鞠や押絵の内職に励み、夜になると一里も離れた町まで呼び売りに出かけ、時に旅館の二階まで上がって鞠を売った。「金助鞠鞠(まいまい)」と寒風の中で叫ぶ少女の哀音は、地方郷士の憐みをさそったという。

調所笑左衛門広郷は江戸と国元を往復する茶坊主であった。しかし、その後御小納戸勤を命じられ、ついで御小納戸頭取御用、御取次見習を兼務した。さらに御使番、町奉行へと栄進した。いずれも時の藩主島津重豪の引き立てによるものであった。

文政七年(1824)、五十歳のとき再び君側に招かれ御側御用人という重要ポストに任じられた。そして文政十一年(1828)、重豪の命により藩政改革の大任を奉じ、家老中にも指揮せよとの上意を受けた。一介の茶坊主に過ぎなかった調所がこうして抜擢されたのは、彼の有能さを重豪が見抜いたからにほかならない。重豪の見立てに狂いはなかったといえよう。

一口に「改革」というが調所の手がけた改革は多岐にわたる。

  1. 当時の薩摩藩にとって最大の課題が財政改革である。調所がやったことの筆頭に挙げられるのが五百万両にも及ぶ借金の踏み倒しである(実際には二百五十カ年年賦の無利子償還)。証文を集めてすべて焼き払ってしまったというからかなり乱暴な手口である。
  2. 続いて冗費削減と国産開発。藩費の半分以上を占める営繕費用の削減。木材などの資材を直接調達したり、手続きを簡素化することで支出の合理化を進めた。
  3. 冗費削減の典型例として挙げられるのが南西諸島と大阪を結ぶ海運の大改正。大船を建造して米や砂糖をタイムリーに廻送できる体制をととのえた。
  4. 菜種子、櫨蠟、煙草、椎皮、椎茸、牛馬皮、海人草、鰹節、捕鯨、櫓木、硫黄、明礬、石炭、塩、木綿織物、絹織物、薩摩焼などの物産開発に手を付けた。同時に流通の合理化をすすめた。
  5. 三島方を設置して奄美三島の黒糖の専売化を推進した。島民への生産強制、品位改良、密売の徹底的取締り、運賃の削減、交換比率のペテン的低率適用、そして高値での売りさばき。
  6. 農政改革では、従来、「上見部下り」と呼ばれ、天災を口実に年貢の軽減を受ける悪弊が常態化していたのを「定免制」に転換した。
  7. 軍制改革。家禄高に応じた軍賦を逃れるため、高の売買が横行していたが、その改革に着手した。

調所は多方面の改革を精力的に、しかも二十年の長きにわたって取り組んだ。彼はもともと茶道や花、囲碁、将棋、詩歌、角力などを好んだが、藩政改革に従事するとフッツリとやめ、部下がこれらの趣味に走ることをひどく嫌ったという。毎年、十月頃に国元を出発し、途中長崎、大阪、京都に逗留しながら陣頭指揮をとった。一年のうち家族と同居するのはわずかに二~三か月という生活を二十年以上にわたって続けた。毎日、登庁前に来客と用談し、帰宅後も夜半まで応接に忙殺された。「とにかく大変な精力家で、たまに徹夜をしても、翌日ちょっと居眠りするだけで精神が爽やかになった」というから一種の超人だったのだろう。側近のものでも調所のだらけた姿を見たことがないといわれる。反調所派や反由羅派があら探しに奔走したが、何も見つからなかった。徹頭徹尾生活は質素であり、これだけ権力を掌中にしながら一切汚職に手を染めることもなかった。

調所の眼からすれば、斉彬は「偏に洋癖に固まり珍奇を衒ひ(てらい)、無用の冗費をつくされ、用度(必要な費用)為に空竭(くうけつ:すっからかんになる)に至らん」「(斉彬)公は高祖重豪公の風あれば、或いは驕奢に募り、わずかに立ち直らんとする御家の先途も危からん」と映じた。江戸育ちで、しかも重豪の膝下に愛育された斉彬を、全く所帯の苦労を知らぬハイカラ若殿と感じたのは無理もないことで、「財布の底を見ないで行なう文明開化は、重豪で充分に懲りていた」とされる。

しかし、日本に危機が迫り、老中阿部正弘をはじめとした幕閣からも諸侯からも斉彬の登場を嘱望されていた。調所の判断ミスがあったとすれば、新しい時代が来ていることを察知できなかったことであろう。

嘉永元年(1848)時点で、斉興は58歳、斉彬は既に40歳になっていたが、斉興は頑なに家督を譲ろうとしなかった。そこで斉彬は阿部正弘と結託して、調所の密貿易事件を密告し、まずは斉興の両翼というべき調所と二階堂志津馬を失脚させるべく、周到な手を打った。密貿易というのは、弘化三年(1846)、琉球の使者池城(いけぐすく)が中国へ渡航して交渉し、十万両の品物を薩摩から密輸出し、同時に琉球の残留外国人を連れ帰ることを取り決めた、このことを指している。当時薩摩領内の津々浦々には密貿易の専門家がいた。公許された琉球貿易を隠れ蓑にして、その裏では盛大な藩営密貿易を行っていた。調所はその陣頭に立ち、年に二度は必ず長崎に立ち寄って指揮をしていた。この秘密が絶対に漏れないように周到な裏面工作を行っていたというから、これが幕府の知るところとなった(実は斉彬から阿部へ意図的に漏らした)とは、さすがの調所も驚倒したであろう。このままでは藩主斉興の立場が危ういと思った調所は、罪を一身にかぶって服毒自殺を遂げた。彼は「改革が完成するまでは隠退しない」と周囲に伝えていたという。無念の死であった。齢七十三。

幕末の薩摩藩が圧倒的な財力によって、政局をリードし、遂には倒幕の主体となったのは周知のとおり。その財力を築き上げた最大の功労者は調所笑左衛門であり、本来討幕運動にかかわった人たちは調所に足を向けて寝られないはずである。斉興―由羅―調所VS斉彬という対立図式でみれば、調所は怨嗟の対象であり悪役となってしまうが、調所を抜擢したのは斉彬の曽祖父である重豪であるし、由羅の子久光なくして討幕はあり得なかった。幕末の薩摩藩は、単純な対立構造で説明できるものではなく、両者は複雑に絡み合っている。維新の功労者であっても、調所笑左衛門を悪人呼ばわりすることはできないはずなのである。

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「川路利良 日本警察をつくった明治の巨人」 加来耕三著 中央新書クラレ

2024年10月27日 | 書評

本書は、今から二十年前の平成十六年(2004)に講談社+α文庫より「日本警察の父 川路大警視」として発刊されたものを再編集して改題したものである。さすがにこの二十年で見直された歴史について、最新の知見が反映されていないのはしょうがないとして、明らかな誤り(たとえば、出羽米沢出身の千阪高雅を石川県士族としたり、京都府参事の槇村正直のことを植村正直と表記したり…)は訂正して欲しかった。

川路利良という人物の特質が一番よく表れているのが、明治六年の政変の後、西郷隆盛が辞職して帰郷すると、文武の薩摩系官吏が一斉にあとを追って辞職した場面である。この時、警保助兼大警視であった川路は、ほかの警保寮の奏任官とともに太政官に上申書を提出している。

「臣等惶恐(せいきょう)俯(ふし)て惟(おも)ふ。刑罰は国家を治ル要具、則(されば)一人を懲して千万人恐る。」

公明正大であるべき法の執行に愛憎(私情)を挟むのはおかしい。「曩(すで)に京都府参事槇村正直、拒刑の罪あり」――― それを拘留しておきながら、今ふいにそれを解くのは「臣等驚き且つ怪しむ」。邏卒たちが懸命にその職務を遂行するのは「一に信賞必罰法令厳重にして、以て之を約束せざるなし」だからであって、「今若し政府愛憎を以て、法憲軽重するが如き曖昧倒置の挙措ありと誤認せば、即ち曰はん、国家の大臣信ずるに足らざるべしと、既に如斯(そのごとく)、況(いわん)や区々の法令約束何の頼む所ありて能く勤労せん。数千の属員をして一度離心を抱かしめ、法令行はれざるに及んで、遂に制馭する能はざるの勢に至る必せり」これは「近衛の士卒非役を命ずる者数千人」も同罪と断じた。

川路は幕末以来、西郷によって卑賎の身から引きたてられた経歴をもつ。周辺の人間は誰もが川路も西郷のあとを追って下野するだろうと考えていたが、川路の発想は全く異なっていた。ここに彼の思想や国家観を見ることができる。国家の仕事を遂行するのに、愛憎だとか恩義とかを持ち込むべきではないというのである。

川路は「冀(ねがわ)くば政府速(すみやか)に明諭し、(槇村)正直の為に下す所の特命の旨と近衛兵動揺のことの由とを審」せよと主張し、この上申書の勢いそのまま上司である大久保利通に迫った。大久保は川路に対して懸命の説得を行い、最後は「もう少し時期を待って欲しい」と懇願することで川路はようやく矛を納めるところとなった。川路は、よく言えば筋を通す熱血漢、悪く言えば融通がきかない頑固者であった。

川路と対照的だったのが、同じ薩摩出身の同僚、坂元純煕であった。坂元は、川路が洋行する直前に川路と並んで警保寮助大警視に就任し、川路の留守中警保助として実質的に警察を取り仕切った人物である。坂元は警保寮が司法省から内務省に移管された明治七年(1874)一月十日、辞表を提出した。この時、鹿児島出身の警察官吏約百余人もこれに従った。坂元は一旦鹿児島に戻ったものの、旧近衛兵の連中とはそりが合わず、間もなく東京に戻ってきた。しかし、さすがに内務省には戻れず、陸軍省に入った。西南戦争にも少佐として従軍した(因みに川路は西南戦争時には臨時的に陸軍少将に昇進している)。

彼は連日眠る時間を惜しんで職務に尽くした。睡眠時間を四時間と定め、死ぬまでそれを実践した。己に厳しいだけではく、警察官に「警官は人民のために死すべし」と訓示し、警察官は国家、国民の盾であり、滅私奉公以外につとめようはないとし、厳格な規律をもとめた。今なら過労死を厭わないパワハラ上司ということになるだろう。しかしながら、我が国の警察の草創期にこのような意思堅固な指導者を頂いたことは、現代日本の警察の姿を思い合わせると警察にとっても幸運だったのではないだろうか。

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ミュンヘン Ⅲ

2024年10月11日 | 海外

(聖ルートビッヒ教会)

シーボルトは、安政五年(1859)、鎖国が撤廃されると和蘭商事の評議員として二度目の来日を果たし、長崎に滞在した。文久元年(1861)には幕府に招聘され江戸に赴いたが、わずか四か月で職を解かれて長崎に戻った。このとき日本の関連資料を精力的に収集し、翌年にはそのコレクションをオランダ、アムステルダムに送っている。オランダに戻ったシーボルトは、そのコレクションの購入をオランダ政府に要請したが最終的に断られ、バイエルン国王ルートビッヒ二世にコレクションの購入を依頼した。以降、シーボルトはミュンヘンに移り、ここでコレクションの整理に没頭した。このころシーボルトは3回目の日本渡航を計画しており、その資金作りのためにもできるだけ早くコレクションを整理し売却する必要に迫られていたのである。しかしながら、風邪をこじらせたシーボルトは敗血症を引き起こし、1866年10月18日、ミュンヘン市内で息を引き取った。享年70。シーボルトの葬儀は、ミュンヘン大学の大学教会を兼ねる聖ルートビッヒ教会にて行われ、10月21日にはミュンヘン南墓地に葬られた。

 

聖ルートビッヒ教会

 

(勝利の門)

勝利の門(Siegestor)のことを「米欧回覧実記」では凱旋門と記している。

――― 府ノ北ニハ、凱旋門アリ、伯林(ベルリン)ニテミル所ト、同法ノ結構ナリ、

 

勝利の門

南側より撮影

 

勝利の門

北側より撮影。こちらが正面である。

 

勝利の門の脇の並木道

 

(エングリッシャーガルテン)

「勝利の門」に続いてエングリッシャーガルテン(Englischer Garten)が紹介されている。

――― 此辺ニ公苑アリ、「インギリス・ガーテン」ト云、区域広大ニテ、中ニ大池ヲ掘リ、河流ヲ曲折ス、水流急ニシテ、時ニ淙淙(そうそう)ノ声アリ、山丘ノ設ケナケレトモ、樹老鬱ニテ、水清麗ナル、亦一種ノ勝概アリ、中央ニ亭アリ、麦酒茶菓ヲ売リテ、憩息ノ地トス、其亭ハ支那風ヲ模シタルトテ、木製ノ奇亭ナリ、

「勝概」とは「優れた景色」を意味する漢語表現である。

 

エングリッシャーガルテン

 

エングリッシャーガルテン

 

中国の塔Chinesischer Turm

「中国にもこんな建物はないだろう」というほど奇妙な形をした建造物。周囲はビア・ガーデンになっている。平日の昼間というのにたくさんの老若男女が集まってビールを飲んでいる。ミュンヘンの人たちの無上の楽しみなのだろう。

 

レバーケーゼ(leberkasse)

 

ここでドイツ料理の一つであるレバーケーゼなるものを注文してみた。Leberはレバー、Kasseはチーズのことらしいが、実態としてはソーセージの肉をケーキ状に固めたもので、大きなソーセージみたいな食べ物である。ドイツ人は余程ソーセージが好きなのだろう。でなきゃ、こんな食べ物を思いつくはずがない。

店員に勧められるまま断り切れず、お皿にフライド・ポテトを山盛りにされ、どう考えても本日の食事はこれでお終い。腹いっぱいである。

 

ビール

 

精算時にコインを渡され、飲み終わったジョッキとコインを渡すと、1€が返金される(デポジット方式)。ウェイターを使わなくてもジョッキが回収できるといううまい仕組みである。

 

昼間からビールを楽しむ人たち

 

ジョッキの返還場所

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ミュンヘン Ⅱ

2024年10月08日 | 海外

(五大陸博物館)

一旦バスで中央駅まで戻り、そこからトラムに乗ってKammerspieleという電停で下車すれば、五大陸博物館が近い。

シーボルトが二回目の日本渡航した際に集めた資料は、シーボルトの死後、1868年にギャラリー館にて展示されることになった。これがのちのミュンヘン国立民族学博物館(現・五大陸博物館=Museum Fünf Kontinente)へと引き継がれる。最終的にバイエル公国は、シーボルトからの要請を受け入れ、1874年頃、彼の日本関係資料約5,400点の購入を決めている

 

五大陸博物館

 

日本関係の展示

 

ハイネの描いた江戸とその周辺の展示

 

五大陸博物館に行けばシーボルト・コレクションの一部だけでも見ることができるのでは…という淡い期待を持っていたが、残念ながらシーボルト・コレクションは公開されていなかった。

代わりにハイネが明治初期の江戸やその周辺で描いた絵を展示していた。これはこれで興味深いものであった。

 

(ミュンヘン・レジデンス)

ここからエングリッシャーガルテンまで全て徒歩で移動である。

明治六年(1873)五月六日、岩倉使節団一行はミュンヘン市内を視察している。最初に訪れたのが拝焉(バイエル)王の宮殿である。これまでオーストリアで見てきた各所の宮殿と比べても引けを取らない豪華絢爛な宮殿である。この宮殿は、現在州立博物館として公開されミュンヘン・レジデンス(Residenz München)と呼ばれている。

 

――― 拝焉王ノ宮殿ハ、府ノ中央ナル広街ノ衝ニアリ、「パレイ・ローヤル」ト名ク、荘麗ナル宮ナリ、築造新ニシテ粋白ナリ、先王「マキシミリアン」ノ代ニアタリ、此宮ヲ経営シタリ、高廠ナル三層ノ殿ニテ、窓ヲ開ク恢宏ナリ、裏面ノ建築ハ旧(ふる)シ、東面ニ菩提寺、芝居アリ、門ニハ兵隊アリテ守ル、熊毛ヲ背ヨリ欹(そばだ)テタル帽兜(ぼうとう)ヲ冠シ、藍衣ニ銀鈕釦(ぼたん)ヲ施ス、普魯西(プロシャ)ノ兵ト異ナリ〈今朝騎兵ノ隊ヲナシテ過ルヲ見シニ是モ同装ニテアリヌ〉、裏面に大苑ヲ抱ク、樹陰清ク、層層ニ榻(こしかけ)ヲ列シ、酒茶ヲ売ル、是モ王宮ノ囲ヒノ内ニ属セリ、王宮モ縦覧ヲ許ストナリ

 

ミュンヘン・レジデンス

 

中庭

 

中庭

 

中庭の銅像

 

祖先画ギャラリー

 

祖先画ギャラリー 

 

グロット宮殿(Grotto Courtyard):貝殻でできた装飾

 

グロット宮殿

 

アンティクアリウム(Antiquarium)

 

アンティクアリウム

 

ストーブ

 

選帝候の寝室

 

豪華な調度品

 

騎士の像

 

インペリアル・ホール(Imperial Hall)

 

置時計

 

飾り部屋(Ornate Rooms) 

 

緑のギャラリー(Green Gallery)

 

客人のための寝室

 

時計

 

 

出入口にあった彫像

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ミュンヘン Ⅰ

2024年10月08日 | 海外

ミュンヘンはシーボルト終焉の地である。滞在時間は短いが時間の許す限り、シーボルトの足跡を追ってみたい。

シーボルトの生まれ育ったヴュルツブルクもミュンヘンから電車で二時間程度の距離にある。ヴュルツブルクにもシーボルト所縁のスポットがあるが、今回は時間の都合で立ち寄ることができなかった。

明治六年(1873)五月五日および六日、岩倉使節団も、当時バイエルン(拝焉国)公国の首府であったミュンヘン(「米欧回覧実記」ではミュンチェン、漢字では慕尼克と表記されている)を訪れている。

――― ミュンチェン府ハ、英語の慕尼克ニテ、北緯四十八度九分、東経十一度三十二分ニ位シ、人口十七万四千六百八十八人アリ、此辺ハ、山谷間ニ開ケタル、平衍(へいえん)ナル高原ニテ、東南ニハ「アルフス」山脈ノ「チロリー」ニ走ル峰峰、一帯ノ遠岑(えんしん)、白雪ヲ瑩(みが)キテ、蜿蜿嶄嶄(えんえんざんざん)タリ、冬ハ山風烈シク、夏ハ炎熱甚シトナリ、「チロリー」ノ山脈、最高ノ峰ハ、海面ヲ抜クコト一万五千尺ニ及フ、

「遠岑」とは遠くに見える山のこと。蜿は「うねるさま」、嶄は「山が高いさま」をいう。

 

(バヴァリア)

岩倉使節団一行は、王宮や勝利の門、エングリッシャーガーテンを見学した後、市の南にあるバヴァリア(Bavaria-Statue)を訪れた。

――― 河ヲ渡リテ南スレハ、一ノ広野ニ至ル、高所ヲ占テ、一宇ノ博物観アリ、此ニ石像ヲ集ム、其前ノ広場ハ。以テ調練場トス、山峰右ニ環繞(かんにょう)シ、府中ノ烟火ハ、前ニ湧ク、眺望甚タ快ナリ、此ニ一ノ大銅像ヲ立ツ、一千八百三十三年ヨリ鋳造ヲ始メテ、十年ニテ成就セリ、其長サ五十八尺(約17・5メートル)、身ノ幅八尺(2・4メートル)、女神ノ立像ナリ、左手ニ草ノ箍(わ)ヲ執リテ、首上ニ挙ケ、右手ニ剣ヲ執リテ、獅子ニヨリカゝル、当国ノ保護神ニ象(かたど)ル、是ヲ石ノ方台、高サ三十余尺ノ上ニ安立ス、其重サ八十噸、中ヲ空シクシテ、石台ノ中腹ヨリ、螺旋ノ階ヲ施シテ、観客ヲ上ラシム、因テ是ニ上レハ、守人燭火ヲ与フ、之ヲ執リテ級ヲ拾ヒ、上ルコトスヘテ六十五級ニテ、石基ヲ尽ス、又六十級ニテ、像ノ領(うなじ)ニ至ル、面部ノ両側ニ、榻(こしかけ)アリ突出ス、即チ両齶(りょうがく)ナリ、此ニ六人ヲ坐セシメテ余リアリ、咽喉ノ大サハ、長大ノ人モ、首ヲ屈スルニ至ラス、目睛(もくせい)及ヒ口孔より明(あかり)ヲ引ク、此ヨリ府中ヲ一眺ス、此左手ノ横(よこた)フヲミル、老樹ノ横タワルカ如シ、欧洲ニテ無双ノ大像ナリ、

 

「箍」は普通に訓読みすると、樽などを締める「たが」であるが、ここでは「わ」と読ませている。つまり草で編んだ環のことである。

 

実際に行ってみると、「米欧回覧実記」に描かれているとおりであった。「実記」の記述が正確を期していることが改めて確認できた。

 

(旧南墓地)

バヴァリアから旧南墓地には62番のバスを利用するのが便利である。

旧南墓地内のシーボルトの墓は、日本風の宝篋印塔を模した形をしているので近くまで行けば直ぐに見つけることができる。

 

シーボルトの墓

 

墓標

 

シーボルトの肖像

 

強哉矯

 

墓石背面に刻まれている「強哉矯」という言葉は「中庸」の一節。「強なるかな矯たり」と読み下すらしい。現代日本語に訳すと「まことに強いことよ」となる。

 

Exforscher Japans:元日本研究者

 

 

シーボルトは、1796年、ドイツのバイエルン公国ヴュルツブルグ生まれた。父は大学教授。長じてヴュルツブルグ大学に医学、植物、動物、地文、人種の諸学を学んだ。1822年、和蘭東インド会社に入り、1823年、長崎出島に商館付医員として着任した。医学・博物学の研究の傍ら、日本人を診療し、医学生の教授に当たった。文政九年(1826)、商館長スツルレルの江戸参府に随行して日本人との交友を深めた。文政十一年(1828)八月、帰任に当たり、いわゆるシーボルト事件により国外追放を受け、オランダに帰った。帰国後は日本関係の著作の執筆に従事した。日蘭修好条約、通商条約が結ばれてからは、日本の外交政策について種々画策して、安政六年(1859)七月、和蘭商事会社評議員として再来日を果たした。文久元年(1861)幕府より顧問として招聘を受け、江戸に上って種々建言し、また学術面でも教導に当たったが、必ずしも彼の熱意を満たすものではなく、幾ばくもなくして解職。同年十二月、長崎に帰り、翌文久二年(1862)、日本を去った。翌年、オランダ政府の官職を辞し、1866年、ミュンヘンで没した。年70。

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ウィーン Ⅲ

2024年09月26日 | 海外

(リンク)

リンクRingはかつて存在していた城壁を撤去し環状道路として整備された道路である。リンク沿いには、王宮やマリア・テレジア広場、国会議事堂、ラートハウスパークなどが連なる。

リンクについて「米欧回覧実記」では次のとおり解説している。

――― 此都ノ旧部ヲ囲ミタル、五稜郭ノ墩塁ハ、内外部ヲ隔絶シ、市民ノ生意ニ不便ナルヲ以テ、仏国巴黎府ノ「プートワルイタリアン」ノ例ニナラヒ、一千八百五十七年、皇帝ノ命ヲ下シ、其墩塁ヲ取崩シテ平地トナシ、併セテ乾濠ヲ埋メ、闊(ひろさ)五十七「メートル」ノ大路ヲ修メ、名ケテ「リングストラセ」ノ通街ト云、今ニ猶修繕中ナリ、此大路ニハ、人道、馬車、重車道、及ヒ中央ノ軽車道、合セテ五条ノ道ニテナル、各道ノ界線ニハ、緑樹ヲウエ、猶伯林府(ベルリン)ノ「ウンテルデンリンデン」街ニ同シ、又街車ノ鉄規ヲシク、米利堅ノ都府ニ同シ、此ヲ府中ニ於テ第一ノ街衢(だいく)トス、両側ノ家屋モ、ミナ壮麗ニテ、気象甚タ優美ナリ、然レトモ甃石ノ設ケハ、未タ整備セズ、乾燥ノ時ハ塵土飛散シ、雨後ニハ泥淖(でいどう)ヲ掻キタテ、水道ノ設ケ足ラズシテ、水ヲ灑(ちら)シ塵ヲ鎮メル方法モ未タ完全セス、夜ハヲ照シテ、光華爛然タリ、電信柱ハ鉄ヲ以テ美麗ニ製セリ、

 

国会議事堂

19世紀に竣工したもの

 

ブルク劇場

ブルク劇場Burgtheaterは、やはり19世紀に建築された歴史的建造物

 

(軍事歴史博物館)

シェーンブルン宮殿から軍事歴史博物館へも地下鉄とトラムを乗り継いで移動した。

軍事歴史博物館(Heeresgeschichtliches Museum)は、当初兵器収蔵庫として建てられたもので、岩倉使節団がウィーンを訪ねた時もまだ兵器収蔵庫(武器庫=Arsenal)として使用されていた。使節団は熱心に武器庫を見学して刻銘な記録を残している。

明治六年(1873)六月七日、岩倉使節団は朝からウィーンの武器庫に赴いている。「米欧回覧実記」の記載に従えば、この武器庫はウィーンの南にあり、1849年より建設が着手され、およそ10年の歳月をかけて落成した。

――― 域中ニ建起セル、武器庫ノ屋造、尤モ高大ナリ、中央ニ円塔ヲ起シ、彎弧ノ法ヲ以テ輳合セル、高廠ナル巨屋ヲ縦横ニ造営シ、二層ノ高館ナリ、内景ハ摺金ニテ飾リ、光彩爛然ナリ、所所ニ画ヲ張ル、ミナ墺国ノ軍隊、隣国トノ戦争ノ図ナリ、造営ノ壮美ナルコト目ヲ驚ス

中ニ蔵セル武器ハ、古甲古兵ヲ玻瓈(ガラス)ノ箱ニ盛リ陳列ス、一千五百七十七年ヨリ、一千六百二十四年ノ間、普魯(プロシャ)王ノ著用セシ甲冑、及ヒ同時代ヨリ、一千七百四十年マテニ分捕シタル、独逸各王侯ノ甲冑、戎衣数領アリ、中ニモ一千六百七十八年ヨリ、同七百二年マテ、拝焉(バイロン)国公ノ著用セシ甲冑ノ如キハ、甚タ我邦ノ甲冑ノ製作ニ似タリ、(以下、略)

 

軍事歴史博物館

 

フランツ・ヨーゼフ一世胸像

 

 

 

 

 

 

熱気球

 

気球は18世紀末にフランスで発明され、1783年には有人飛行に成功している。1794年のフランス革命時に敵情視察と着弾地点観測のためにガス気球を使用したという記録が残る。1870年の普仏戦争でも拠点間の連絡目的で気球が使用されており、戦争を視察した日本人もこれを目にしたかもしれない。明治十年(1877)の西南戦争において包囲された熊本城との連絡用に気球の活用が発案されたが、実用化の前に開城されてしまったため幻に終わってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

軍事歴史博物館

 

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ウィーン Ⅱ

2024年09月26日 | 海外

(ウィーン世界博物館)

ウィーン世界博物館Weltmuseum Wienにおける日本関係の展示品は、明治六年(1873)のウィーン万博の際、日本が出展した品々である。今回のウィーン訪問では是非見たかったものの一つである。

「墺國維也納府 スタイン殿」という書簡が目を引いた。このスタインとは法学者ローレンツ・シュタインのことだろうか。明治政府幹部とスタインの交流はこの頃から始まっていたのか。興味が尽きない。

 

ウィーン世界博物館

Weltmuseum Wien

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

墺國維也納府 スタイン殿

 

ローレンツ・フォン・シュタイン(1815~1890)はドイツ出身の法学者であり思想家。キールやベルリンで法哲学や歴史法学を学んだ後、パリに留学した。その後はウィーン大学で国法学者・行政学者・財政学者として名声を高めた。明治十五年(1882)、伊藤博文はウィーンのシュタインのもとを訪ね、2か月にわたって講義を受けた。その際、伊藤博文にドイツ式の立憲体制を勧めたことで知られる。シュタインのもとを訪ねたのは、伊藤博文だけでなく、山県有朋、谷干城、黒田清隆、西園寺公望、乃木希典、陸奥宗光ら錚々たる顔ぶれが含まれており、「シュタイン詣で」とまでいわれた。またキールに保管されている「シュタイン関係文書」の中には、日本人から送られてきた多数の書簡が含まれている。差出人の中には伊藤や黒田、陸奥、谷のほかに福沢諭吉、森有礼、松方正義の名がある。シュタイン自身は日本を訪れたことはないが、当時のお雇い外国人並みの信頼を集めていたことが伺われる。瀧井一博氏の研究によれば、「シュタイン関係文書」の中でもっとも古いものが明治十五年(1882)の福沢諭吉からの書簡というが、日本とシュタインとの交流はそれ以前からあったという。

明治六年(1873)、ウィーン万博の際、当時外務省通商政策局長を務めていたガーゲルン男爵(Maz von Gargern)の屋敷で開かれた園遊会に、「日本からの使者」や日本公使館員とともにシュタインも招かれており、そこで接触があったと考えらえる。瀧井先生は「(ウィーン万博で)醸し出されたウィーンの日本熱に、シュタイン自身も巻き込まれていたということが一つ考えられよう。」と述べておられるが、シュタインがこの頃から日本への関心を高めていったことは想像に難くない。

私がウィーン世界博物館で目にしたシュタイン宛の文書(切手が貼られていることから郵便物である可能性が高い)が、何時のものか、何が書かれているのか、残念ながら詳細は分からないが、非常に興味深いものがある。

 

 

 

(ホーフブルク王宮)

 

ホーフブルク王宮

 

明治六年(1873)6月8日の午後、岩倉使節団一行はホーフブルク王宮(Hofburg Wien)を訪い、皇帝フランツ・ヨーゼフ一世および皇后エリザーベトに謁見している。ホーフブルク王宮は、「米欧回覧実記」では「ウルテボルク宮」と紹介されている。

――― 一時ニ宮内省ヨリ、御車三輛ヲ粧飾シ、馭者盛粧シ、護衛ノ騎ヲ備ヘ、宮内ノ貴官来リ迎ヘテ、帝宮ニ於テ、「フランシス・ショーセフ」皇帝、及ヒ皇后ニ謁見ス

 

(国立図書館プルンクザール)

国立図書館ブルンクザール(Prunksaal der Österreichischen Nationalbibliothek)は、18世紀後半に建設されたもの。かつては王宮図書館であった。プルンク(Prunk)とは豪華という意味である。その名に相応しく大理石の柱と優美な天井画に囲まれた空間は紛れもなく豪華である。

 

 

国立図書館プルンクザール

 

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ウィーン Ⅰ

2024年09月26日 | 海外

ウィーンはいうまでもなく「音楽の都」である。ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、ブルックナー、マーラー、ヨハン・シュトラウスといった音楽の歴史を彩る錚々たる音楽家がこの街を拠点に名作を生み出した。岩倉使節団がウィーンを訪れた明治六年(1873)は、ブラームスやブルックナーが活躍していた時期である。

ところが、岩倉使節団の公式記録である「米欧回覧実記」(久米邦武著)では一切「音楽の都」という表現は使われず、それどころがベートーヴェンもモーツァルトも登場しない。彼らの興味は芸術や音楽よりも産業や兵器であって、ウィーン滞在期間中にコンサートに行った形跡はない。

ウィーンを漢字で書くと「維納」である。

――― 維納ハ英仏ニテ「ヴイヤナ」と云、多悩(ドナウ)河ノ西岸ニアリ、北緯四十八度十二分、東経十六度二十三分に位シ、人口八十三万四千二百八十四人アリ、其繁盛ナルコト、伯林府(ベルリン)に匹敵シ、其壮麗ナルコト、巴黎(パリ)ニ亜ス、多悩河ハ、此地に至リテ支派数条ヲ分ツテ流レ、河中に洲島ヲナス、当府ハ其西派ノ一流を含ミ、市屋ハ流ヲ挟ミ、洲上ニマテ溢レ、雲甍(ウンポウ)ヲ連ネ、府中ヲ流ルル、西多悩ノ支河ハ、其水勢甚タ浩汗(コウカン)ナラサルナリ、全府スベテ平地ニテ、市中ニ高低少ナシ、地気暖ニシテ、草木暢茂(チョウモ)ス

 

(プラーター公園)

プラーター(Prater)公園はウィーン万博会場となった場所である。 (Prater 99, 1020 Wien)久米邦武の「米欧回覧実記」でもウィーン万博について子細に報告されている。

岩倉使節団がウィーンに到着したのは明治六年(1873)六月三日のことであった。

――― 英、仏、両国の如キハ、ミナ文明ノ旺スル所ニテ、工商兼秀レトモ、白耳義(ベルギー)、瑞士(スイス)ノ出品ヲミレハ民ノ自主ヲ遂ケ、各良宝ヲ蘊蓄スルコト、大国モ感動セラル、普(プロシャ)ハ大ニ薩(ザクセン)ハ小ナルモ、工芸ニ於テハ相譲ラス、而シテ露国ノ大ナルモ、此等ノ国トハ、猶其列ヲ同シクスル能ハス、墺国(オーストリア)ノ列品ヲミレハ、勉強シテ文明国ニ列スルヲ得ルニスギス

と述べている。「国民自主ノ権利ニ於イテハ、大モ畏ルルニ足ラス、小モ侮ルベカラス」と主張する「米欧回覧実記」には一貫して「小国」への共感がある。根底には我が国も小国であっても、国民に「自主の生理」「自主の精神」があれば大国にも対抗できるという信念が感じられる。

博覧会場となったプラーター公園についての叙述。

――― 博覧会場ハ、維納ノ東北ナル、「プラーテル」偕楽苑ニ於テ、大円堂、長廊榭(ギャラリー)ヲ建起ス、此「プラーテル」苑ノ地タル、多悩(ドナウ)河ノ中州ニ位シ、全洲ハ五方英里(マイル)余、平坦ノ場所ナリ、此ニ細草ヲ播蒔(はじ)シ、樹木ヲ植エ、中ニハ茶亭ヲ中枢トシ、三条ノ斜線ヲ日脚状ニ劃シ、大路ヲ開ク、両側ニ「ホースチェストナット」〈楢ニ似テ緑陰愛スヘキ樹ナリ〉樹ヲウエ、毎条坦平、遠キニ連リ髪ノ如シ、其壮美ナルコト、仏国巴黎ノ「バーデブロン」(ブローニュの森)ニ比スヘキ勝地ナリ、今度其正中ニ於テ、会場ノ地域ヲ相シ、堂榭(どうしゃ)ヲ建築セリ、

プラーター公園

 

「堂榭」とは今でいうドームのことだろう。

 

残念ながら150年前のウィーン万博の痕跡を見ることはできなかったが、公園中央を貫く真っすぐな大通りは、万博の会場の名残かもしれない。この風景とそっくりな絵が「米欧回覧実記」に掲載されている。

 

プラーター公園

 

以下、日本の展示品に関する「米欧回覧実記」の記述である。

――― 我日本国ノ出品ハ、此会ニテ殊ニ衆人ヨリ声誉ヲ得タリ、是其一ハ其欧洲ト趣向ヲ異ニシテ、物品ミナ彼邦人ノ眼ニ珍異ナルニヨル、其二ハ近傍ノ諸国ニ、ミナ出色ノ品少キニヨル、其三ハ近年日本ノ評判欧洲ニ高キニヨル、其内ニテ工産物ハ、陶器ノ誉レ高シ、其質ノ堅牢ニシテ、制作ノ巨大ナルニヨルノミ、火度ノ吟味、顔料ノ取合、画法ノ研究等、ミナ門戸ヲモ窺(うかが)フニ足ラス、絹帛ノ類モ、其糸質ノ美ナルノミ、織綜(しょくそう)ノ法、多クハ不均ニシテ、染法は僅ニ植物ノ仮色ニテナルヲ以テ、光沢ノ潤ヒナシ、漆器ハ、日本ノ特技ナレハ、評判高シ、銅器ノ工モ精美ヲ欠ケトモ、七宝塗、鑲嵌(ぞうがん)細工ハ、大ニ賞美セラルル工技ナリ、画様ハ西洋ト別種ニテ、花鳥ノ如キハ、風致多シトシテ賞美スレトモ、人物ノ画ニ至リテハ、或ハ俳優ノ粉飾ヲ模シ、陋醜(ろうしゅう)ノ面目、人ヲシテ背ニ汗セシム、寄木細工モ評判ナレトモ、接合ノ際ニ術ヲ尽サス、漆ノ功ヲ恃ムノミ、欧洲ニテ此技工ヲナセルヲ一見シテ、更ニ発明スル所アラハ、一ノ国産トアンルヘシ、麦藁細工モ、亦評判アレトモ、元来価アルモノトハ看認スシテ雑作シタル物ユヘ、早ク損スルヲ如何セン、染革ノ製作ハ、反テ劇賞ヲ受ケタリ、是或ハ欧人ノ未タ知ラサル秘蘊(ひうん)ヲ漏セルカ、紙ト麻枲(まし)トハ看官ノ目ヲ驚カセタリ、紙ハ材料、抄法、共ニ別法ナレハナリ、越後枲皮ノ白質ニシテ光輝ナル、西洋人之ヲミテ賽絹(まがいきぬ)ノ織物トナサンコトヲ思付タルモノアリト、楮皮(ちょひ)モ亦大ニ貴重セラレタリ、油絵ノ如キハ曾テ欧洲ノ児童ニモ及ハス、本色ノ画法、反テ価ヲ有セリ、

 

久米邦武は努めて冷静かつ公正に記述しているが、総じて日本の出展は好評だったようである。久米が記しているように、西洋の展示品と比べて「珍異」であり、注目を集めたのであろう。ウィーン万博への我が国の参加は、この後世紀末に向けてヨーロッパで起こったジャポニズムの契機となったといわれる。

 

(ホテル・オーストリア)

地下鉄で一駅行って、ドナウ運河を渡って西側に出る。ホテル・オーストリアを訪ねる。

明治六年(1873)六月三日、ウィーンに入った岩倉使節団はホテル・オーストリア(Hotel Austria)に旅装を解いた。ホテル・オーストリアが現在も存続しているのか、よく分からない。同名のホテルが市内のFleischmarktにある。このホテルが150年の歴史を持つものか調べきれなかったが、看板にSeit 1955とあるので明治六年に所在したホテル・オーストリアとは別物と考えられる。

 

ホテル・オーストリア

 

(シュテファン大聖堂)

シュテファン大聖堂はウィーンのシンボル的存在である。

「米欧回覧実記」において「セント、スチーブル」あるいは「セントテュヴン」と表記さえているのが、シュテファン大聖堂(Domkirche St. Stephan)のことである。「米欧回覧実記」中に挿絵が掲載され、そこには(高さ七十四間)と注記が付されている。一間は約1.82メートルなので、これをもとに計算すると135メートルほどになるが、実際の南塔の高さは137メートルである。当初南塔と同じ高さで建設されるはずだった北塔の方は、経済的な理由から途中までで断念されてしまったとされている。

 

入場料を払うと南塔を登ることができる。螺旋階段は343段。勢いよく駆け上がると目が回るので、ゆっくり上るのがコツである。

下るときは昇ってくる人とすれ違うことになる。

「あとどれくらい?」

「まだまだ」

と会話を交わしながら行き来するのが楽しい。

昇り切るとお土産屋さんのある少し広い空間になっており、四方を眺めることができる。自分の足で登った末の眺望は格別である。それに

しても、ここで著しく体力を消耗した。既に両脚がガクガクとなる。

 

「米欧回覧実記」によれば

――― 皇帝ノ菩提寺ニテ、高塔ノ尖ハ、四百四十五尺(やはり約135メートル)ニ及ヒ、欧洲ノ大寺中ニテ、第三等ニオル高塔ナリ、市街稠密ニテ、微(かすか)ニ高低ノ地アリ、街路不規則ニテ狭隘ナリ、其広街ハ濶(ひろ)サ七八間ニスキズ、家屋ハ五六階ノ層楼ヲ森列シ、街路尽ク堅石ヲ甃シタリ、人歩車行ノ喧闐(けんてん)ナルコト、此部ヲ最トス

とシュテファン大聖堂周辺の繁華な様を描いている。なお、「甃」とは石畳みのことである。

 

 

シュテファン大聖堂

 

 

 

 

 

 

南塔からの眺望

 

南塔を昇ると、展望台の手前に鐘楼跡があり、何体かの石像が置かれている。

 

南塔 見張り台

螺旋階段を昇り切ったところにある売店

 

 

 

壮麗な内陣

 

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