ウィーンはいうまでもなく「音楽の都」である。ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、ブルックナー、マーラー、ヨハン・シュトラウスといった音楽の歴史を彩る錚々たる音楽家がこの街を拠点に名作を生み出した。岩倉使節団がウィーンを訪れた明治六年(1873)は、ブラームスやブルックナーが活躍していた時期である。
ところが、岩倉使節団の公式記録である「米欧回覧実記」(久米邦武著)では一切「音楽の都」という表現は使われず、それどころがベートーヴェンもモーツァルトも登場しない。彼らの興味は芸術や音楽よりも産業や兵器であって、ウィーン滞在期間中にコンサートに行った形跡はない。
ウィーンを漢字で書くと「維納」である。
――― 維納ハ英仏ニテ「ヴイヤナ」と云、多悩(ドナウ)河ノ西岸ニアリ、北緯四十八度十二分、東経十六度二十三分に位シ、人口八十三万四千二百八十四人アリ、其繁盛ナルコト、伯林府(ベルリン)に匹敵シ、其壮麗ナルコト、巴黎(パリ)ニ亜ス、多悩河ハ、此地に至リテ支派数条ヲ分ツテ流レ、河中に洲島ヲナス、当府ハ其西派ノ一流を含ミ、市屋ハ流ヲ挟ミ、洲上ニマテ溢レ、雲甍(ウンポウ)ヲ連ネ、府中ヲ流ルル、西多悩ノ支河ハ、其水勢甚タ浩汗(コウカン)ナラサルナリ、全府スベテ平地ニテ、市中ニ高低少ナシ、地気暖ニシテ、草木暢茂(チョウモ)ス
(プラーター公園)
プラーター(Prater)公園はウィーン万博会場となった場所である。 (Prater 99, 1020 Wien)久米邦武の「米欧回覧実記」でもウィーン万博について子細に報告されている。
岩倉使節団がウィーンに到着したのは明治六年(1873)六月三日のことであった。
――― 英、仏、両国の如キハ、ミナ文明ノ旺スル所ニテ、工商兼秀レトモ、白耳義(ベルギー)、瑞士(スイス)ノ出品ヲミレハ民ノ自主ヲ遂ケ、各良宝ヲ蘊蓄スルコト、大国モ感動セラル、普(プロシャ)ハ大ニ薩(ザクセン)ハ小ナルモ、工芸ニ於テハ相譲ラス、而シテ露国ノ大ナルモ、此等ノ国トハ、猶其列ヲ同シクスル能ハス、墺国(オーストリア)ノ列品ヲミレハ、勉強シテ文明国ニ列スルヲ得ルニスギス
と述べている。「国民自主ノ権利ニ於イテハ、大モ畏ルルニ足ラス、小モ侮ルベカラス」と主張する「米欧回覧実記」には一貫して「小国」への共感がある。根底には我が国も小国であっても、国民に「自主の生理」「自主の精神」があれば大国にも対抗できるという信念が感じられる。
博覧会場となったプラーター公園についての叙述。
――― 博覧会場ハ、維納ノ東北ナル、「プラーテル」偕楽苑ニ於テ、大円堂、長廊榭(ギャラリー)ヲ建起ス、此「プラーテル」苑ノ地タル、多悩(ドナウ)河ノ中州ニ位シ、全洲ハ五方英里(マイル)余、平坦ノ場所ナリ、此ニ細草ヲ播蒔(はじ)シ、樹木ヲ植エ、中ニハ茶亭ヲ中枢トシ、三条ノ斜線ヲ日脚状ニ劃シ、大路ヲ開ク、両側ニ「ホースチェストナット」〈楢ニ似テ緑陰愛スヘキ樹ナリ〉樹ヲウエ、毎条坦平、遠キニ連リ髪ノ如シ、其壮美ナルコト、仏国巴黎ノ「バーデブロン」(ブローニュの森)ニ比スヘキ勝地ナリ、今度其正中ニ於テ、会場ノ地域ヲ相シ、堂榭(どうしゃ)ヲ建築セリ、
プラーター公園
「堂榭」とは今でいうドームのことだろう。
残念ながら150年前のウィーン万博の痕跡を見ることはできなかったが、公園中央を貫く真っすぐな大通りは、万博の会場の名残かもしれない。この風景とそっくりな絵が「米欧回覧実記」に掲載されている。
プラーター公園
以下、日本の展示品に関する「米欧回覧実記」の記述である。
――― 我日本国ノ出品ハ、此会ニテ殊ニ衆人ヨリ声誉ヲ得タリ、是其一ハ其欧洲ト趣向ヲ異ニシテ、物品ミナ彼邦人ノ眼ニ珍異ナルニヨル、其二ハ近傍ノ諸国ニ、ミナ出色ノ品少キニヨル、其三ハ近年日本ノ評判欧洲ニ高キニヨル、其内ニテ工産物ハ、陶器ノ誉レ高シ、其質ノ堅牢ニシテ、制作ノ巨大ナルニヨルノミ、火度ノ吟味、顔料ノ取合、画法ノ研究等、ミナ門戸ヲモ窺(うかが)フニ足ラス、絹帛ノ類モ、其糸質ノ美ナルノミ、織綜(しょくそう)ノ法、多クハ不均ニシテ、染法は僅ニ植物ノ仮色ニテナルヲ以テ、光沢ノ潤ヒナシ、漆器ハ、日本ノ特技ナレハ、評判高シ、銅器ノ工モ精美ヲ欠ケトモ、七宝塗、鑲嵌(ぞうがん)細工ハ、大ニ賞美セラルル工技ナリ、画様ハ西洋ト別種ニテ、花鳥ノ如キハ、風致多シトシテ賞美スレトモ、人物ノ画ニ至リテハ、或ハ俳優ノ粉飾ヲ模シ、陋醜(ろうしゅう)ノ面目、人ヲシテ背ニ汗セシム、寄木細工モ評判ナレトモ、接合ノ際ニ術ヲ尽サス、漆ノ功ヲ恃ムノミ、欧洲ニテ此技工ヲナセルヲ一見シテ、更ニ発明スル所アラハ、一ノ国産トアンルヘシ、麦藁細工モ、亦評判アレトモ、元来価アルモノトハ看認スシテ雑作シタル物ユヘ、早ク損スルヲ如何セン、染革ノ製作ハ、反テ劇賞ヲ受ケタリ、是或ハ欧人ノ未タ知ラサル秘蘊(ひうん)ヲ漏セルカ、紙ト麻枲(まし)トハ看官ノ目ヲ驚カセタリ、紙ハ材料、抄法、共ニ別法ナレハナリ、越後枲皮ノ白質ニシテ光輝ナル、西洋人之ヲミテ賽絹(まがいきぬ)ノ織物トナサンコトヲ思付タルモノアリト、楮皮(ちょひ)モ亦大ニ貴重セラレタリ、油絵ノ如キハ曾テ欧洲ノ児童ニモ及ハス、本色ノ画法、反テ価ヲ有セリ、
久米邦武は努めて冷静かつ公正に記述しているが、総じて日本の出展は好評だったようである。久米が記しているように、西洋の展示品と比べて「珍異」であり、注目を集めたのであろう。ウィーン万博への我が国の参加は、この後世紀末に向けてヨーロッパで起こったジャポニズムの契機となったといわれる。
(ホテル・オーストリア)
地下鉄で一駅行って、ドナウ運河を渡って西側に出る。ホテル・オーストリアを訪ねる。
明治六年(1873)六月三日、ウィーンに入った岩倉使節団はホテル・オーストリア(Hotel Austria)に旅装を解いた。ホテル・オーストリアが現在も存続しているのか、よく分からない。同名のホテルが市内のFleischmarktにある。このホテルが150年の歴史を持つものか調べきれなかったが、看板にSeit 1955とあるので明治六年に所在したホテル・オーストリアとは別物と考えられる。
ホテル・オーストリア
(シュテファン大聖堂)
シュテファン大聖堂はウィーンのシンボル的存在である。
「米欧回覧実記」において「セント、スチーブル」あるいは「セントテュヴン」と表記さえているのが、シュテファン大聖堂(Domkirche St. Stephan)のことである。「米欧回覧実記」中に挿絵が掲載され、そこには(高さ七十四間)と注記が付されている。一間は約1.82メートルなので、これをもとに計算すると135メートルほどになるが、実際の南塔の高さは137メートルである。当初南塔と同じ高さで建設されるはずだった北塔の方は、経済的な理由から途中までで断念されてしまったとされている。
入場料を払うと南塔を登ることができる。螺旋階段は343段。勢いよく駆け上がると目が回るので、ゆっくり上るのがコツである。
下るときは昇ってくる人とすれ違うことになる。
「あとどれくらい?」
「まだまだ」
と会話を交わしながら行き来するのが楽しい。
昇り切るとお土産屋さんのある少し広い空間になっており、四方を眺めることができる。自分の足で登った末の眺望は格別である。それに
しても、ここで著しく体力を消耗した。既に両脚がガクガクとなる。
「米欧回覧実記」によれば
――― 皇帝ノ菩提寺ニテ、高塔ノ尖ハ、四百四十五尺(やはり約135メートル)ニ及ヒ、欧洲ノ大寺中ニテ、第三等ニオル高塔ナリ、市街稠密ニテ、微(かすか)ニ高低ノ地アリ、街路不規則ニテ狭隘ナリ、其広街ハ濶(ひろ)サ七八間ニスキズ、家屋ハ五六階ノ層楼ヲ森列シ、街路尽ク堅石ヲ甃シタリ、人歩車行ノ喧闐(けんてん)ナルコト、此部ヲ最トス
とシュテファン大聖堂周辺の繁華な様を描いている。なお、「甃」とは石畳みのことである。
シュテファン大聖堂
南塔からの眺望
南塔を昇ると、展望台の手前に鐘楼跡があり、何体かの石像が置かれている。
南塔 見張り台
螺旋階段を昇り切ったところにある売店
壮麗な内陣