史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

海南

2011年01月15日 | 和歌山県
(長保寺)
 海南市の長保寺は、紀州徳川家の墓所である。朝七時に高槻の実家を出て、長保寺大門前に八時半過ぎに到着した。そこへ一人の老人が現れ、「九時になったら拝観料三百円を取られるけど、それまでに見ればタダだよ」と教えてくれた。国宝に指定されている本堂と多宝塔は、いずれも鎌倉期の建造である。本堂と多宝塔を見学したあと、紀州徳川家廟堂へ向かうと鍵がかかっていて入ることができない。結局、九時に受け付けの方が現れるまで待つことにした。しかし、九時十分まで待ったが、誰も来なかった。紀州徳川家の墓所が、普段から非公開なのか、たまたまこの日は年末で休業日だったのか、それすら分からないまま撤収することになった。紀州徳川家の墓所は、別の機会に再挑戦することにしたい。


長保寺 本堂と多宝塔

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和歌山 加太

2011年01月15日 | 和歌山県
(加太砲台跡)
 淡路島の由良から友ヶ島を経て加太に至るラインは、古くから大阪湾の防衛にとって要地であった。軍艦奉行勝海舟が和歌山に派遣されたのも、加太に砲台を築くためであった。維新後も加太の重要性に変わりはなく、明治二十年代から加太、友ヶ島、由良は要塞化され、第二次大戦まで使用された。


加太砲台跡 弾薬室

 大砲は撤去されているが、砲台跡、トンネル状の通路、地下の弾薬室などがほとんど往時のまま残されている。


トンネル


友ヶ島

 友ヶ島は、地ノ島(写真手前)、鬼島、沖ノ島、神島から成る。その向こうに淡路島が霞んで見える。

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和歌山 Ⅲ

2011年01月15日 | 和歌山県
(嘉家作)

 和歌山市北郊の嘉家作(かやつくり)は、城下町の出入り口にあたり、交通の要衝になっていた。今は見る影もないが、それでも古い家屋が何軒か残っているのが嬉しい。


嘉家作り丁


春泉堂跡

 春泉堂は、藩政時代青物御納屋通称“おん善”こと村橋善平の別邸であった。藩公が岩出や粉河の別館にお成りの際に度々ここで休憩をとった。本願寺門跡や堂上公卿諸侯が紀州へ出府の際にも立ち寄ることが通例となっていた。
 廃藩置県後、この屋敷は津田出の手に渡り、津田出が上京した後は、出の実弟にして初代和歌山県令津田正臣が住んだ。

 津田出は、藩の蘭学教授として経済政事を講義し、御小姓に取り立てられた。一時、御用取次、国政改革制度調総裁に任命されたが、征長に反対したため退けられた。明治元年(1868)九月、藩執政に登用され、藩政改革に乗り出す。翌年には和歌山藩大参事となり、明治維新の原型となる改革を実施した。特に全国に先駆けて徴兵制を導入し、ドイツの士官によって近代的な軍事教練を実施した。明治新政府の注目するところとなり、廃藩置県ののち、大蔵少輔にとりたてられた。ついで陸軍省に転じ、少将に任じられた。明治二十三年(1890)には貴族院議員に勅選された。明治三十八年(1905)年七十四で没。
 津田正臣は、出の実弟。御三家の藩士でありながら尊王思想を有していた。和歌山県が生まれた時に参事に就任、まもなく権令に昇任した。明治二十九年(1896)年五十六で没。

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平野

2011年01月15日 | 大阪府
(満願寺)


満願寺

 中山忠伊が自刃したと伝えられる平野の満願寺である。満願寺には、忠伊の位牌と辞世が残っているが、公開されているわけではない。

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東住吉

2011年01月15日 | 大阪府
(見性寺)


見性寺

 松浦玲著「幕末・京大阪 歴史の旅」(朝日選書)に一章を割いて「平野郷に消えた謎の皇子」を紹介している。中山忠光が天誅組に参加して敗れ、長州に逃れて暗殺されたことはよく知られているが、同じ中山家の出身で忠伊(ただのぶ)と名乗る人物がいたことはあまり知られていない。忠伊は光格天皇の皇子で、十七歳のとき(か、もう少し早く)中山忠頼の猶子として中山家に入ったという。忠頼には忠能という継嗣がおり、何故忠伊がこの時点で中山家に入ったのか不明である。忠伊は文久三年(1863)の時点で六十歳という高齢であったが、金剛山で天誅組の後詰として参戦した。天誅組が壊滅したあと摂津平野に潜伏したが、翌年二月、平野の満願寺で自刃したという。


遍光院殿義烈忠誠志深大居士

 見性寺には、中山忠伊のものと伝えられる墓碑がある。墓石の裏面には、「正三位近衛中将藤原忠伊」という名前が刻まれている。

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住吉

2011年01月15日 | 大阪府
(東粉浜小学校)


この付近
土佐藩住吉陣屋跡
吉田東洋設営指揮の地
後藤象二郎赴任の地
坂本龍馬訪問の地

 住吉区の東粉浜小学校の近くに、最近土佐藩住吉陣屋跡を示す石碑が建てられた。側面には「吉田東洋設営指揮の地」「後藤象二郎赴任の地」「坂本龍馬訪問の地」と、うるさいほど文字が書いてある。
 住吉陣屋は、山内容堂が鮫洲の藩邸に蟄居を命じられていた時分に、幕府の意を迎えるために参政吉田東洋が建造したものである。文久年間以降は土佐勤王党の拠点となった。木津川河口に鉄鎖を渡して出入りの船を止め、舟銭を徴収したという。
 大岡昇平「堺港攘夷始末」(中公文庫)によれば、「箕浦猪之吉日記」一月十日
――― 幕兵南に逃げるや、堺城に至る。土人防ぎて納れざるに付て、此を怒り、火を放て過去る由。
との記述をもって、鳥羽伏見の幕軍敗残兵によって住吉陣屋が焼き払われたとしている。「堺城」を「住吉陣屋」、「土人」は「土佐兵」と解釈した上での結論であるが、説得力のある推論である。

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