史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

長岡 Ⅱ

2011年05月24日 | 新潟県
(昌福寺)


昌福寺
  
慶応四年(1868)七月二十五日、新町の長福寺に陣を置いて新政府軍と交戦していた河井継之助は、左膝下に被弾した。負傷した河井継之助が翌日搬送されたのが四郎丸の昌福寺であった。当時、昌福寺は長岡藩の野戦病院となっていた。同二十九日、長岡城が奪回されると、長岡藩兵は会津まで長途退却することが決定され、継之助も戸板に乗せられて昌福寺を出た。


鵜殿団次郎(春風)の墓

昌福寺には、鵜殿団次郎(春風)の墓がある。鵜殿団次郎は、天保二年(1831)長岡藩士の家に生まれた。幼い頃、神童といわれた。安政二年(1855)、江戸に出て、東条英庵、手塚律蔵に蘭学、英学を学んだ。特に数学、天文学、航海、計量学に優れ、蕃所調所で数学を教授した。安政六年(1859)には、大野藩の要請を受けて、西洋型帆船大野丸に乗って樺太まで往復している。西郷隆盛も鵜殿団次郎の識見を尊敬し、薩摩に招こうとしたことがあった。その縁で、江戸開城に当たって勝海舟、山岡鉄舟を助けて西郷隆盛との会談を斡旋したという。その後、長岡藩の開戦を聞いて急いで帰郷したが、既に長岡城は新政府軍に囲まれて入城を果たせなかった。落城平定ののち城下に入ったが、その後いくばくも経たないうちに病を得て没した。三十八歳。


長岡藩国漢学校発祥之地碑

明治後、小林虎太郎が中心となって開校した国漢学校は、明治二年(1869)五月、当初は昌福寺に開かれた。

(本妙寺)


本妙寺

本妙寺も、慶応四年(1868)五月十九日の兵火により焼失した。
本妙寺には、長岡藩の儒者山田到処の墓があるが、探しきれなかった。墓地はかなり広い。山田到処は、藩校崇徳館の校長として、河井継之助、鵜殿団次郎、川島億次郎らを育てた。戊辰戦争では、反戦・勤王を唱えた。

(興国寺)


興国寺

興国寺には小林虎三郎、小林雄七郎兄弟の墓がある。
小林虎三郎は、戊辰戦争では開戦に反対した。戦後、大参事として長岡の復興に尽くしたが、明治十年(1877)五十歳で死去。
雄七郎は、虎三郎の末弟。江戸、横浜に遊学ののち、大蔵省に出仕。民権自由を唱えて、第一回衆議院議員に当選した。長岡藩士族の子弟のための育英機関「長岡社」を設立し、人材の育成に努めた。


小林虎三郎 雄七郎 墓

(西福寺)


西福寺

長岡城が落城した慶応四年(1868)五月十九日の早暁、西軍来襲を告げる鐘が乱打された。長岡では、この梵鐘のことを「維新の暁鐘」と呼んでいる。


維新の暁鐘(ぎょうしょう)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長岡 Ⅰ

2011年05月24日 | 新潟県
(JR長岡駅)


JR長岡駅

長岡城の天守のあった辺りに、ちょうどJR長岡駅が建設されてしまった。この立地を決めた人は、城郭とか史跡などに全く興味が無かったのだろう。全国の城を巡ってきたが、駅と化した城は長岡城くらいではないか。現在、二の丸址を示す石碑が、駅前の厚生会館の横に置かれているくらいで、これも通りから少し入った場所にあるので、ほとんど気付く人もいない。

長岡城は、大河信濃川を天然の要害とする平城で、「兜城」あるいは「浮島城」と呼ばれていた。天守閣は持たず、本丸の隅櫓の一つに御三階と呼ばれる建物があり、それが城のシンボルとして聳えていた。長岡における戦争は、この城を巡って展開した。長岡城は、信濃川を防御線としているが、この防御線を破られると守るには脆い城であった。
戊辰戦争で城下は灰燼に帰した。多くの領民が焼け出され、流れ弾にあたって命を落とした。北越戦争における長岡藩の戦死者は、二百五十九名とされているが、これ以外に戦争の巻き添えで亡くなった多くの市民がいたはずで、その実態は正確に把握されていない。長岡は第二次大戦でも空襲に遭い、焼け野原となった。悲劇の街である。


長岡城 二の丸址


米百俵の碑 国漢学校跡地

小泉元首相が引用したことで、俄かに有名になった「米百俵」の逸話。この話の主人公は、佐久間象山門下にあって、長州の吉田松陰(寅次郎)とともに、象門のニ虎と呼ばれた小林虎三郎である。小林虎三郎は、長岡藩大参事として戊辰戦争で焦土と化した長岡の復興に努めた。教育第一主義を唱え、赤貧にあえぐ藩士からの要求を退け、支藩である三根山藩より送られた救米百俵を国漢学校設立資金に充てた。駅前大手通りのこの場所は、かつてその国漢学校があった場所に当たる。

(河井継之助記念館)
長町一丁目の河井継之助住居跡に、平成十八年(2006)十二月二十七日、河井継之助記念館が開設された。十二月二十七日という日付は、継之助が経世の志を抱いて長岡を旅立った日に当たるそうである。


河井継之助記念館


河井継之助像

館内に入ると、河井継之助の遺品やブロンズ像、ガトリング砲(複製)などが出迎えてくれる。ガトリング砲は、当時日本国内に三台しかなく、そのうち二台を長岡藩が保有していた。
ガトリング砲は、毎分六十発から百発を連射できるという当時最強の武器であったが、裏を返せば大量に弾薬を消費する武器でもあった。弾薬の補給ができなければ、使い物にならない。実は北越戦争でガトリング砲が威力を発揮したという記録はない。継之助は城下に迫る西軍をガトリング砲で迎えうったが、自らも左肩を負傷し、結局長岡城を奪い取られ、長岡藩は撤退を余儀なくされた。

館内は二階建てになっており、二階には司馬遼太郎先生の小説『峠』の自筆原稿などが展示されている。

(如是蔵博物館)


如是蔵博物館

長岡駅のすぐ裏側に日本互尊社の運営する如是蔵博物館がある。日本互尊社とは、野本互尊(恭八郎)が唱えた互尊独尊の思想を後世に伝えるために設立された団体という。野本互尊の思想は、山本五十六をはじめ長岡出身の人たちに影響を与えた。野本の考えに共鳴した人々の資料を中心に、長岡出身の人物関係資料が如是蔵博物館に展示されている。

博物館は普段鍵がかかっており、ブザーを鳴らして係の方を呼ぶ仕組みになっている。二回ブザーを鳴らしてみたが、人が現れる気配がない。しばらく待ってみたが、諦めて駐車場に戻った瞬間であった。おもむろに一人の老人がこちらに向かってゆっくりと歩いているのを目撃した。老人の動作は鈍く、決して急いでいる様には見えなかった。博物館を拝観したいと伝えると、無言で鍵を開けてくれる。老人は、私が見学を済ませるまで、ずっと一階で待っていた。


河井継之助、牧野忠訓(十二代藩主)、忠恭(十一代藩主)、三島億ニ郎、山本帯刀らの書

博物館は三階建てになっており、一階は野本互尊の遺品など、二階は山本五十六関係の展示、三階に長岡出身の偉人の関係資料が並べられている。河井継之助、小林虎三郎、三島億二郎、山本帯刀らの書幅や肖像などを見ることができる。

(西軍上陸の地碑)
榎峠、朝日山を諦めた新政府軍は、長岡藩の本営である長岡城を直接衝く戦法を採った。慶応四年(1868)五月十九日、新政府軍は大雨で増水した信濃川を強行渡河し、中島に上陸した。指揮官は長州の三好重臣(軍太郎)。長岡藩兵も必死に防戦したが、遂に退却した。このときの攻防戦で河井継之助は左肩に銃弾を受け負傷している。


明治戊辰戦蹟顕彰碑
西軍上陸の地碑


明治戊辰之役 東西両軍戦死者之墓

中島の「西軍上陸の地」には、当時長岡藩の兵学所があった。兵学所を巡って両軍は攻防を続けたが、最後は長岡藩が火を放って、兵学所を去った。


慶応四年 五月十九日
討死忠鉄義山居士


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長岡 南部

2011年05月24日 | 新潟県
(榎峠古戦場パーク)
平成十六年(2004)十月二十三日の中越大地震で、榎峠は崩落した。この下を走る国道で親子が車ごと埋まってしまい、奇跡的に男児が救出された。記憶に生々しいニュースであるが、実はあれからもう七年が過ぎている。

榎峠と朝日山の争奪戦では、両軍、特に新政府軍に大きな犠牲が生じたが、ここで参謀山県有朋は、発想を転換して榎峠や朝日山を捨ておき、一気に長岡城を屠る作戦を立てた。結果的にこれが見事に的中した。


榎峠古戦場碑

(妙見堰)


妙見堰(越の大橋)


司馬遼太郎「峠」の碑

妙見堰の西側に、司馬遼太郎先生による「峠」の碑が置かれている。司馬先生の「河井継之助観」が凝縮されている。以下、碑文全文である。

――― 江戸封建制は、世界史の同じ制度のなかでも、きわだって精巧なものだった。 17世紀から270年、日本史はこの制度のもとにあって、学問や芸術、商工業、農業を発展させた。この島国のひとびとすべての才能と心が、ここで養われたのである。
その終末期に越後長岡藩に河井継之助があらわれた。かれは、藩を幕府とは離れた一個の文化的、経済的な独立組織と考え、ヨーロッパの公国のように仕立てかえようとした。継之助は独自な近代的な発想と実行者という点で、きわどいほどに先進的だった。
ただこまったことは、時代のほうが急変してしまったのである。にわかに薩長が新時代の旗手になり、西日本の諸藩の力を背景に、長岡藩に屈従をせまった。
その勢力が小千谷まできた。かれらは、時代の勢いに乗っていた。長岡藩に対し、ひたすらな屈服を強い、かつ軍資金の献上を命じた。
継之助は小千谷本営に出むき、猶予を請うたが、容れられなかった。といって屈従は倫理として出来ることではなかった。となれば、せっかく築いたあたらしい長岡藩の建設をみずからくだかざるをえない。かなわぬまでも、戦うという、美的表現をとらざるをえなかったのである。
かれは商人や工人の感覚で藩の近代化をはかったが、最後は武士であることにのみ終始した。武士の世の終焉にあたって、長岡藩ほどその最後をみごとに表現しきった集団はいない。運命の負を甘受し、そのことによって歴史にむかって語りつづける道をえらんだ。
「峠」という表題は、そのことを小千谷の峠という地形によって象徴したつもりである。書き終えたとき、悲しみがなお昇華せず、虚空に小さな金属音になって鳴るのを聞いた。

平成5年11月
司馬遼太郎

(前島神社)


前島神社


河井継之助 開戦決意の地碑

小千谷から戻った河井継之助は、前島村に一部隊を率いて駐屯していた親友川島億次郎(維新後三島と改姓)を訪ねた。
河井継之助は、慈眼寺における会見の首尾を説明し、戦争を避けるには、継之助の首と官軍の求める献金三万両を持参するしかない、つまり全面降伏しかないと訴えた。川島は、しばらく考えたあと、「是非もない。自分も足下と生死をともにしよう」と答えた。

(光福寺)


光福寺 しだれ桜


長岡藩本陣跡碑

光福寺は、戊辰戦争当時摂田屋長岡藩本陣とも呼ばれた。小千谷での談判が不調に終わり、川島億次郎に開戦の同意を得た河井継之助は、長岡藩諸隊長を光福寺本堂に集め、ここで藩侯父子の口上書を読み上げ、「我が藩の面目を保ち、藩公に殉じよう」と熱弁をふるった。隊長らはこのとき戦争が避けられないことを知った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする