(浅草寺)
浅草寺
この日も浅草寺は凄まじい人出であった。この雑踏の中、瓜生岩子像に特に関心を払う人もなく、心なしか所在無げに見えた。
瓜生岩子之像
瓜生岩子は、文政十二年(1829)、喜多方の裕福な商家に生まれたが、父の病死から生家は没落した。十七歳のとき、結婚して一男三女をもうけたが、三十三歳のとき夫と死別。戊辰戦争の戦火が会津に及ぶと、敵味方の別なく救助看護したという。維新後、戦乱により教育を受けられない会津藩の子弟のために幼年学校を設立するなど、本格的な慈善事業に関わり始め、明治四年(1871)には上京して養護施設の経営を学び、帰郷して貧民孤児のために福島救育所を開設した。その後も貧民救済を目的とした組織をいくつも立ち上げ、晩年、その業績を讃えられ女性として初めて紫綬褒章を受けた。明治三十年(1897)、死去。六十九歳。
櫻痴居士福地君紀功碑
瓜生岩子像の周辺には多くの石碑が建っている。その中の一つ、櫻痴居士福地君紀功碑は、明治のジャーナリスト福地桜痴の顕彰碑である。
福地桜痴は、天保十二年(1841)長崎の医師の家に生まれた。江戸に出て森山多吉郎の英塾に学び、幕府に登用されて通訳として活躍した。維新後は江湖新聞を発刊して投獄されたが、釈放後は明治政府に出仕し、岩倉使節団に同行したが、その後下野して東京日日新聞主筆として活躍した。退社後は小説家、脚本家として筆を揮った。浅草寺境内の櫻痴居士福地君紀功碑は、大正三年(1914)福地桜痴の事績を顕彰して除幕されたものである。

浅草寺
この日も浅草寺は凄まじい人出であった。この雑踏の中、瓜生岩子像に特に関心を払う人もなく、心なしか所在無げに見えた。

瓜生岩子之像
瓜生岩子は、文政十二年(1829)、喜多方の裕福な商家に生まれたが、父の病死から生家は没落した。十七歳のとき、結婚して一男三女をもうけたが、三十三歳のとき夫と死別。戊辰戦争の戦火が会津に及ぶと、敵味方の別なく救助看護したという。維新後、戦乱により教育を受けられない会津藩の子弟のために幼年学校を設立するなど、本格的な慈善事業に関わり始め、明治四年(1871)には上京して養護施設の経営を学び、帰郷して貧民孤児のために福島救育所を開設した。その後も貧民救済を目的とした組織をいくつも立ち上げ、晩年、その業績を讃えられ女性として初めて紫綬褒章を受けた。明治三十年(1897)、死去。六十九歳。

櫻痴居士福地君紀功碑
瓜生岩子像の周辺には多くの石碑が建っている。その中の一つ、櫻痴居士福地君紀功碑は、明治のジャーナリスト福地桜痴の顕彰碑である。
福地桜痴は、天保十二年(1841)長崎の医師の家に生まれた。江戸に出て森山多吉郎の英塾に学び、幕府に登用されて通訳として活躍した。維新後は江湖新聞を発刊して投獄されたが、釈放後は明治政府に出仕し、岩倉使節団に同行したが、その後下野して東京日日新聞主筆として活躍した。退社後は小説家、脚本家として筆を揮った。浅草寺境内の櫻痴居士福地君紀功碑は、大正三年(1914)福地桜痴の事績を顕彰して除幕されたものである。