goo blog サービス終了のお知らせ 

史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

浅草 Ⅲ

2011年08月01日 | 東京都
(浅草寺)


浅草寺

この日も浅草寺は凄まじい人出であった。この雑踏の中、瓜生岩子像に特に関心を払う人もなく、心なしか所在無げに見えた。


瓜生岩子之像

瓜生岩子は、文政十二年(1829)、喜多方の裕福な商家に生まれたが、父の病死から生家は没落した。十七歳のとき、結婚して一男三女をもうけたが、三十三歳のとき夫と死別。戊辰戦争の戦火が会津に及ぶと、敵味方の別なく救助看護したという。維新後、戦乱により教育を受けられない会津藩の子弟のために幼年学校を設立するなど、本格的な慈善事業に関わり始め、明治四年(1871)には上京して養護施設の経営を学び、帰郷して貧民孤児のために福島救育所を開設した。その後も貧民救済を目的とした組織をいくつも立ち上げ、晩年、その業績を讃えられ女性として初めて紫綬褒章を受けた。明治三十年(1897)、死去。六十九歳。


櫻痴居士福地君紀功碑

 瓜生岩子像の周辺には多くの石碑が建っている。その中の一つ、櫻痴居士福地君紀功碑は、明治のジャーナリスト福地桜痴の顕彰碑である。
 福地桜痴は、天保十二年(1841)長崎の医師の家に生まれた。江戸に出て森山多吉郎の英塾に学び、幕府に登用されて通訳として活躍した。維新後は江湖新聞を発刊して投獄されたが、釈放後は明治政府に出仕し、岩倉使節団に同行したが、その後下野して東京日日新聞主筆として活躍した。退社後は小説家、脚本家として筆を揮った。浅草寺境内の櫻痴居士福地君紀功碑は、大正三年(1914)福地桜痴の事績を顕彰して除幕されたものである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本郷三丁目 Ⅱ

2011年08月01日 | 東京都
(東京大学)


東京大学 赤門

 暑い一日であったが、吹き出る汗を拭いながら東京大学の構内を歩いた。さすがに我が国最高学府だけあって、至るところに銅像や石碑が建っていて、見ごたえがある。
 有名な赤門は、この場所が加賀藩上屋敷だった名残である。文政十年(1827)、前田家が将軍家斉の息女の輿入れを迎える際に建築されたものである。


大大聖寺藩上屋敷址

 東京大学の敷地内には、加賀藩の支藩である大聖寺藩の上屋敷も在った。
 加賀藩第三代藩主前田利常は、嫡子光高に八十万石で本藩を継がせ、次男利次には富山藩十万石を与えた。三男利治には大聖寺藩七万石が与えられた。以後、大聖寺藩は明治四年(1871)の廃藩置県まで続いた。


ベルツ(左)とスクリバ胸像

 大聖寺藩上屋敷跡の石碑の横に、ベルツとスクリバという二人の外国人医師の胸像が建てられている。
 ベルツは、南ドイツ、ビーティヒハイムの出身である。ライプティヒ大学病院に入院した第一回医学留学生相良元貞を診療したことがきっかけとなり、明治九年(1876)東京医学校(のちの東京大学医学部)に招聘された。以来、明治三十五年(1902)までの二十六年間に渡り、わが国の内科学の教育と診療に尽くした。日本滞在中に著した「ベルツ日記」は日本の近代化を記録した資料として知られる。大正二年(1913)大動脈瘤により死去。
 スクリバは、ヘッセン大公国ラインハイムの生まれで、明治十四年(1881)に来日した。二十年間にわたって東京大学医学部で教育と診療に従事し、わが国の外科学の礎を築いた。明治二十四年(1891)の大津事件ではロシア皇太子の治療にあたった。さらに明治二十八年(1895)日清戦争の講和会議のため来日していた李鴻章が狙撃された際にも治療に派遣された。明治三十四年(1901)に東京大学での任期が切れたが、その後も日本にとどまり、明治三十八年(1906)、鎌倉で病没した。


山川健次郎胸像

 山川健次郎の胸像を探して、構内を歩いた。そういえば山川健次郎は物理学の教授だったことを思い出し、理学部を探すと建物の前に胸像があった。
 山川健次郎は、会津若松の出身。兄に山川大蔵(のちに浩)、妹に大山捨松がいる。戊辰戦争では白虎隊に属し、戦後米国エール大学で物理学を専攻した。帰国して明治十二年(1879)、二十六歳の若さで東京大学理学部物理学主任教授に就任した。二度にわたり東京帝国大学総長を務めたほか、京都帝国大学、九州帝国大学でも総長に就いた。大正四年(1915)に男爵。昭和六年(1931)七十八歳にて死去。学問と教育に捧げた人生であった。


J.コンドル像

 ジョサイア・コンドルは、明治に来日したお雇い外国人の一人である。出身はイギリスのロンドン。明治十年(1877)に来日し、工部大学校(現・東京大学工学部)で教鞭を取った。辰野金吾、片山東熊ら日本人建築家を育成した。現存しているものコンドルが手掛けたものに、岩崎邸洋館や古河庭園大谷美術館、ニコライ堂などがある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茗荷谷

2011年08月01日 | 東京都
(拓殖大学)


桂太郎先生銅像

 桂太郎は、拓殖大学の前身、台湾協会学校の創立者である。明治四十五年(1912)四月、創立以来の業績を認められ、明治天皇から恩賜金壱万円を賜った。この銅像は、恩賜金の沙汰書を、桂太郎が教職員、学生の前で奉読している姿である。同じスタイルの銅像が、拓殖大学八王子キャンパスや、萩の生家跡にも建てられている。拓殖大学では恩賜記念講堂を建設したが、老朽化のため取り壊され、平成十二年(2000)、創立百周年を記念して八王子キャンパスに恩賜記念館が再建されている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恵比寿

2011年08月01日 | 東京都
(エビスビール記念館)


エビスビール記念館

 エビスビール記念館に村橋久成の像があるとの情報を得て、早速、記念館の開館時間に合わせて恵比寿まで行ってみた。
 勢い込んでエビスビールに乗り込んでみたものの、エビスギャラリーというコーナーにわずかにエビスビールの歴史が展示されていた程度で、サッポロビールの創立の恩人と称される村橋久成に関するものは一切発見できなかった。やはり村橋に対面するには札幌のサッポロビール記念館まで足を伸ばさねばならないようである。エビスツアーというビール試飲付のツアーが用意されているが、アルコールのあまり飲めない私は、早々に退館することになった。


馬越恭平像

 エビスビール記念館の前には、馬越恭平(まこしきょうへい)の堂々たる銅像がある。
 馬越恭平は、三井物産在籍中の明治二十五年(1892)、日本麦酒醸造会社(サッポロビール恵比寿工場の前身)の社長に就任して短期間に経営を立て直した。のちに札幌麦酒と大阪麦酒との合併により大日本麦酒を起こし、その社長に就任した。「東洋のビール王」と呼ばれた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青山一丁目

2011年08月01日 | 東京都
(高橋是清翁記念公園)


高橋是清翁記念公園

 昭和十一年(1936)の二二六事件により、八十三歳で世を去った高橋是清の邸宅跡である。邸宅は小金井の江戸東京たてもの園に移築されている。庭園はほぼ当時のまま保存されている。


高橋是清翁像

 高橋是清は、横浜のヘボンの私塾で英語を学んだ後、勝海舟の子、小鹿とともに米国に留学。帰国後は、日銀総裁などを経て、大蔵大臣、総理大臣などを歴任した。


江戸東京たてもの園の高橋是清邸
移築されていたため戦災を逃れた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

芝公園 Ⅱ

2011年08月01日 | 東京都
(増上寺)
犀谷様から、増上寺の徳川家霊廟を特別公開中との情報を得た。増上寺のHPを見てもそれらしい掲示を発見できなかったので、半信半疑でいたが、改めてHPを確認したところ、団体参拝のコーナーに特別公開が報じられていた。以来、チャンスを伺っていたが、出張や研修が続いてなかなか増上寺を訪問することができないでいた。梅雨の中休み、ようやく一日の休みを得て、増上寺を訪れることができた。
今年の徳川家霊廟の特別公開がとりわけ注目されるのは、大河ドラマの主人公二代将軍秀忠夫人お江の墓があるためである。勿論、私の目的はお江ではなく、十四代将軍家茂と皇女和宮の墓である。

増上寺の徳川家霊廟は、第二次大戦時の空襲でほとんどが焼失し、その後も荒廃にまかされていたが、昭和三十三年(1958)より学術的調査が始められた。

和宮の棺からは、烏帽子に直垂姿をした若い男性の写真乾板が見つかった。空気に触れた写真乾板は、翌日にはただのガラス板になってしまった。男性の正体は、夫家茂と言われる。また、土葬されていた和宮の遺体には、左手首から先の骨が無かった。


家茂の墓


和宮の墓

増上寺の安国殿には、和宮木像が安置されている。


皇女和宮像

増上寺の境内には、和宮所縁の茶室貞恭庵がある。貞恭庵は、和宮の戒名「静寛院宮贈一品内親王好譽和順貞恭大姉」から名をとったもので、遺品である袈裟、琴、手紙、書軸などを保存している。


貞恭庵
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茅場町

2011年08月01日 | 東京都
(銀行発祥の地)


銀行発祥の地

みずほ銀行兜町支店の門前に、銀行発祥の地を示すレリーフがはめこまれている。明治六年(1873)六月十一日、我が国最初の銀行である第一国立銀行がこの地に創立された。建物は「三井組ハウス」と呼ばれた和洋折衷の五階建てのもので、その姿がレリーフに描かれている。みずほ銀行の前身は、第一勧業銀行と富士銀行と日本興業銀行であるが、さらに遡れば、第一勧業銀行は第一銀行と日本勧業銀行が合併したもの。第一銀行は創立当初第一国立銀行と称していたが、明治二十九年(1896)に改称したものである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする