史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

茨城 Ⅱ

2015年01月11日 | 茨城県
(木村家住宅)
 戊午の密勅が水戸藩に下され、長岡に尊王攘夷をかかげる水戸浪士が集結したとき、これを鎮静するために鎮派の青山延于らが談合したのがこの長岡宿脇本陣木村家である。残念ながら木村家は非公開。みくらやの方によれば、事前に予約すれば見せてくれる(かもしれない)そうである。


木村家住宅

(みくらや)
 木村家住宅の場所から信号を挟んで向い側に学生服を扱う「みくらや」がある。「みくらや」は、幕末当時、旅籠中夷屋(なかえびすや)と称していた。


みくらや

 みくらやには、「戊午の密勅」流出を阻止するために集結した浪士たちが勢い余ってつけた刀痕のある柱があるという。
 店番をしていた女性に尋ねたところ、残念ながら先年の東日本大震災で家屋が半壊し、現在の店舗はその後建て替えられたものである。刀痕の柱は取り外され、商工会に保管されているそうである。店内にはその写真が掲示されていた。

(涸沼)


涸沼

 涸沼(ひぬま)湖畔の広浦公園キャンプ場の傍らに水戸八景の一つ、廣浦秋月碑が建っている(茨城町下石崎1651)。


廣浦秋月碑
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石岡 Ⅱ

2015年01月11日 | 茨城県
(照光寺)
 照光寺も、筑波勢が宿泊した寺である。本堂内の柱には、浪士たちが残した刀傷があるというのだが、本堂はしっかり鍵がかかっており、拝見することはできなかった。念のため扉を開けようとしたが、びくともしなかった。
 照光寺の柱の刀痕と称するものを、かつて大洗町の願入寺で見たことがある。ひょっとしたら、柱ごと移設されて、ここには何も残っていないのかもしれない。


照光寺

(鈴ノ宮稲荷神社)
 石岡市国府の鈴ノ宮稲荷神社は、元治元年(1864)三月二十七日、天狗党の田丸稲右衛門、藤田小四郎ら六十余名が勢ぞろいして必勝祈願して出発した旗挙の地である。鳥居横にある由来記にもそのことが記載されている。


鈴ノ宮稲荷神社

 天狗党幹部は、鈴ノ宮稲荷神社の東側にあった料亭「紀州屋」「近江屋」で会合を繰り返し、挙兵の時機を画策していた。特に紀州屋の女主人いく子は、藤田小四郎に共鳴し、浪士たちの面倒をよく見たという。

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かすみがうら Ⅱ

2015年01月11日 | 茨城県
(杲泰寺)
 かすみがうら市穴倉666の杲泰寺(こうたいじ)は、太宰清右衛門が自刃した所である。
 太宰清右衛門は、新治郡安食村の郷士。元治元年(1864)小川勢に加わって那珂湊の榊原勢を支援した。その後、新治郡穴倉村に潜んだが、幕吏に追及され。同年十月二十日、杲泰寺で自刃した。三十六歳。


杲泰寺

 太宰清右衛門が自刃したのは、寺の鐘楼とも本堂内本尊安置の須弥壇の左側の一室とも言われている。


鐘楼

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行方

2015年01月11日 | 茨城県
(橋門)
 平成二十六年(2014)は、元治元年(1864)の天狗党挙兵から百五十年というメモリアル・イヤーである。しかし、私の身の周りではそのことで騒いでいる人はひとりもおらず、何ごともなく一年が終わろうとしている。かくいう私も茨城県に足を運んだのは今年一回だけである。せめて年内にもう一度茨城県の史跡を巡りたいと、密かに計画を練っていた。この週末、すっきりと晴れる予報だったので、計画を決行することにした。例によって、早朝四時半に自宅を出発する。七時前に行方市に到着した。
 この日は、行方、かすみがうら、石岡、茨城、大洗、水戸、常陸太田、日立、北茨城と、県内全域を縦横に走り回る計画を立てた。副テーマは斉昭が選定した水戸八景の踏破である。既に村松晴嵐碑と水門帰帆碑はチェック済みなので、マジック6であるが、これを一気に回ってしまおうという計画である。勿論、昼食など食べているヒマはない。


天狗塚

 行方市の八坂神社(行方市橋門418)の側の忠魂碑の横に、天狗塚がある。目立たないが、元治元年(1864)の天狗党の乱で、この付近で戦死した天狗党の五名が葬られている。背面に名前が刻まれている。
 竹内哲次郎 下総小金の人。芳野金陵、千葉道三郎の門で学ぶ。元治元年(1864)八月、松平頼徳に従って水戸に入り転戦。九月七日、青沼村舟中にて戦死。二十四歳。
 神代蔵之助 茨城郡下吉影村出身。鹿島神社祠官。九月七日、麻生藩兵と戦いの末、自決。十六歳。
 水田謙次 筑後下妻郡富安村の庄屋貞行の次男。文久三年(1863)、上洛して尊攘活動。八月十三日、筑波山にて戦死。三十四歳。
 徳江雷蔵 友秀安の両名については「幕末維新全殉難者名鑑」に名前見つけられず。

(自性寺)


自性寺

 行方市内宿1634の自性寺に、守山藩家臣七人の墓がある。森に覆われた墓地に入ると、処刑された七名の墓が無言で出迎えてくれる。
 筑波勢が挙兵すると、藩内領民まで巻き込んで大混乱となった。藩としても看過できず、病気療養中の藩主慶篤の名代として、連枝宍戸藩(一万石)の藩主松平頼徳が水戸城に入ることを命じられた。これを知った守山藩主松平頼升(よりのり)は、家来のうち強壮誠忠かつ武芸に通じた者十名を選び、頼徳のもとに送り届けた。彼らは頼徳と行動をともにしたが、頼徳は幕府に騙される形で捕えられ死罪に処された。頼徳を護衛していた十名も水戸藩に呼びつけられ揚り屋(牢屋)に入れられた。十名のうち三名は脱出したが、残る七名は幕府に引き渡され、抗弁の機会もなく江戸小塚原にて処刑された。


勤王七士の墓

 林正義庸、中村則傚修之助、高橋行宜東三郎、会田俊親鐘太郎、所谷英伝英次、高橋行脩釜三郎、太田資温新太郎の七名。


コメント (2)
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