(昌照寺)
北杜市高根町村山西割は、大芝宗十郎の出身地である。
長谷川伸の『相楽総三とその同志』によれば、昌照寺に小宮山土佐守昌照ら小宮山一族の事績を記した古碑があるというので、中央道を長坂ICで降りて、一路昌照寺を目指した。この寺に行けば、村山西割に在るという大芝宗十郎の墓や顕彰碑の所在も分かるかもしれない。
昌照寺の裏山の墓地内に古碑はあった。
小宮山土佐守昌照は、武田氏滅亡の折にも竹田勝頼につき従っていたと言われる戦国武将である。その子である小宮山又七という人物が村山西割の大芝家の娘を娶って、以来大芝を名乗って土着したのが大芝宗十郎の先祖らしい。
昌照寺
結論を言えば、大芝宗十郎の墓も顕彰碑も見つけることはできなかった。次に時間の十分にあるときに当地を再度訪問することにしたい。
小宮山家事績碑
大芝宗十郎は、文化十一年(1814)、甲斐巨摩郡村山西割村(現・山梨県北杜市高根町村山西割)の名主長右衛門の長男に生まれた。若い頃、平田篤胤の思想に共鳴し、家を弟に譲って江戸から京都に向い、諸国を遊歴。幕末には尊攘運動に挺身した。薩摩藩に仕えて武術を修めたとも伝えられるが、慶應三年(1867)十月、西郷隆盛の指示を受け、伊牟田尚平、益満休之助らと、江戸三田の薩摩屋敷に入り糾合隊を編成。下野出流山に義兵を挙げるため、竹内啓、相沢元輔ら同志十一名と三田を出たのが十一月二十六日。薩摩藩名で攘夷倒幕の兵を三百余名集めたが、幕軍の包囲を受けて敗走した。大芝は捕えられて、同年十二月十八日、佐野河原で斬首された。五十四歳。佐野河原で斬首されたのは五十一名と言われるが、大芝の年齢は最高齢に属する。
北杜市高根町村山西割は、大芝宗十郎の出身地である。
長谷川伸の『相楽総三とその同志』によれば、昌照寺に小宮山土佐守昌照ら小宮山一族の事績を記した古碑があるというので、中央道を長坂ICで降りて、一路昌照寺を目指した。この寺に行けば、村山西割に在るという大芝宗十郎の墓や顕彰碑の所在も分かるかもしれない。
昌照寺の裏山の墓地内に古碑はあった。
小宮山土佐守昌照は、武田氏滅亡の折にも竹田勝頼につき従っていたと言われる戦国武将である。その子である小宮山又七という人物が村山西割の大芝家の娘を娶って、以来大芝を名乗って土着したのが大芝宗十郎の先祖らしい。
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昌照寺
結論を言えば、大芝宗十郎の墓も顕彰碑も見つけることはできなかった。次に時間の十分にあるときに当地を再度訪問することにしたい。
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小宮山家事績碑
大芝宗十郎は、文化十一年(1814)、甲斐巨摩郡村山西割村(現・山梨県北杜市高根町村山西割)の名主長右衛門の長男に生まれた。若い頃、平田篤胤の思想に共鳴し、家を弟に譲って江戸から京都に向い、諸国を遊歴。幕末には尊攘運動に挺身した。薩摩藩に仕えて武術を修めたとも伝えられるが、慶應三年(1867)十月、西郷隆盛の指示を受け、伊牟田尚平、益満休之助らと、江戸三田の薩摩屋敷に入り糾合隊を編成。下野出流山に義兵を挙げるため、竹内啓、相沢元輔ら同志十一名と三田を出たのが十一月二十六日。薩摩藩名で攘夷倒幕の兵を三百余名集めたが、幕軍の包囲を受けて敗走した。大芝は捕えられて、同年十二月十八日、佐野河原で斬首された。五十四歳。佐野河原で斬首されたのは五十一名と言われるが、大芝の年齢は最高齢に属する。