史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

八王子 Ⅺ

2018年05月12日 | 東京都
(八王子市郷土資料館)


八王子市郷土資料館

 八王子市郷土資料館(八王子市上野町33)にて維新150年企画展「八王子と明治維新」を開催中である。平成三十年(2018)四月三日から五月二十七日まで。
 幕末の八王子といえば、八王子千人同心が真っ先に連想される。新選組に参加した井上源三郎が千人同心の家系だったことはよく知られているが、八王子千人同心は日光勤番を務めたほか、将軍警衛のため上洛に同行し、長州征伐にも参加している。多摩地域は、心情的に幕府寄りで、徳川家が駿府に封じられると、それに従って静岡に移住した千人同心も少なくない。
 そういう土地柄にあって、駒木野宿の関所番を務めていた落合兄弟は異色といえるかもしれない。落合直亮は薩摩藩の浪士隊に副総督として加わり、薩藩邸焼討事件では幕府方と交戦して京都へ逃亡している。明治後、伊那県大参事に就任したが、弟直言とともに新政府転覆活動にかかわった嫌疑で職を追われた。直言は明治五年(1872)に終身禁獄となり、鹿児島県に移送され、明治十年(1877)の西南戦争で薩軍に投じて戦死した。
 この企画展で展示されている資料を見ると、直言は必ずしも積極的に薩軍に参加したのではなさそうである。大山綱良県令から従軍を勧められた直言は、もはや逃げられないことを悟り、であれば華々しく戦死した方が良いと考えたらしい。そのとおり直言は熊本保田窪にて戦死した。

(宗格院)


河西祐助知節顕彰碑

 宗格院本堂の前に、平成十八年(2006)、八王子千人同心旧交会が、河西祐助没後二百年を記念して建立した、河西の顕彰碑が建てられている。裏面には、河西祐助とその妻梅の法名と没年月日が刻まれている。河西祐助が北海道勇払(現・苫小牧市)に入植したのは、寛政十二年(1800)のこと。妻の梅も三歳の長男を連れて勇払に入ったが、厳しい寒さの中、病を得て享和三年(1803)、二十五歳で亡くなった。あとには二人の幼い子が残された。その後、現地では雨の降る夜に赤ん坊を連れた女性の幽霊が出没し、人々は梅の亡霊だと噂した。「夜泣き梅」は苫小牧で銅像となっている。

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姉ヶ崎 Ⅲ

2018年05月06日 | 千葉県
(白幡神社)


徳川儀士霊位

 白幡神社の南側に隣接する民家の傍らに古い墓石が集められた一角がある。そこに「徳川儀士」の墓がある。なかなか分かりにくい場所で、二回目にしてようやく出会うことができた。被葬者は不明。墓石に記されたところによれば、五井で戦闘が交わされた慶應戊辰閏四月七日が没日となっている。

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富津 Ⅴ

2018年05月06日 | 千葉県
(明澄寺)
 富津市大堀の明澄寺に咸臨丸艦長小野友五郎の墓を訪ねた。


明澄寺

 小野友五郎は文化十四年(1817)、常陸国笠間の生まれ。父は笠間藩士小守庫七。十七歳の時、同藩士小野柳五郎の養子となった。甲斐駒蔵に師事して、算測に長じた。嘉永五年(1852)、幕府天文方に勤務の傍ら、江川坦庵(太郎左衛門英龍)に就いて砲術・軍曹を学ぶ。安政二年(1855)、第一回海軍伝習生として長崎に留学。測量術を学び、安政四年(1857)江戸に戻って築地軍艦操練所教授方となった。万延元年(1860)、遣米使節随行の咸臨丸に教授方として乗船し、帰国後は軍艦頭取に進み、江戸湾の測量等を行った。文久元年(1861)、小十人格となり、三人扶持を給せられ、十二月咸臨丸艦長として小笠原諸島に航して測量を行った。文久二年(1862)五月、我が国初の国産蒸気船千代田型の造船を指導、のち勘定吟味役となり、慶應三年(1867)正月、かねて発注した甲鉄艦受取交渉のため渡米した。帰国後、勘定奉行並に進み、京阪の間を往来して将軍慶喜のために尽力した。大政奉還後、江戸に引き揚げたが、その際に幕金十八万両余を艦船に積んで帰った。明治元年(1868)、新政府軍に捕えられ禁固一年。俄か大工などをして生活の辛酸を嘗めた後、工部省に出仕。明治八年(1875)、鉄道寮七等出仕となったが、官を辞して塩業改良事業に従事し、富津大堀村に製塩場を経営した。明治三十一年(1898)、兵庫県印南郡大塩村で天日製塩実施中に病に罹り、帰郷後没した。年八十二。
 富津市のホームページによれば、友五郎の墓は明澄寺墓地から改葬されたと記載されているが、明澄寺の小野家墓所の墓誌には、「観月院殿塩翁廣胖居士 明治三十一年十月十九日 俗名小野友五郎享年八十二歳」と刻まれている。


小野家墓(小野友五郎の墓)

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