史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

深谷 Ⅴ

2021年07月10日 | 埼玉県

(藍香尾高惇忠生家)

 

旧尾高家長屋跡

 

 尾高惇忠生家の前にかつて尾高家の長屋があった。長屋は昭和四十年(1965)頃、少し離れた場所に移築された後、平成十五年(2003)前後、取り壊された。現在、跡地は石の基壇がある以外、何も残されていない。

 尾高家は米穀や塩、菜種油などの日用品や藍玉の加工販売を主とし、農業も営んでいた。長屋では、藍玉製造や菜種油の搾取などの作業場として使用されていた。長屋が建設されたのは、主屋と同じく江戸後期といわれている。一説では、この長屋を惇忠たちが剣術の道場として使用していたという。

 

(稲荷神社)

 

稲荷神社

 

 中の家に近い、北阿賀野の稲荷神社には渋沢栄一が撰文した桃井可堂顕彰碑が建てられている。

 

可堂桃井先生碑

 

 桃井可堂は、現・深谷市北阿賀野に生まれた。名は儀八。可堂は号である。十二歳のとき渋沢仁山に師事し、二十二歳で江戸遊学を志し、江戸の東条一堂に学び、門下の三傑と称された。そこで勝海舟、藤田東湖らと交流があり、水戸、長州藩の影響を強く受けた。その後、備中庭瀬藩板倉勝資に仕えたが、文久三年(1863)以降、長州に接近。藩を辞して帰郷し、中瀬村にて学問を教えながら、尊王攘夷の挙兵を企てた。上武、越後の同志を集め、計画の実行を試みたが、仲間の裏切りもあって失敗に終わった。可堂は川越藩に自首し、絶食して命を断った。

 

(深谷大河ドラマ館)

 前回、渋沢栄一の生家中の家や尾高惇忠生家を訪ねたのは、もう十四年も前のことになる。今回久しぶりに深谷市の血洗島、下手計周辺を歩いてみようと思いたったのは、今年(令和三年(2021))の大河ドラマ「青天を衝け」を受けて、盛り上がる深谷の様子を自分の目で見ておきたいと思ったからである。

 二月には深谷市公民館の一階に大河ドラマ館がオープンした。せっかくなので大河ドラマ館に立ち寄ることにした。入場料は八百円。

 

渋沢栄一 青天を衝け

深谷大河ドラマ館

 

 展示されているのは、ドラマで使用された渋沢栄一生家のセットや衣装、小道具など。登場した俳優のサイン色紙も並べられている。

 何か新しい情報を仕入れられないかと目を皿にして見て回ったが、そういう期待には応えてくれなかった。基本的には展示品はドラマの進行に合わせて更新されていくそうなので、あまりこれから放映される内容には触れられないのであろう。

 

園日渉以成趣

 

 敷地内に渋沢栄一書「園日渉以成趣」碑がある。「園日渉以成趣」という言葉は、中国の詩人陶淵明の「帰去来辞」の「園は日々に渉りて以て趣を成す」から選ばれている。我が庭園は毎日散歩して見ているが、いつもそれぞれの趣があて、まことに面白い眺めとなっている」という意味である。

 この碑は、新築された深谷駅頭に明治四十語年(1912)に建てられ、その後、深谷市役所前の小園、深谷商工会議所の東園への二度の移設を経て、現在地に移された。

 

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五日市 Ⅱ

2021年07月10日 | 東京都

(深沢家屋敷跡)

 あきる野市深沢7番地に所在している深沢家屋敷跡地である。跡地に屋敷は既になく、五日市憲法が発見された土蔵のみが残されている。

 江戸中期以前の深沢家の沿革は詳らかではないが、江戸時代後半より土地集積を行い、山林地主として大きく家産を伸ばし、江戸中期に深沢村の名主役に就任していた。幕末には同心株を譲り受け、八王子千人同心に就き、村内鎮守社の神官も勤めていた。

 

深沢家屋敷跡

 

 明治維新を迎え、深沢家を継いだ名生(なおまる)は深沢村の戸長に就任し、息子の権八は村用掛に任じられ、ついで神奈川県会議員に当選している、

 名主権八親子は、三町十四ヶ村から四十名近い会員を集め、学習会、討論会、研究会などを行う民権結社「学芸講談会」の指導的立場にあり、五日市地域の自由民権運動の中心的人物であった。

 

深沢家屋敷跡

 

 当地は江戸時代後期の名主屋敷の旧態をとどめ、また三多摩自由民権運動を象徴する五日市憲法草案発見の場所であり、当時五日市地域で民権運動の中心となっていた豪農民権家の生活様態を推定し得る遺蹟として貴重なものである。

 

深沢家土蔵

 

 五日市憲法草案は、明治十三年(1880)に深沢権八を中心に結成された学習結社五日市学芸講談会の有志と、宮城県栗原郡白幡村U(現・栗原市志和姫)に生まれ、五日地勧能学校の教師としてこの地を訪れていた千葉卓三郎が中心となって明治十四年(1881)に起草した、自由民権思想に溢れた私擬憲法草案である。

 昭和四十三年(1968)、東京経済大躅教授であった色川大吉氏らが朽ちかけていた土蔵を調査し、二階から箪笥や行李、長持ちなどの中にぎっしりと詰まった古文書約一万点を発見した。草案は今にも壊れてしまいそうな行李の中に、古びた小さな風呂敷に包まれて眠っていた。起草から約九十年が経っていた。

 屋敷跡は更地になっており、一角に土蔵が残されている。この土蔵は平成六年(1994)に修理が施されたものである。

 

権八深澤氏墓

 

 屋敷の北側に深沢家墓所があり、そこに深沢権八の墓がある。

 深沢権八は、文久元年(1861)に名主深沢名生の長男に生まれた。勧能学舎の一期生として学び、卒業後は学務委員や深沢村の代議人を務め、明治九年(1876)には十五歳の若さで村用掛(村長)に任じられた。五日市では自由民権運動の盛り上がりを受け手、明治十三年(1880)頃、五日市学芸講談会が発足した。権八も幹事の一人として名を連ね、地域の自由民権運動の中心的人物となった。深沢家の蔵には、商用で上京した折などに買い求めた大量の書籍が残されており、権八が大変な読書家、勉強家であったことが伺われる。その蔵書は、千葉卓三郎をはじめとする学芸講談会の会員たちが大いに活用していたらしく、彼らの学習をサポートする役割も担っていた。民権活動の傍ら、「武陽」という号を用いて詩編を制作し、七百首以上の漢詩や十七冊の詩編詩集を残している。明治十六年(1883)、千葉卓三郎が死去した際には、葬儀を取り仕切り、卓三郎を追悼する詩を草している。明治二十三年(1890)十二月、二十九歳で病没。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上野原 Ⅱ

2021年07月03日 | 山梨県

(犬目)

 

犬目宿

 

 犬目も甲州街道の宿場町である。往年賑やかだった宿場町も、今や高速道路や国道から離れた場所にある寒村である。

やはり明治十三年(1880)の行幸の際、明治天皇が休息をとった本陣跡地に石碑が建てられている。残念ながら本陣の遺構はまったく残っていない。

 

明治天皇御小休所址

 

義民「犬目宿兵助」の生家跡

 

 犬目は義民犬目宿の兵助を生んだ町である。今も町には兵助の生家跡や墓が残されている。

 天保七年(1836)、犬目宿で旅籠「水田屋」を営んでいた兵助は、下和田村(現・山梨県大月市)の武七とともに、天保の大飢饉と商人の米買い占めで苦しむ村人たちを救うため百姓一揆を起こした。兵助は一揆に先立ち、幕府の厳しい処分を覚悟して、妻りんと離縁し、生後間もない娘たきが水田屋を継げるように書き置きを残した。一揆は兵助らの意図に反して暴徒化し、甲斐一国を巻き込む激しい打ち毀しに発展した。世にいう天保の甲州一揆(甲州騒動)である。因みに同年には大阪で大塩平八郎が叛乱を起こしている。

 兵助は絶望し、一揆を離れて逃亡の旅にでた。兵助直筆の日記には、一年余りの苦しい旅の様子が記録されている。望郷の念がつのり、時には野宿先で娘たきを抱く夢を見ている。

 その後の兵助の足取りは定かではなく、一説では犬目に戻って家族とひっそり暮らし、慶応三年(1867)、七十一歳で亡くなったといわれる。

 町の墓地には奈良家の墓域に兵助の墓がある。

 

犬目村兵助之碑

 

(野田尻)

 

野田尻宿

 

 野田尻宿も甲州街道中の宿場である。天保十四年(1842)には、本陣一、脇本陣一、旅籠は大二、中三、小四計九という比較的小さな宿場であった。今も何となく宿場町の風情が残っている。

 

明治天皇御小休所址

 

 本陣跡には明治十三年(1880)六月の明治天皇の行幸の際の記念碑が建てられている。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大月 Ⅱ

2021年07月03日 | 山梨県

(森武七墓碑)

 

的翁了端信士(森武七の墓)

 

 森武七(武七)は、下和田村次左衛門とも呼ばれる。天保七年(1836)の郡内の農民により端を発した、甲斐一国の農民一揆となった天保騒動(郡内騒動)の中心的人物である。郡内の農民たちと国中の米穀商へ交渉にいくときに頭取に選ばれ、農民を率いて笹子峠を越えたが、人数が増えて暴徒化し、頭取の指揮に従わなくなった一揆勢に見切りをつけ、途中で引き返した。

 その後、罪を被って役人のもとに出頭し、天保七年(1836)十一月十六日、石和牢舎に送られ、同日牢死した。

 墓石は高さ九十五センチ、幅六十五センチの自然石で作られている。

 

桂川

 

 森武七の墓の近くを桂川の清流が流れている。

 

(上大月)

 富士急行線上大月駅の近くにやはり明治天皇の御召換碑が建てられている。

 

明治天皇御召換所趾

 

 明治天皇が当地を訪ねたのは明治十三年(1880)六月十六日のことである。天皇に供奉したのは、伏見宮貞愛親王、太政大臣三条実美、参議寺島宗則、伊藤博文、山田顕義、宮内卿徳大寺實則、文部卿河野敏鎌、内務卿松方正義、侍従長米田虎雄、山口正定、陸軍中将三浦梧楼、宮内少輔土方久元、元太政少書記官伊藤巳代治といった錚々たる人々であった。

 

(鳥沢)

 鳥沢駅付近において、JR中央線に並行して甲州街道(国道20号線)が走っている。その甲州街道に面しているセブンイレブンの近くに明治天皇駐蹕地碑が建てられている。

 

明治天皇駐蹕地碑

 

(初狩)

 初狩駅から甲州街道を西へ一㎞ほど行くと、中初狩宿に行き着く。旧本陣小林家の前に明治天皇御小休遺跡碑が建てられている。

 石碑は直ぐに見つけることができるが、近くに自動車を停めるところがない。道路脇に寄せて後ろから来る自動車をやり過ごそうとしたが、道幅が狭いため、ちょっとした渋滞を引き起こしてしまった。自動車で行く場合は、駐車場所を事前に探しておくことをお勧めする。

 

明治天皇御小休遺跡

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

笹子

2021年07月03日 | 山梨県

(黒野田)

 笹子は大月市に合併されて、現在は大月市笹子町となっている。黒野田宿は笹子峠の難所を控える宿場町であった。

 本陣跡には明治天皇行在所趾碑が建てられている。明治天皇が当地に宿泊したのは、明治十三年(1880)六月十八日のことであった。

 

明治天皇行在所趾

 

(矢立の杉)

 

矢立の杉

 

 笹子峠は大月から甲州へ抜ける最大の難所であった。その後、昭和十三年(1938)、笹子隧道が貫通し、昭和四十年(1965)、さらに別ルートである国道20号線の新笹子隧道が開通し、旧街道の交通量は激減した。昭和五十二年(1977)には全長4・7キロメートルの中央高速道路笹子トンネルが穿たれ、今となっては難所というイメージはないが、むしろ渋滞の名所として知られるようになった。平成二十四年(2012)に天井崩落により死者九名を出す大事故が起きたことは記憶に新しい。

 今やほとんど見向きもされることがなくなった旧道であるが、天然記念物矢立の杉や明治天皇御野立所跡碑を訪問した。

 国道から旧道に入って4キロメートルほど行くと入り口がある。そこから矢立の杉まで百メートルである。

 

天然記念物笹子峠の矢立のスギ

 

 矢立の杉は、樹齢千年を超えるという古木である。戦国時代、笹子峠を通って合戦に行く武士は、必勝を祈願してこの杉に矢を射ったことがその名の由来という。江戸時代に甲州街道が整備されると、ここも人々の往来が盛んになった。葛飾北斎や二代目歌川広重の浮世絵にも描かれている。

 矢立の杉の幹は空洞になっていて、強風に襲われれば何時倒壊しても不思議はないが、それでも青々とした葉が茂っている。千年の樹齢を経てなお生命力を感じさせる巨木である。

 矢立の杉から二百メートルほど下ると明治天皇御野立所の石碑がある。

 

明治天皇御野立所跡碑

 

 明治十三年(1880)六月の明治天皇の山梨、三重、京都への御巡幸の際、同月十九日、御野立所として利用された場所である。今や鬱蒼たる木立に囲まれているが、往時この場所には天野治兵衛家があった。昭和十二年(1937)、天野の手により陸軍大将菱刈隆の揮毫を得てこの記念碑が建立された。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勝沼 Ⅱ

2021年07月03日 | 山梨県

(勝沼小学校)

 

勝沼学校跡

 

 現在勝沼小学校のある場所に、明治十三年(1880)、勝沼学校があった。勝沼学校は、勝沼町と等々力村の学校として建てられ、木造二階建て、一階には車寄せ、二階にはベランダを備えたE字型の校舎であった。明治十三年(1880)六月には、明治天皇御巡幸の際には行在所となった。

 

明治天皇勝沼行在所

 

明治天皇御製

 

 勝沼小学校入り口には、行在所碑とともに明治天皇御製碑が建てられている。明治十三年(1880)山梨御巡幸の折の御製歌である。

 

 えびかつらいろつきそめぬやまなしの

 さとのあきかぜさむくんらるらし

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする