史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

東池袋 Ⅵ

2022年04月16日 | 東京都

(雑司ヶ谷霊園つづき)

 

雪放石川君墓(石川利政の墓)

 

 石川利政は旗本。一橋家家臣石川源兵衛の子に生まれ、文久三年(1863)、小姓組から小納戸役に進んだ。慶應二年(1866)、ロシアとの間で樺太国境画定交渉の遣露使節団の一員に選ばれ、ロシアとの交渉記録を残した。慶應三年(1867)、帰国すると外国奉行に就任し、のちに兵庫奉行に転じた。慶應四年(1868)、小出秀実の後を受けて江戸北町奉行に就いた。最後の北町奉行といわれる。江戸奉行の廃止に際して石川を大目付に抜擢しようとしたが、新政府の態度に抗議して切腹したと伝えられる。【1種4A号13~24側】

 

長郷泰輔墓

 

 長郷泰輔は会津出身。嘉永二年(1849)生まれ。ロシア正教会主教ニコライの紹介で,横浜のフランス人建築技師レスカスに学んだ。建築会社を設立し東京駿河台のニコライ堂、フランス、ロシア両大使館などの建設に関わった。明治四十四年(1911)。年六十三。

 

橋本家之墓(揚州周延の墓)

 

 橋本周延(ちかのぶ)は天保九年(1838)の生まれ。雅号は揚州。はじめ国芳および三代豊国に学び、のち豊原国周の門に入った。美人画が多く、特に大奥の風俗画を得意とした。ほかに明治初期の風俗画、子供錦絵、役者絵、挿絵なども残した。明治十二年(1879)には外務省の命により作画し、明治十五年(1882)には絵画共進会に出品して褒状を受けるなど、国周門下でももっとも画技に優れた。晩年は古版画の模写をしていたという。大正元年(1912)、年七十五で没。墓石の前には「最後の浮世絵師揚州周延歿後百年の碑」が建てられている。【1種4B号5側40番】

 

大野家之墓(大野吉之助の墓)

 

 大野吉之助は高田藩士。神木隊。慶應四年(1868)五月十五日、上野戦争にて戦死。墓誌には五月十四日となっている。

 

吉澤家之墓(吉澤勇四郎の墓)

 

 吉澤勇四郎(友三郎とも)は、工兵頭並。工兵隊長。明治二年(1869)五月、五稜郭にて戦死(亀田で行方不明とも)。墓誌によれば、没日は五月十一日となっている。三十一歳。

 

生亀恭介之墓

 

 生亀(いけがめ)恭介は、嘉永二年(1849)の生まれ。墓石背面および側面には、京都守護職に任じられた主君に従って上京したことや、戊辰戦争では朱雀隊銃卒。半隊長として越後口に出陣して負傷したことなどが記されている。維新後は宮内省に出仕。明治四十三年(1910)、六十二歳にて没。

 

本地利屋之墓 静岡県士族

 

 「幕末維新全殉難者名鑑」に掲載されている本地巳之太郎のものか。本地巳之太郎は、幕軍歩兵差図役下役。慶應四年(1868)一月四日、鳥羽にて戦死。

 

元田家之墓(元田直の墓)

 

 元田直(なおし)は、天保六年(1835)の生まれ。父は豊後杵築藩儒元田竹渓。幼時、父に経史文を学び、十九歳で父の塾生を教え、算学を古原、国学を物集高世に受け、帆足万里、広瀬淡窓らにも教えを受けた。楠木正成の忠節や水戸学に傾き勤王を志し、大阪に赴いて、さらに文久三年(1863)、京師に出て小河一敏を通じ志士と交わった。慶應二年(1866)、毛利氏と乱を謀り幽囚されたが、維新により赦され、明治元年(1869)、上京。内国事務局書記、渡会府判事となり、太政官大史に任じられ、神祇官宣教使の建議をした。明治二年(1869)、東京代言人初代会長となり、明治七年(1874)、法律学舎を建て箕作麟祥らを招いた。明治十三年(1880)、長崎上等裁判所判事に進んだが、明治十五年(1882)に辞し、斯文会を興した。明治二十年(1887)、東京府学務課長兼師範学校長となった。晩年、失明した。大正五年(1916)、年八十二にて没。【1種1号1】

 

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西巣鴨 Ⅲ

2022年04月16日 | 東京都

(本妙寺つづき)

 

大久保氏之墓(大久保一翁の墓)

 

 大久保氏の墓石、上部中央に大久保一翁忠寛の名前を確認することができる。

 同じ墓所に一翁の息、大久保三郎の墓もある。

 

大久保三郎墓

 

 大久保三郎は安政四年(1857)の生まれ。植物学者。明治四年(1871)に米国ミシガン大学に留学し、植物学を修めた。「クララの明治日記」(クララ・ホイットニー著)にもしばしば登場する。大正三年(1914)、五十六歳で没。

 

河島氏墓(河島重蔵の墓)

 

 河島重蔵は、旧幕臣にして彰義隊士。慶應四年(1868)五月十五日、戦死(墓石には五月十七日となっている)。「幕末維新全殉難者名鑑」に記載はない。

 

(慈眼寺)

 慈眼寺墓地には、芥川龍之介、司馬江漢、小林平八郎(忠臣蔵吉良上野介の臣)らの墓がある。

 

慈眼寺

 

先祖代々霊位(小檜山鉄蔵、包四郎の墓)

 

 小檜山家の墓は小檜山鉄蔵によって建立されたもの。「幕末維新全殉難者名鑑」によれば、鉄蔵は「与力組。戊辰役に死す」と書かれているが、この墓は大正に入って建てられたものとある。

 鉄蔵の息、包四郎は六石二人扶持。町野隊付。慶應四年(1868)閏四月二十三日、越後三国峠にて負傷。小千谷にて戦死。二十六歳。

 次男岩次郎も朱雀足軽隊に属して慶應四年(1868)五月一日、磐城白河にて二十三歳で戦死している。

 墓石側面に「圓月院開受日観信士 明治元年九月朔日」とあるのは包四郎のものだろうか。

 

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巣鴨 Ⅶ

2022年04月16日 | 東京都

(染井霊園つづき)

 

鹿島万平墓

 

 鹿島万平は、文政五年(1822)の生まれ。幼にして商家に仕え、中年独立して商業を始め、伝馬町組木綿問屋および繰綿問屋の総代となった。横浜開港と同時に危険を冒して貿易に従事し、綿花貿易により巨利を博した。慶應三年(1867)、三井組が新たに御用所を設け、専ら貿易商売のために荷為替および抵当貸付の便を開くと、万平は三野村利左衛門と計ってこれに従事し、横浜に生糸荷為替組合を組織した。維新の際、三野村とともに戮力励精して三井組のために力を尽くし、同組の目代として徳川慶喜に随行して静岡に至り、傍ら政府の用命にも勉励した。明治元年(1869)、通商商社および小金原開墾会社の設立に尽力。翌二年(1869)、政府の内命を受け、北海道に商社の出張所を設けて荷為替の便を開き、次いで釧路厚岸地方の荒れ地を開拓、鰊粕、魚油および昆布の採取と製造を始めた。これより先、アメリカ商人に託して紡績機械一式を注文し、明治三年(1870)、機械到着とともに府下滝野川村に工場敷地を得て、幾多の艱難の末、明治九年(1876)、初めて精良な綿糸を紡出することに成功した。老後、滝野川辺に隠れ、狂歌を嗜み、紅葉亭鹿成を称し、雅友を会して楽しみとした。明治二十四年(1891)、年七十にて没。【1種イ2号9側】

 

子爵 黒田家之墓

 

 久留里藩黒田家の墓所である。最後の藩主黒田直養の墓は、久留里の真勝寺にあるが、それ以降の藩主はこちらに集められているとのことである。

 

三橋家(三橋文庫の墓)

 

 青森士族三橋文庫の墓であるが、墓誌背面に文庫の父、会津藩士三橋文内が戦没し、母登美の手によって育てられたことが記載されている。

 三橋文内は、三橋勇蔵の孫。十石三人扶持。青龍足軽三番唐木隊小隊頭。慶應四年(1868)九月一日、会津大内峠にて戦死。

 

高嶺家之墓(高嶺秀夫の墓)

 

 高嶺秀夫は、旧会津藩士にして明治の教育者。女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)、東京美術学校、東京音楽学校の校長を歴任した。明治四十三年(1910)、五十五歳にして没。【1種イ3号7側】

 

中根氏歴世墳墓(中根香亭の墓)

 

 中根香亭は天保十年(1839)の生まれ。幼くして中根氏の養子となり、長じて学問、武術に励み、なかでも鎗が得意であった。慶應四年(1868)の鳥羽伏見の戦いに参加。江戸に帰って陸軍総裁勝海舟の麾下となった。同年八月、榎本武揚の率いる幕府艦隊の美嘉保丸に乗船して箱館に向かったが、銚子沖で大暴風に遭い、九死に一生を得た。やがて主家の移封のため駿府に至り、沼津兵学校の新設により三等教授として書史講論を担当し、のち付属小学校頭取も兼任した。明治五年(1872)、兵学校が東京に移ると陸軍少佐に任じられ、参謀局に出仕した。この時、命を受けて「兵要日本地理小誌」を編纂した。この中で戊辰戦争における幕軍を「東軍」と称し、これを賊軍と改めよと迫った陸軍少将鳥尾小弥太を激論となり、ついに自説を曲げなかった。やがて病のため陸軍を辞し、文部省編輯官となったが、明治九年(1876)、辞任し、その後は在野の人として漢学、史学を中心とする学問、詩文の生活を送り、晩年は興津に居住して、大正二年(1913)、その地で逝った。年七十五。

 

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青山霊園 補遺 Ⅷ

2022年04月16日 | 東京都

(青山霊園)

山科元行

 

従五位勲四等 山科元行之墓

1種ロ7号4側

 

山科元行は文政八年(1825)の生まれ。山科家を継いで医学を修めた。赤報隊の結成には中心的な役割を果たしたといわれる。しかしながら、赤報隊結成後は、分離した滋野井隊とは距離を置いた。慶應四年(1868)正月、綾小路俊美とともに三十名ほどの浪士を引き連れて比叡山を越えて守山に出た。一同は金剛輪寺に集合し赤報隊が結成された。参加したのは脱藩浪士,農商民,神官,僧侶等々。またたく間に人数は増え三百人ほどに達したといわれる。維新後は宮内省に出仕し、侍医局に勤めた。明治四十三年(1910)、八十三歳で没。

 

醍醐忠順

 

従六位侯爵醍醐忠順之墓

1種ロ8号

 

醍醐忠順は天保元年(1830)の生まれ。二歳のとき、従五位に叙されて以来、累進して天保七年(1836)には正四位下に至り、天保十二年(1841)、左近衛権少将に任じられ、ついで中将に進み、天保十四年(1843)には従三位、翌年には正三位に叙された。安政元年(1854)の内裏炎上の際には、いち早く参内して剣璽を下賀茂社に奉遷し、後日孝明天皇の賞賜に与り、安政四年(1857)に権中納言に昇った。日米通商条約の勅許問題が起こると、現任の大納言、中納言、参議の一員として勅問に与り、ひとり畿内を除外して、開市開港を許可すべしと言上した。安政六年(1859)、正二位に進み、文久三年(1863)、権大納言に任じられた。王政復古の後、慶応四年(1868)正月、参与を拝命し、内国事務掛、大阪鎮台督、大阪裁判所総督を兼ね、同年三月には兵庫裁判所総督、五月、大阪府知事などの要職を歴任した。同年十二月、一条美子(昭憲皇太后)が皇后に立つに及び、皇后宮大夫に任じられ、その後、侍従、侍従番長として、天皇の側近に仕えた。明治九年(1876)、宮中祗候となり、明治二十三年(1890)には従一位に叙された。同年、国会開設に当り、貴族院議員に列した。明治三十三年(1900)、年七十一にて没。子に醍醐忠敬(ただゆき)がいる。

 

吉田重郎

 

吉田君碑

1種ロ8号1側

 

吉田重郎は、越前福井藩の出身。陸軍少尉兼二等少警部として明治十年(1877)三月、西南戦争に出征し負傷。同年十月二十一日、東京で没した。二十九歳。

この石碑は明治十一年(1878)一月に建てられたもの。

 

林董

 

 

令和三年(2021)十二月末時点で、林董の墓も撤去され、林董も合葬墓に集約されている。これも時の流れかもしれないが、有名人の墓が消えて行くのは残念としかいいようがない。

 

飯田武郷

 

幕末・明治の國学者 飯田武郷

1種ロ8号32側

 

文政十年(1827)の生まれ。平田篤胤の没後門人となり、安政元年(1854)、平田銕胤に入門。古典を学習し、海野游翁について和歌を学んだ。嘉永・安政以来の時勢に対応して尊攘の志を固めた。高島藩政改革に努めたが成功せず、慶応三年(1867)、脱藩して上洛。権田直助、落合直亮らと謀り活躍した。岩倉具視の下に参画。維新後は気比、貫前、諏訪、浅間各神社に奉仕。東京大学助教授、皇典講究所、国学院、慶応義塾講師を務め、大八州学会をつくった。「日本書紀通釈」は二十六歳で起稿、四十四年間をかけて完成した。日本書紀研究史上の名著といわれる。明治三十三年(1900)、年七十四で没。

 

東郷四郎左衛門

 

故東郷四郎左衛門平實武之墓

1種ロ10号34側

 

東郷四郎左衛門は嘉永五年(1852)の生まれ。東郷平八郎の末弟。一番遊撃隊。伏見から関東、奥州を転戦したが、明治元年(1868)九月二十七日、若松城下陣中で病死。十七歳。

加藤七郎兵衛

 

加藤家之墓

1種ロ12号1~6側

 

傍らの墓誌によれば、昭和初年、加藤家先祖から加藤七郎兵衛に至る十代は、青山霊園に改葬されたとある。加藤友三郎の父、七郎兵衛もここに眠っていると思われる。

広島藩儒。文化七年(1810)の生まれ。雅号は小松斎、竜鱗庵主人。藩校教授で広島藩尊攘派の指導者。藩政にも参画し、文久三年(1863)、京都に上り、諸藩の志士と交わったが、なかでも真木和泉と最も親交を結んだ。のち江戸に出たが同地で没した。年五十四。長男の種之介は戊辰戦争で神機隊の隊長として奥州を転戦した。友三郎は三男。

 

北郷資知

 

北郷家先祖各靈神

1種ロ12号25側

 

都城島津家老臣。安政三年(1856)、領主の命を受けて江戸の安井息軒に学び、安政六年(1859)、帰郷。その間、江戸の情勢をつぶさに報じた。番頭、用人役に進み、文久二年(1862)、禁闕守護のため領主島津久静に従って上京。しかし、久静の急死にあい、同年七月帰郷。文久三年(1863)、誠忠派幽閉事件に連座したが、元治元年(1864)冬、本藩の介入によって旧に復し、兵制改革に尽力した。明治元年(1868)の戊辰戦争では内政を掌り、武器軍資の支出に苦慮した。明治四年(1871)、廃藩後は旧主家に従い、その家令となった。

 

望月光蔵

 

富岡忠幸之墓

1種ロ16号5側

 

富岡忠幸こと望月光蔵は、文政四年(1821)生まれ。神奈川奉行所に仕え、戊辰戦争では会津まで転戦。清水屋で土方歳三と同宿し、そこで「枕投げ」をしたと伝わるが、我々が連想するような(修学旅行の定番である)枕投げではなく、口論の末、手元にあった枕を投げつけたというのが真相のようである。同年八月、米沢に援軍を要請に行くがそこで終戦を迎えた。維新後は、神奈川県、熊谷県に勤務した。「夢乃うわ言」と名付けた手記を残した。明治二十三年(1890)没。

 

角田秀松

 

海軍中将従三位勲一等功二級角田秀松墓

1種ロ16号21側

 

会津藩士。嘉永三年(1850)、会津藩医角田良智の二男に生まれた。朝敵とされた会津藩において初めて海軍将官となった。日露戦争では、竹敷要港部の指令官を務めたが、明治三十八年(1905)、戦病死した。

 

星野恒

 

星野恒墓

1種21号16側

 

天保十年(1839)の生まれ。二十一歳のとき、郷里を出て、京阪を遊歴して江戸に至り、塩谷宕陰の学僕となったが、慶応三年(1867)、宕陰が亡くなったため郷里に戻った。明治元年(1868)、水原学校の教官となり、明治八年(1875)、東京に出て修史局に入り「大日本史料」の編纂に従事。三等掌記を皮切りに、明治十四年(1881)、四等編修官、明治二十一年(1888)、文科大学教授、明治三十九年(1906)、学士院会員。明治四十三年(1910)には史学会会長に推された。大正六年(1917)、年七十九で没。

 

荒井東道

 

荒井家

1種ロ21号37側

 

会津藩士。十二人扶持、医師。慶應四年(1868)八月二十三日(墓誌によれば八月二十九日)、会津柳津向所沢にて自刃。六十五歳。

 

樋口光

 

樋口光之墓

2種イ6号33側

 

会津藩士。会津敗戦後、斗南に移り、明治二十三年(1890)、旧主に従って東京に移住して家令となった。明治三十二年(1899)、六十歳にて病没。

 

 

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青山霊園 補遺 Ⅶ

2022年04月16日 | 東京都

(青山霊園)

ちょっとショッキングであるが、青山霊園の大鳥圭介の墓は撤去されていた。大村純煕の墓所跡にできた合葬墓に名前だけ残されている。

 

1種イ2号5側

設楽範輔

 

設楽範輔居士

 

設楽範輔は、陸軍隊。明治元年(1869)十一月二日、蝦夷福島にて戦死。

 

坂田警軒

 

警軒坂田先生墓

1種イ2号11側

 

坂田警軒は、丈助、丈平と称した。天保十年(1839)の生まれ。嘉永六年(1853)、阪谷朗蘆が後月郡寺戸村に興譲館を興すと、十五歳でこれに学び、学業大いに進み都講となる。万延元年(1860)、肥後の木下犀潭に入門し、井上毅、竹添進一郎と木門の三才と称された。慶應元年(1865)、江戸に遊び、安井息軒に学んだ。慶應三年(1867)、岡山藩家老池田天城の賓師となった。明治二年(1869)、二代目興譲館館長となり、一新社を組織し洋書の翻訳本を購入して館に備えた。たまたま山田方谷に招かれて、閑谷黌を兼務した。明治十二年(1879)、岡山県会の開設にあたり、県会議員に選ばれ、ついで初代議長となった。のち衆議院議員に当選すること三度。慶應義塾などの講師を務めた。明治三十二年(1899)、年六十一で没。

 

船越八百十郎

 

船越八百十郎之墓

1種イ5号6側

 

船越衛と同じ墓域に父八百十郎の墓がある。船越八百十郎は、文化九年(1812)の生まれ。天保三年(1832)、藩に召し出され、勘定所詰となった。理財家として知られ、そのため冤罪、閉門にあった、諸国志士との交わりも広く、自家に匿ったり、資金的援助を行い、十津川挙兵の際にも銃器類と軍資金を送って援助した。慶應二年(1866)には長崎で小鷹狩正作と謀って独断で汽船、鉄砲を購入し、また芸薩貿易にも関与した。慶應三年(1867)、神機隊設置に際しては資金面の世話をし、また同隊の戊辰戦争の出兵資金も調達した。明治十九年(1886)、年七十五で没。

 

飯田年平

 

石園飯田先生之墓

1種イ5号32側

 

飯田年平(としひら)は、文政三年(1820)の生まれ。年平は諱。通称は足穂、七郎。雅号は石園。天保四年(1833)、紀州に赴き、本居大平、加納諸平らに国典および和歌を学ぶ。のち京都において伴信友に古学を授けられ、ついで諸国を巡行した。万延元年(1860)三月、鳥取藩の国学方雇となり、ついで国学家業を命じられた。文久三年(1863)、藩主池田慶徳に朝幕の周旋、攘夷実行のことを上書。元治元年(1864)、伯耆志編纂に従事した。明治二年(1869)正月、明治政府史官、明治四年(1871)八月、大録となり、明治五年(1872)八月、教育制度について建言。のち式部大属兼中掌典、神宮神嘗祭奉幣使、式部寮御用掛、式部職御用掛准奏任官などを歴任し、明治十九年(1886)、辞任した。同年、年六十七で没。

 

相馬充胤

 

従四位相馬充胤之墓

1種イ7号5~7側

 

中村藩主。教育や民政に力を注ぎ、度々の冷害の処置を講じるとともに、倹約令を出して奢恀を戒めた。土木事業を興し植林を盛んに行った。父、益胤の遺志を継いで藩内で二宮尊徳の報徳仕法を実施した。維新時の士族授産は他藩から模範とされた。明治二十年(1887)六十九歳で死去。

 

四辻清子

 

典侍正三位勲三等室町清子墓

1種イ7号10側

 

天保十一年(1840)の生まれ。父は権大納言四辻公績(よつつじきんいさ)。のちに室町と改姓したため、墓石の前の墓標には「室町清子」と書かれている。安政三年(1856)、祐宮(のちの明治天皇)付として召し出され、翌年上臈となり、万延元年(1860)、祐宮の儲君治定の日、名を高松と賜った。慶應三年(1867)正月、明治天皇が践祚するに及び、典侍に任じられ、権典侍、中納言典侍、二典侍と称したが、明治四年(1871)八月、女官官制の改正によって権典侍に選任され、紅梅典侍の称を賜った。明治六年(1873)二月、典侍に昇任。爾後、終身典侍として勤仕したが、天皇の側近にあること四十六年。資性質直、もっとも知遇を辱くしたといわれる。明治三十五年(1902)正月、病篤きに及んで、正三位勲三等に叙された。年六十三にて没。

 

川村恵十郎

 

川村家之墓

1種イ13号16~18側

 

諱は正平(しょうへい)。代々小仏関所で関守を務める家に生まれた。少年の頃より武技を嗜み、尚武の気性に富んでいた。竹林坊赤松光映に師事、その推輓により川越藩主松平直克に仕え、文久三年(1863)、京都に赴いたが、ついで一橋慶喜に仕えて家人となった。翌元治元年(1864)六月、京都で一橋家側用人兼番頭の平岡円四郎が暴徒の襲撃で斬殺されると、その場で二人を斬り伏せたが、自身も顔面に敵刃を受け、以後「傷の正平」の異名をとった。その功により慶喜より十人頭に取り立てられ、禄二百石を賜った。慶應二年(1866)、慶喜が将軍となると、旗本の士として勤侍し、慶応四年(1868)正月の鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸に帰り、さらに駿府に隠退するときも、つねに慶喜に従って奉仕した。のち明治政府に仕えて大蔵省、内務省に出仕した。明治六年(1873)、福岡県下に反乱が起こると、林友幸に従って西下し、これを鎮静した。ついで内務卿大久保利通の知遇を得て、明治七年(1874)、大久保が全権弁理大臣として清国に差遣されると、これに随行した。後に宮内省出仕、内閣記事局に勤め、明治十四年(1881)、天皇の東北巡幸に供奉した。官途を退いて後は、日光東照宮禰宜となった。明治三十年(1897)、年六十三で没。

 

奥野昌綱

 

奥野昌綱之墓

1種イ13号17側

 

文政六年(1823)の生まれ。幼名は銀三郎、維新当時は左京と名乗った。弘化四年(1847)、二十五歳のとき、奥野家の養子となり奥野昌綱と改名し、嘉永二年(1849)、輪王寺宮に仕えた。維新の際、上野彰義隊の戦いに敗れ脱走。榎本武揚に従ったが、途中遭難して清水港に漂着し、しばらく静岡に潜伏した。のちキリスト信徒小川義綏の紹介で、ヘボンの日本語教師として「和英語林集成」第二版の編集を助けた。ヘボンおよびジェームス=バラの説教に感激し、明治五年(1872)、ブラウンより受洗し、さらに按手礼を受けて小川とともに日本人最初のキリスト牧師となった。新約聖書の翻訳に尽くし、のち各地に伝道した。讃美歌の和訳、その他漢文のキリスト教文献の訓点標註・和訳をなし文書伝道に貢献した。明治四十三年(1910)、八十八歳で没した。

 

戸枝一郎左衛門

 

戸枝家之墓

1種イ16号9側

 

戸枝一郎左衛門は会津藩士。百石。玄武士中隊。慶應四年(1868)八月二十四日、若松城にて戦死。六十三歳。

 

丹羽正庸

 

丹羽正庸之墓

1種ロ2号3側

 

文政五年(1822)の生まれ。代々三条家の諸大夫を勤める丹羽家に生まれ、天保三年(1832)、十一歳にして家職を継いで諸大夫となり、従六位上に叙され、豊前守に任じられた。ついで弘化元年(1844)正月、大学助を兼任。位も嘉永六年(1853)、従五位上に進んだ。実万、実美の父子二代に仕えて家政を掌り、また機密にあずかり、安政元年(1854)には江戸に赴いて関東の情勢を探索した。一方、尊攘派の志士と交わりを結び、国事に奔走したため、安政の大獄に連座して捕らわれ、安政六年(1859)三月、江戸に檻送、十月に中追放に処された。その後、文久二年(1862)十一月、和宮降嫁の恩赦によって赦免。京都に帰り、三条家諸大夫に復帰して維新に及んだ。明治十五年(1882)、年六十一で没。

 

橋本有幸

 

橋本有幸之墓

1種ロ2号11側

 

青山霊園を歩いていてたまたま橋本有幸の墓を発見した。青山霊園の底の深さを改めて実感した。

橋本有幸は、英彦山の修験。かねて国事に心を傾け、諸藩士特に対馬藩士との交誼が深かった。文久三年(1863)六月、英彦山で役僧が中心となって義挙を企てた時、加担して盟約した。同年十一月、弾圧のため小倉藩が来襲したときは、たまたま肥前田代にいたが、体躯肥大歩行に難儀して逃げ切れず縛についた。獄にあること四年。長豊戦争の混乱の中で同志は次々と斬首されたが、兄良什坊とともに奇跡的に難を免れ、難民に紛れて逃げた。のち再び小倉に出て奇兵隊に身を寄せ、明治元年(1868)、帰山した。明治二十三年(1890)、年五十七で没。

 

佐川直諒

 

佐川家之墓

 

佐川直諒墓誌

1種ロ4号6-7側

 

佐川官兵衛の一子、佐川直諒(なおよし)の墓である。

直諒は陸軍学校を卒業後、近衛歩兵第二連隊第三中隊長として日露戦争に出征して戦死。

 

 

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表参道 Ⅲ

2022年04月16日 | 東京都

(善光寺つづき)

 鍵のかけられた扉の奥に「人力車発明記念碑」がある。塀越しに撮影するしかない。石碑は上部が欠けているため、車という字から下しか残っていない。この石碑は、明治初期に人力車を発明した和泉要助、鈴木徳次郎、高山幸助の功を伝えるものである。

 

人力車発明記念碑

 

従二位勲四等子爵河鰭實文墓

 

 無縁墓石の最前列に河鰭實文の墓石がある。河鰭實文は、内大臣三条実万の五男に生まれたが、弘化二年(1845)の生まれ。万延元年(1860)、河鰭公述の養子となり、従五位下に叙され、文久三年(1863)には従五位上に進んだ。慶應四年(1868)二月、有栖川宮熾仁親王が東征大総督に任命されると、錦旗奉行を拝命し、親王に従って京都を発し、同年四月には江戸城に入り、ついで大総督府参謀加勢に任じられた。帰郷して錦旗奉行を免じられると、明治二年(1869)正月、侍従(旧官)に任じられ、戊辰の戦功により賞典禄百石を永世下賜された。明治三年(1870)、東京府出仕を命じられ、同年十月、東京府権少参事となった。その後、内務省御用掛、内務権少書記官、元老院議官等を歴任し、貴族院議員に互選された。明治四十三年(1910)、死去に際して、特旨をもって従二位に昇叙された。没年六十六。

 河鰭實文の墓は、多磨霊園の河鰭家の墓に合葬されたため、善光寺の墓は無縁となったとのことである。

 

 令和三年(2021)の大晦日は、竹様に誘われて、都内の霊園を回ることになった。この日の案内は、探墓巡礼顕彰会のKさん。私は初対面であった。私よりずっと年齢は若い方だが、とても墓や人物に関して造詣の深い方で、非常に感銘を受けた。「墓地を歩いていると寺の方に追い払われた」とか「犬に吠えかけられた」とか「カラスに襲われた」といった「掃苔あるある」で盛り上がった。

 この日は非常に寒い一日であったが、日の暮れるまで歩き回って、一日の歩数は久しぶりに三万歩を越えた。

地下鉄表参道駅で待ち合わせして、最初にご案内いただいたのが善光寺である。善光寺の墓地においても、私はこれまで中御門経之の墓くらいしか確認していなかったが、ほかにも多数の公家の墓を紹介していただいた。

 

勘解由小路家之墓

 

 勘解由小路(かでのこうじ)家の墓には、幕末の当主勘解由小路資生(すけなり)、その子の資承(すけこと)らが葬られている。

 勘解由小路資生は、文政十年(1827)の生まれ。父は従二位裏松恭公。弘化元年(1844)正月、中務権少輔、嘉永四年(1851)、中務少輔に任じられ、以後弁官を歴任。その間、文久二年(1862)五月、勅使大原重徳の東下に当り、幕府に示すべきいわゆる三事策について朝臣に勅門があると、三条西季知、三条実美ら二十数名と連署して奉答建言し、同年十二月、国事御用掛となり、文久三年(1863)二月、河鰭公述とともに在京各藩周旋方を学習院に招いて意見を問うなど、国事に活動した。慶應四年(1868)三月、新征大阪行幸に供奉、四月、弁事に任じられ、八月、即位新式取調御用掛を仰せ付けられた。明治二年(1868)四月、山陵総管、八月、侍従を歴任。明治五年(1872)五月、宮内省六等出仕、明治九年(1876)十二月、宮中祗候となった。明治二十六年(1893)、年六十七で没。

 

松木家之墓

 

 何の変哲もない墓石であるが、この墓もKさんにご教示いただいたところによれば、公家の松木(まつのき)家の墓である。松木家は、藤原道長の子で、右大臣を務めた俊家の嫡流で中御門とも号した。幕末の当主は松木宗有。

 

土御門家之墓

 

 Kさんによれば、公家の土御門家の墓は、京都(梅林寺)にあるらしいが、ほとんど無縁と化しているらしい。

 幕末の当主土御門晴雄(はるお/はれたけ)は、文政十年(1827)の生まれ。父は、陰陽頭土御門晴親。天保十三年(1842)、父の後をうけて陰陽頭となった。嘉永二年(1849)、右兵衛佐に任じられ、安政二年(1855)正月、正四位下に叙された。安政五年(1858)三月、幕府の条約勅許奏請に対する勅裁案に関し、中山忠能らと廷臣八十八卿列参上書に加わり、朝議の変改を請うた。ついで安政六年(1859)八月、民部卿となり十二月には近習に加えられ、元治元年(1864)正月、正三位に叙された。また御祈祷たびたび勤仕の賞として文久三年(1863)十二月、直衣を許された。明治元年(1868)、江戸の天文方を京都に移すことを請うて赦され、造暦およびその頒布に当たった。明治二年(1869)、年四十三で没。

 

角田家之墓(角田良智の墓)

 

 会津藩出身者として最初の海軍将官となった角田秀松の父にして、会津藩医を務めた角田良智の墓である。傍らの墓誌には「明治二十年七月一日没」とある。

 

 

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