(青山霊園)
ちょっとショッキングであるが、青山霊園の大鳥圭介の墓は撤去されていた。大村純煕の墓所跡にできた合葬墓に名前だけ残されている。
1種イ2号5側
設楽範輔

設楽範輔居士
設楽範輔は、陸軍隊。明治元年(1869)十一月二日、蝦夷福島にて戦死。
坂田警軒

警軒坂田先生墓
1種イ2号11側
坂田警軒は、丈助、丈平と称した。天保十年(1839)の生まれ。嘉永六年(1853)、阪谷朗蘆が後月郡寺戸村に興譲館を興すと、十五歳でこれに学び、学業大いに進み都講となる。万延元年(1860)、肥後の木下犀潭に入門し、井上毅、竹添進一郎と木門の三才と称された。慶應元年(1865)、江戸に遊び、安井息軒に学んだ。慶應三年(1867)、岡山藩家老池田天城の賓師となった。明治二年(1869)、二代目興譲館館長となり、一新社を組織し洋書の翻訳本を購入して館に備えた。たまたま山田方谷に招かれて、閑谷黌を兼務した。明治十二年(1879)、岡山県会の開設にあたり、県会議員に選ばれ、ついで初代議長となった。のち衆議院議員に当選すること三度。慶應義塾などの講師を務めた。明治三十二年(1899)、年六十一で没。
船越八百十郎

船越八百十郎之墓
1種イ5号6側
船越衛と同じ墓域に父八百十郎の墓がある。船越八百十郎は、文化九年(1812)の生まれ。天保三年(1832)、藩に召し出され、勘定所詰となった。理財家として知られ、そのため冤罪、閉門にあった、諸国志士との交わりも広く、自家に匿ったり、資金的援助を行い、十津川挙兵の際にも銃器類と軍資金を送って援助した。慶應二年(1866)には長崎で小鷹狩正作と謀って独断で汽船、鉄砲を購入し、また芸薩貿易にも関与した。慶應三年(1867)、神機隊設置に際しては資金面の世話をし、また同隊の戊辰戦争の出兵資金も調達した。明治十九年(1886)、年七十五で没。
飯田年平

石園飯田先生之墓
1種イ5号32側
飯田年平(としひら)は、文政三年(1820)の生まれ。年平は諱。通称は足穂、七郎。雅号は石園。天保四年(1833)、紀州に赴き、本居大平、加納諸平らに国典および和歌を学ぶ。のち京都において伴信友に古学を授けられ、ついで諸国を巡行した。万延元年(1860)三月、鳥取藩の国学方雇となり、ついで国学家業を命じられた。文久三年(1863)、藩主池田慶徳に朝幕の周旋、攘夷実行のことを上書。元治元年(1864)、伯耆志編纂に従事した。明治二年(1869)正月、明治政府史官、明治四年(1871)八月、大録となり、明治五年(1872)八月、教育制度について建言。のち式部大属兼中掌典、神宮神嘗祭奉幣使、式部寮御用掛、式部職御用掛准奏任官などを歴任し、明治十九年(1886)、辞任した。同年、年六十七で没。
相馬充胤

従四位相馬充胤之墓
1種イ7号5~7側
中村藩主。教育や民政に力を注ぎ、度々の冷害の処置を講じるとともに、倹約令を出して奢恀を戒めた。土木事業を興し植林を盛んに行った。父、益胤の遺志を継いで藩内で二宮尊徳の報徳仕法を実施した。維新時の士族授産は他藩から模範とされた。明治二十年(1887)六十九歳で死去。
四辻清子

典侍正三位勲三等室町清子墓
1種イ7号10側
天保十一年(1840)の生まれ。父は権大納言四辻公績(よつつじきんいさ)。のちに室町と改姓したため、墓石の前の墓標には「室町清子」と書かれている。安政三年(1856)、祐宮(のちの明治天皇)付として召し出され、翌年上臈となり、万延元年(1860)、祐宮の儲君治定の日、名を高松と賜った。慶應三年(1867)正月、明治天皇が践祚するに及び、典侍に任じられ、権典侍、中納言典侍、二典侍と称したが、明治四年(1871)八月、女官官制の改正によって権典侍に選任され、紅梅典侍の称を賜った。明治六年(1873)二月、典侍に昇任。爾後、終身典侍として勤仕したが、天皇の側近にあること四十六年。資性質直、もっとも知遇を辱くしたといわれる。明治三十五年(1902)正月、病篤きに及んで、正三位勲三等に叙された。年六十三にて没。
川村恵十郎

川村家之墓
1種イ13号16~18側
諱は正平(しょうへい)。代々小仏関所で関守を務める家に生まれた。少年の頃より武技を嗜み、尚武の気性に富んでいた。竹林坊赤松光映に師事、その推輓により川越藩主松平直克に仕え、文久三年(1863)、京都に赴いたが、ついで一橋慶喜に仕えて家人となった。翌元治元年(1864)六月、京都で一橋家側用人兼番頭の平岡円四郎が暴徒の襲撃で斬殺されると、その場で二人を斬り伏せたが、自身も顔面に敵刃を受け、以後「傷の正平」の異名をとった。その功により慶喜より十人頭に取り立てられ、禄二百石を賜った。慶應二年(1866)、慶喜が将軍となると、旗本の士として勤侍し、慶応四年(1868)正月の鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸に帰り、さらに駿府に隠退するときも、つねに慶喜に従って奉仕した。のち明治政府に仕えて大蔵省、内務省に出仕した。明治六年(1873)、福岡県下に反乱が起こると、林友幸に従って西下し、これを鎮静した。ついで内務卿大久保利通の知遇を得て、明治七年(1874)、大久保が全権弁理大臣として清国に差遣されると、これに随行した。後に宮内省出仕、内閣記事局に勤め、明治十四年(1881)、天皇の東北巡幸に供奉した。官途を退いて後は、日光東照宮禰宜となった。明治三十年(1897)、年六十三で没。
奥野昌綱

奥野昌綱之墓
1種イ13号17側
文政六年(1823)の生まれ。幼名は銀三郎、維新当時は左京と名乗った。弘化四年(1847)、二十五歳のとき、奥野家の養子となり奥野昌綱と改名し、嘉永二年(1849)、輪王寺宮に仕えた。維新の際、上野彰義隊の戦いに敗れ脱走。榎本武揚に従ったが、途中遭難して清水港に漂着し、しばらく静岡に潜伏した。のちキリスト信徒小川義綏の紹介で、ヘボンの日本語教師として「和英語林集成」第二版の編集を助けた。ヘボンおよびジェームス=バラの説教に感激し、明治五年(1872)、ブラウンより受洗し、さらに按手礼を受けて小川とともに日本人最初のキリスト牧師となった。新約聖書の翻訳に尽くし、のち各地に伝道した。讃美歌の和訳、その他漢文のキリスト教文献の訓点標註・和訳をなし文書伝道に貢献した。明治四十三年(1910)、八十八歳で没した。
戸枝一郎左衛門

戸枝家之墓
1種イ16号9側
戸枝一郎左衛門は会津藩士。百石。玄武士中隊。慶應四年(1868)八月二十四日、若松城にて戦死。六十三歳。
丹羽正庸

丹羽正庸之墓
1種ロ2号3側
文政五年(1822)の生まれ。代々三条家の諸大夫を勤める丹羽家に生まれ、天保三年(1832)、十一歳にして家職を継いで諸大夫となり、従六位上に叙され、豊前守に任じられた。ついで弘化元年(1844)正月、大学助を兼任。位も嘉永六年(1853)、従五位上に進んだ。実万、実美の父子二代に仕えて家政を掌り、また機密にあずかり、安政元年(1854)には江戸に赴いて関東の情勢を探索した。一方、尊攘派の志士と交わりを結び、国事に奔走したため、安政の大獄に連座して捕らわれ、安政六年(1859)三月、江戸に檻送、十月に中追放に処された。その後、文久二年(1862)十一月、和宮降嫁の恩赦によって赦免。京都に帰り、三条家諸大夫に復帰して維新に及んだ。明治十五年(1882)、年六十一で没。
橋本有幸

橋本有幸之墓
1種ロ2号11側
青山霊園を歩いていてたまたま橋本有幸の墓を発見した。青山霊園の底の深さを改めて実感した。
橋本有幸は、英彦山の修験。かねて国事に心を傾け、諸藩士特に対馬藩士との交誼が深かった。文久三年(1863)六月、英彦山で役僧が中心となって義挙を企てた時、加担して盟約した。同年十一月、弾圧のため小倉藩が来襲したときは、たまたま肥前田代にいたが、体躯肥大歩行に難儀して逃げ切れず縛についた。獄にあること四年。長豊戦争の混乱の中で同志は次々と斬首されたが、兄良什坊とともに奇跡的に難を免れ、難民に紛れて逃げた。のち再び小倉に出て奇兵隊に身を寄せ、明治元年(1868)、帰山した。明治二十三年(1890)、年五十七で没。
佐川直諒

佐川家之墓

佐川直諒墓誌
1種ロ4号6-7側
佐川官兵衛の一子、佐川直諒(なおよし)の墓である。
直諒は陸軍学校を卒業後、近衛歩兵第二連隊第三中隊長として日露戦争に出征して戦死。