史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「大久保利通 「知」を結ぶ指導者」 瀧井一博著 新潮選書

2022年10月29日 | 書評

ハノイに赴任してからこちらの事情が色々分かってきた。日本国内ではどこにいても普通にインターネットを通じてFM放送を聴取することができたが、海外は「エリア外」となり、中学生の時以来の趣味であるライブ録音を聴くことができなくなってしまった。さすがにこちらに来てしまえば史跡探訪は諦めざるを得ないことは覚悟していたが、書籍を入手できないのには困ってしまった。気になった書籍があれば日本の自宅に届けてもらい、まとめて郵送してもらうしかない。三十年前に駐在していたシンガポールでは日系の書店が進出していて日本語の書籍も入手できたが、今やネットを通じて書籍も購入する時代となったことによる思わぬ弊害であった。野球やソフトボール、テニスといったスポーツをやるにも、同好の人がみつからなければ始めることもできない。日本に住んでいたときには、普通にできた趣味が何一つできない事実に愕然としている。今のところ、日本で購入して当地に持ち込んだ貴重な書籍を、休みの日に少しずつ読み解いている。本書はその一冊である。

著者瀧井一博氏は、「伊藤博文」「大隈重信」(以上、中公新書)、「明治国家をつくった人びと」(講談社現代新書)などの著作がある。どちらかというと、明治期の法制史が専門という印象が強いが、本書では大久保利通を正面から取り上げた。維新前は専門外かと勝手に思っていたが、見事に大久保利通という人物の本質を突く論説であった。

維新前夜の西郷隆盛と大久保利通は、時に陽となり時に陰となり、お互いを支えながら倒幕という共通目標に邁進した。両者は一体化した存在という印象が強いが、当然ながらそうはいっても別人格であり、必ずしも両者の思想や行動は、一致しているわけではない。条理に基づいた政治を意識し、「非義の勅命は勅命に非ず」と断定した大久保は、思想面でいえば西郷の一歩も二歩も先を見ていたといえるだろう。

本書において、著者は大久保利通を「知の政治家」と定義し、その思想を明らかにすることを目指した。大久保利通については、リアリズムに徹した「夢を持たぬ」政治家という批評もある(田中惣五郎「大久保利通」(千倉書房、1938年))。大勢順応主義、対立撤去主義、多数主義者であって、自らの夢などを持たず、政治家としての理念も抱かず、ひたすら国家の維持のために旧藩的対立を糊塗しようとしたというのである。長らくこういった大久保像が広く受け入れられてきた。

これに対し筆者は、「大久保には夢があった」「夢見る政治家だった」と反論する。その夢とは、「藩による割拠を克服した国民的宥和としての国家建設」である。その夢の実現のために大久保が手掛けたのが明治十年(1877)の内国勧業博覧会であった。

博覧会というと、そのイベントに慣れてしまった現代の人間にとっては、地域経済活性化のためのありきたりの施策の一つとしか思わないが、確かに我が国で初めて開かれたこのイベントは、極めてエポックメイキングなものであった。現代において博覧会が開かれれば、プロデューサーと呼ばれるエキスパートが取り仕切るが、第一回内国勧業博覧会はまさに大久保利通その人がプロデューサーであった。

大久保は欧米視察を通じて万国博覧会の存在を知っていたし、見世物的イベントであれば、その時外国からも博覧会への参加の打診があったというし、外国からの出品を受け入れれば、もっと集客の術はあっただろう。しかし、大久保は「今度の博覧会は全く内地の物産を繁殖せしむるというのが趣意であり、外国の輸入品は一切陳列を差し止める」と拒絶し、「内国勧業」にこだわった。大久保が語った開会の辞によれば、日本全国の物産を一堂に集め、その優劣や差異を判別し、工芸の進歩を促し、国富を増進する催しなのである。実際にこの内国勧業博覧会を機に、我が国の陶磁器業は技術の向上を遂げ、殖産興業、輸出力強化に寄与することになった。同じようなことが、機械工業にも言える。

大久保は「公論に立脚した国制を希求していた。」「公論との同一化に支えられた熱烈な使命感と不動の信念」を政治家の資質として弁えていた。一方で、処士横議を口にし、言路洞開を主張する浪士を毛嫌いし、旧習に拘泥する公家勢力や旧大名層も排除の対象となった。政敵を排除しただけでなく、讒謗律や新聞紙条例によって政府批判も弾圧して封じ込んだのも事実である。結果として、大久保は有司専制の象徴として最後は征韓派士族に暗殺される。

筆者がいうように、私も大久保利通という人は、「知の政治家」であり、高邁な理念をもって、さまざまな政治勢力や政策的意見を吸収し、取捨選択し、時には結び合わせて、政治的潮流を作った稀有な存在であったと思う。しかし、本書にはあまり記述がないが、時には強権的であり、反対勢力から怨嗟を集めていたことも事実である。もう少しその辺りにも触れてもらえると、より立体的、複層的な大久保利通論になっただろう。

 

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「明治維新 勝者の中の敗者」 遠山浩規著 山川出版社

2022年10月29日 | 書評

著者遠山浩規氏の本業は「国際政治経済学」であるが、若い時期に「利通暗殺―紀尾井町事件の基礎的研究」(行人社1986年)で、歴史研究の世界でも一躍名を高めた方である。本書はそれ以来調査・研究を積み重ねてきた著者が三十五年振りに世に問う力作で、一般にはほとんど知られていない明治初年の反政府活動の実態を明らかにしたものである。

明治初年の反政府活動というと、佐賀の乱や神風連の乱、秋月の乱、萩の乱そして西南戦争へと続く不平武士による武装反乱が想起されるが、その陰にあって維新に乗り遅れた攘夷派たちは水面下で執拗な活動を続けていた。彼らの動きは、表の歴史に刻まれることもなく、ほとんど史料も残っていないことから、これを扱った関連書籍も少ない。本書では土佐藩士堀内誠之進という一人の活動家の足跡を追うことで、この時代の反政府活動の実態を明らかにしてみせた。奇兵隊の反乱、二卿事件、西南戦争へと続く一連の事件について、私もこれまで個別には知っていたつもりであったが、これを堀内誠之進という人物を通じて、事件を線で結ぶことに成功した。筆者によれば、本書は三十五年にわたって調査・研究した成果だという。つまり「利通暗殺」以来温めてきた構想を形にした集大成といえる。

堀内誠之進は、天保十三年(1842)、高岡郡仁位田郷柿木山村の出身。実家が庄屋という点では中岡慎太郎や吉村寅太郎と共通している。この人物が、幕末どのような活動をしていたのかについては「わずかな情報と資料しかない」という。はっきりしているのは、慶應年間に藩の物産局に勤めていたということくらいである。志士的活動をしていたと思われる節もあるが、はっきりしない。さらに戊辰戦争にも従軍していない。これも理由は明確ではないが、筆者は「歩行に障害があったため」と推定している。なお従兄島村賢之進(土佐勤王党員)は、会津で戦死している。

要するに幕末において堀内誠之進という人物は、志士として特に目立った活躍はしていなかったということであろう。

誠之進が藩外にでて活動を開始するのは、明治二年(1869)一月のことである。当時の京都は、政府の欧化主義、東京遷都、草莽弾圧等に対する不満と批判が渦巻き、当地を訪れた活動家は例外なく「この京都の尊攘的風土と政府批判の風潮の洗礼を受けた」(佐々木克『志士と官僚』)といわれる。京都に入った誠之進もその一人であったろう。

横井小楠が明治二年(1869)正月、京都で暗殺された。維新後初の政府高官暗殺事件であった。小楠を暗殺した刺客が称賛され、減刑・寛典を求める声が相次いだ。その中心にあったのが弾正台京都支台であり、その一員であって、とりわけ犯人助命のために奔走したのが柳川藩士古賀十郎という人物であった。古賀はこの後、誠之進とも関係を持ち、明治天皇の再幸中止を訴え、その実現が難しいと悟ると二卿事件に深く関与していくことになる。誠之進も、引き込まれるように一連の反政府運動に関わっていった。

堀内誠之進は、同じ土佐藩出身の岡崎恭輔(恭助、強介とも)や依岡城雄らと秋田藩の初岡敬冶、古賀十郎らと密儀を重ね、明治二年(1869)九月、大村益次郎襲撃事件を起こす。実行犯は、神代直人(山口)、団伸二郎(山口)、金輪五郎(秋田)、五十嵐伊織(越後)、関島金一郎(信州伊那郷士)。第二組として、伊藤源助(白河脱藩)、太田光太郎(山口)、宮和田進(国学者・中山忠能家来)が加わった。大村襲撃事件後、誠之進は岡崎らとともに全国に指名手配され、彼らは中国・九州を目指して逃亡した。このとき捕縛を逃れたのは堀内誠之進とその弟了之輔、岡崎恭輔だけで、実行犯神代直人以下は全員捕らえられ処刑されている。

肥後熊本の藤崎八幡宮神官鬼丸競(壱岐)方で再会を果たした誠之進と岡崎恭輔は、山口藩奇兵隊の反乱を支援し、その機に乗じて攘夷決行を企てた。二人が頼ったのはまず久留米藩の古松簡二であった。岡崎は古松を連れて当時肥後藩の飛び地であった大分の鶴崎へ河上彦斎を訪ねた。この時四人は、諸藩を鼓舞して大いに兵力を振い、東京に押し出して攘夷親征を実現すると方針を定めた。しかし、彼らの工作は不首尾に終わり、当てにしていた山口の脱退兵も呆気なく鎮圧された。誠之進も鶴崎を離れ、山口宗次郎と変名して東京に潜伏した後、明治三年(1870)十一月には大村事件で指名手配され脱出した京都に一年二カ月ぶりに舞い戻った。再幸後の京都には、公卿の家柄の凋落を嘆き、政府の洋風化、開明策に憤る二人の若い旧公卿がいた。外山光輔と愛宕通旭(おたぎみちてる)である。誠之進は愛宕グループに合流した。ここには比喜多源二(国学者)、古賀十郎、中村恕助(秋田・初岡敬冶の同志、部下)らが旧公卿を盟主として武力蜂起し、東京の政府を転覆するという大胆なクーデター計画を企てていた。しかし、それを実行に移すには彼らには武力がなかった。そこで、愛宕グループの意を受けた誠之進は東京に出て、外務卿澤宣嘉の下でクーデターを目論む岡崎恭輔や同じ土佐藩出身の土居策太郎(幾馬)、坂本速之輔らと接触し、意気投合した。彼らが期待した久保田藩(秋田)の初岡敬冶が藩の権大参となり、武装蜂起にはまったく消極的となっていたため、彼らが頼るのは久留米藩しかなかった。しかし、反政府派のクーデター計画が久留米藩の兵力頼みであることは、明治政府も見抜いていた。

明治四年(1871)三月、久留米藩の処分のため巡察使四条隆謌は山口、熊本の兵を率いて藩境まで兵を進め、久留米藩庁に圧力をかけた。追い詰められた久留米藩では水野正名、小河真文らが出頭し、藩存亡の危機に立たされた。藩内の反政府攘夷派は動揺し、終に藩に匿っていた大楽源太郎を殺害して巡察使に自訴する挙にでた。

同じ頃、広沢参議暗殺の不審人物として堀内誠之進は捕縛され、前後して東京と京都では反政府尊攘派が一斉に捕縛された。こうして愛宕・外山二卿を盟主とした東西同時クーデター計画は、完全に瓦解した。この時、丸山作楽、落合直亮、矢野玄道、権田直助、中沼了三といった反政府派に影響力のある国学者や儒学者も一斉に検挙され、諸藩御預けとなっている。愛宕通旭、外山光輔ともに処刑。幕末から明治にかけて公家出身者が処刑された例は本事件以外ない。

堀内誠之進も国事犯として投獄され、明治四年(1871)十二月には、鹿児島県預けとなった。以後、西南戦争まで鹿児島に軟禁されることになる。とはいえ、早々に英医ウィリアム・ウィリスが住んでいた異人館に転居することになり、比較的自由な生活を送っていたらしい。

西南戦争では、薩軍に従軍志願し、明治十年(1877)五月下旬、桐野利秋から高知に潜入することを命じられた。追い込まれた桐野にとって、土佐からの援軍が形勢逆転の秘策だったのである。

筆者は、誠之進が土佐潜入のため上陸した沖ノ島(現・高知県宿毛市)まで上陸し、誠之進の足跡を追う。尋常ならざる執念である。本書は筆者の執念が形となったもので、歴史の隙間を埋める一冊となっている。

 

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