(常願寺大橋西詰め)
国道415号線の常願寺大橋の西詰めに明治天皇御野立所御聖跡碑がある。明治十一年(1878)九月二十九日の滞在。
常願寺大橋
明治天皇御野立所御聖蹟碑
(常願寺大橋西詰め)
国道415号線の常願寺大橋の西詰めに明治天皇御野立所御聖跡碑がある。明治十一年(1878)九月二十九日の滞在。
常願寺大橋
明治天皇御野立所御聖蹟碑
(薬種商の館・金岡邸)
富山県民会館分館「薬種商の館・金岡邸」
旧草野家
明治天皇 町新庄御小休所趾
富山県民会館分館「薬種商の館。金岡邸」の門前に明治天皇 町新庄小休所趾碑が建てられている。この門は草野家のもので、明治十一年(1878)九月二十九日、明治天皇が当地に滞在している。隣家の金岡家は、草野家の土地を買い求め、庭園に銅製の「明治天皇町新庄小休所趾碑を建てた。金岡家は薬種商や売薬業を営み、実業家として功績を残した。母屋には明治初期の金岡薬店が復元され、薬業関係の資料が展示されている。
(願海寺)
願海寺
願海寺の民家の門前に明治天皇願海寺御小休所碑が建てられている。明治十一年(1878)十月一日、滞在。
明治天皇願海寺御小休所
明治十一年十月一日 明治天皇小休所御跡
(呉羽山)
呉羽山
呉羽山は標高80メートルの小山であるが、展望台から立山連峰に囲まれた富山市街を一望できる。
富山県は、福井県、石川県と並んで、「幸福度ランキング」で常に上位を占めている。教育の高さとか、正社員率の高さなどが要因といわれているようだが、ここに立ってみると雄大な自然に囲まれていることも、幸福度と相関があるような気がしてならない。さらに言えば、あまり人が多すぎないこと、つまり適度な人口密度も一因ではないだろうか(東京は人が多過ぎて、駅の周辺では真っすぐに目的地に向かって歩くことさえ困難である。これには結構ストレスを感じる)。
大正天皇漢詩碑
呉羽山山頂に大正天皇漢詩碑が建てられている。明治四十二年(1909)九月二十九日、皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)が富山に行啓し、呉羽山に登り、その時の感慨を「登呉羽山」なる七言古詩に詠んだ。
昭和二十六年(1951)、サンフランシスコ講和会議における平和条約調印を受けて、大正天皇の聖蹟を長く記念、保存するため、同年御製詩碑が建立された。
昭和天皇御製碑
大正時代に皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)が詠まれた短歌が刻まれているらしいが、どういうわけだか、ブルーシートで覆われていた。
たて山の空に聳ゆるををしさに
ならへとぞ思ふ みよのすがたも
皇儲󠄀駐駕處
皇儲󠄀駐駕處碑は、皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の滞在記念碑。
(茶屋町)
明治天皇中茶屋御小休所
茶屋町の民家の前に明治天皇中茶屋小休所碑がある。碑の横には、文部省による説明板が付されている。明治十一年(1878)十月一日、小休所となった場所である。当地において、精製された煎茶を明治天皇が飲んだことがきっかけとなり、呉羽産の茶は広く知られるようになったという。
(長岡御廟所)
長岡御廟は旧富山藩主前田家歴代の廟所である。境内には初代利次から十二代利聲までの墓を、正室や側室等の墓が取り囲み参道には家臣達が寄進した石灯籠五百三十七基が建ち並ぶ。初代利次を中心に四代利隆、五代利幸、八代利謙、九代利幹、十代利保、十一代利友、十二代利聲らの墓が置かれている。また、北側には別に二区画の御廟所があり、そこにも歴代藩主の墓碑がある。
贈従三位侍従兼長門守菅原朝臣利保之墓
(前田利保の墓)
前田利保(としやす)は寛政十二年(1800)の生まれ。文化十四年(1817)十二月、従五位下出雲守に叙任され、天保六年(1835)十月、利幹の後をうけて家督を継ぎ、藩政の振興に力を入れた。特に天保の凶作、飢饉を受けて、農民の救済と殖産興業に力を尽くした。天保八年(1837)、国産振興のために産物方を設立。また富山の近郊東田地方村に薬草園を作り、かつ売薬行商人に命じて諸国の産物を集めて士民の縦覧を許した。弘化三年(1846)十月、病のため致仕し、長門守を称した。利保は本草学を岩崎常正に受け、本草学者としても有名であるのみならず、早くより国学にも通じ、宇田川榕庵について蘭学も学んだ。藩主の進歩的行動が、この地方の開明に資するところ大であった。安政六年(1859)、年六十で没。
従四位下行出雲守菅原朝臣利友之墓
(前田利友の墓)
前田利友は、天保五年(1834)の生まれ。父は前田利保。母は側室の毎木。弘化三年(1846)、利保の隠居により家督を継いだが、若年の上病弱だったため、藩政は父母および家臣によって行われた。やがて生母の毎木が藩政をほしいままにし、これに対し利保が毎木の排除を試み、富山藩は利保派(富山派)と毎木派(江戸派)に別れて抗争を繰り広げた。利友の死後、富山藩ではお家騒動が起こることになった。嘉永六年(1853)、年二十で没。弟の利聲が養子として跡を継いだ。
贈従三位侍従兼淡路守菅原朝臣利幹之墓
(前田利幹の墓)
前田利幹(としつよ)は、明和八年(1771)、加賀大聖寺藩主前田利道の八男に生まれ、享和元年(1801)に富山藩主の養子として迎えられ家督を継いだ。藩財政の再建に苦慮し、大阪商人の石田小右衛門を招致して財政改革を指導させたが、目立った成果を上げられないまま、藩財政は悪化の一途をたどった。天保六年(1835)、病を理由に隠居。家督を養子の利保に譲った。天保七年(1836)、年六十六で没。
(明治安田生命富山ビル)
安田善次郎翁之像
富山駅前の一等地に明治安田生命富山ビルがある。その前に安田財閥の祖安田善次郎像が建てられている。安田財閥は、三井、三菱、住友と並ぶ四大財閥の一つに数えられる。財閥解体後は、芙蓉グループを形成した。
(安田公園)
安田善次郎は、天保九年(1838)十月九日に、現・安田公園のある場所に生まれた。父善悦は、富山藩の最下級の武士の身分を得たものの、半農半商の貧しい生活であったため、善次郎は農業や行商に精を出し家計を助けた。十四~五歳の頃、身分の高い富山藩士たちが、用達商人に膝を屈するのを見て、お金のもつ力と時代の移り変わりを悟り、商人として立身出世を志した。十九歳で江戸に出、勤勉に働き、倹約に努めることを信条として初志を貫き、安田銀行(現・みずほ銀行)、共済生命保険(現・明治安田生命保険)など、今も続く我が国の著名な企業を設立した。また、日本銀行の設立にも関わり、設立後は理事監事を歴任し、我が国の発展に多大な貢献を残した。大正十年(1921)、大磯の別荘寿楽庵に滞在中、兇漢に襲われ死亡した。
松翁安田善次郎君誕生地
石碑は、善次郎没後の昭和十一年(1936)三月に建立されたもので、揮毫を寄せた高橋是清はその年に起きた二二六事件で凶刃に倒れている。この書は、その数日前に届けられたものである。
(小川亀次郎商店)
御膳水井戸
明治天皇の北陸巡幸は明治十一年(1878)、八月三十日に東京を出発し、九月二十八日に新潟から富山に板輿で入り、朝日町と魚津市でそれぞれ一泊した。九月三十日、富山市に入り、中田清兵衛(薬業の豪商)邸で一泊した。十月一日には、西町、越前町、旅籠町、諏訪川原町を経て七軒町で板輿に乗り換えた。神通川に架かる六十四艘の舟橋を渡り、漁船により神通川の鮎漁を高覧した。その後、明治天皇は船頭町を経て、愛宕町の大間知正助(呉服商)邸で休息し、この井戸水で沸かしたお茶を飲んで。馬車に乗り換え、舟橋今町、五福新町を経て安養坊に向かった。
御膳水井戸は残されているものの、既に水は枯れ、現在は使われていない。