後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

悲劇の八王子城

2008年02月19日 | 写真

Dscn1421_2 Dscn1428_2

Dscn1409_3     Dscn1410_2     Dscn1414_3    Dscn1411_2

人間は優しさと残忍さを持つ。洋の東西を問わない。人間の殺戮の歴史を忘れないために、今回は戦国時代末期の八王子城の悲劇と、次回記事ではアメリカ開拓時代のインデアンの殺戮の歴史を掲載する。

 小田原城に北条早雲が拠点を置いてから4代目当主は北条氏政。関東を支配ししていたのがその弟の氏照。武田信玄に攻められ苦戦した滝山城から山中の八王子城へ移ったのが1586年。しかしその4年後の天正18年、1590年6月23日に落城。

八王子城を攻めたのは信濃から進撃してきた前田利家、上杉景勝、真田正幸の連合軍である。上州の支城を北から席巻し、6月23日には15000人の勢力で4000人が守る八王子城を速攻し夕方には落城させた。生き残った家臣、婦女子は主殿裏の滝の上で自害し滝壺へ飛び込んだという。滝壺から続く谷川は血で三日三晩赤く染まったと言い伝えられている。

八王子城が落ちた6月23日は城主の氏照は小田原城に居て留守であったことも敗北を早めた一因という。

生き残った捕虜は小田原の秀吉のもとへ送られ、7月7日の小田原城の開城後、7月11日の氏政と氏照の切腹と前後して極刑を科せられたという。

天正18年は関東、東北地方に散在していた多くの戦国大名が秀吉一派に敗北した年である。八王子城のような悲劇は各地で起きた。

日本人と日本人が殺しあう。そんな時代がつい明治維新後の西南戦争まで当たり前であった。歴史を忘れる者は同じ過ちを繰り返すという。住んでいる場所の近くで起きた悲劇なら忘れ難いと思い、今日は八王子城跡を静かに歩いてきた。針葉樹に囲まれた暗い谷間に雪道が寂寥として続いていた。

===================================================

撮影日時;2月19日午前11時ー12時、

撮影場所、八王子市城山東斜面の八王子城主殿跡付近(尚、本丸は主殿うしろの城山山頂にあり、徒歩40分かかる)

東京都内から車で行く場合;中央高速道、八王子ICを出て16号線を甲州街道20号線まで行き右折し20号線をJR高尾駅手前の町田街道を右折。間もなく八王子霊園方面へ左折し中央高速道の下をくぐればすぐ左折。案内板にしたがって800メートル上ると八王子城跡専用無料駐車場がある。JR中央線で行く場合は終点の高尾駅下車、北口からバスがあるが、よく調べてから行く必要がある。(以上)


雄大な八ヶ岳の見える野天風呂

2008年02月19日 | 写真

Dscn1346

Dscn1333 Dscn1334 Dscn1335 Dscn1336 Dscn1339

Dscn1340_2 Dscn1341_2 Dscn1343 Dscn1344 Dscn1347 Dscn1348Dscn1350

山梨県北杜市営の白州名水公園内の「尾白の湯」をご紹介したい。野天風呂と内湯の両方から雄大な八ヶ岳の眺望が楽しめるような設計になっている。

建物全体がゆったりした1階建てで広くて清潔なロビー、食堂、休憩室、などがある。

温泉は地下1000メートルから湧き出すフォッサマグマの湯。源泉は酸化鉄を多量に含む赤褐色。源泉そのままの湯は2つある野天風呂の右側にある。幾つもある他の湯船へは、この源泉を白州の名水で薄めたものを使っている。

尾白の湯のある白州名水公園にはレストラン、オートキャンプ場、川遊び場、森林散策路などがそろっていて夏には多くの家族づれで賑わっている。

近くに同じ泉質で、鳳凰三山の眺望を楽しめる露天風呂のある市営「武川の湯」もある。

ただし、建物や周りの敷地は尾白の湯に比較すると少し小さい。

尾白の湯の料金は700円。休館日は年末年始・火曜日休館(火曜日祝祭日の場合翌日)

交通:東京から約140Km,中央高速道路を使うと約2時間である。道順は中央高速の韮崎ICを出て甲州街道に出る。(ETC通勤割引を使うと八王子ー韮崎間の高速料金2700円が1350円になる。次の須玉ICを出ると100Km以上の距離になりETC通勤半額割引が使えなくなる)

甲州街道を西北方向へ行くと韮崎市を出て北杜市、武川町に入る。

牧原交差点を左折すれば武川の湯、そのまま直進し白須地区に入り「白州道の駅」の手前のJA前の交差点を左折。あとは看板に従って道なりに行く。正面の甲斐駒の方向へ少し上る。

撮影場所;山梨県北杜市白州町白州名水公園、  撮影日時;2月15日午後2時ー3時