後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

台湾、韓国、北朝鮮、中国、日本は文明共同体

2019年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム
今日はサミュエル・ハンチントン著「文明の衝突と21世紀の日本」(2010年版)の書評を書きたいと思います。彼は1927年生まれ2008年に亡くなったアメリカの国際政治学者です。
その前に先週公園で撮ってきた花々の写真をお送りします。
花の写真を選んでトリミングをし少し明るさを調整する作業は楽しいものです。写真を撮っていた花畑の光景を思い出し気持ち良くなります。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









さてハンチントンは1996年に『文明の衝突』を出版しました。
米ソ対立の冷戦が終わった後の世界は異なる文明の衝突による抗争や戦争が続く世界になるという主張を明快に書いた本でした。
この本は超大国アメリカの21世紀の外交政策を暗示しているので世界のべストラーになります。
しかし本の内容は主にイスラム圏とロシアとアメリカとの抗争についてでありアジアや日本に関しては非常に軽い記述があるだけでした。
その日本に関する記述を補強したのが 「文明の衝突と21世紀の日本」(2010年版)なのです。
最近この本を読んで次の2つの感想を持ちました。
(1)アメリカが唯一の超大国として21世紀の世界秩序を作るという主張が強すぎる。
ハンチントンは優れた国際政治の学者なので露骨な主張は書いてありません。しかし行間からこのような主張が感じられるのです。アメリカの政治家や官僚がこの本を絶賛しそうな内容です。
(2)アジアの文明に対する理解が深くないのです。文明の伝統的な影響力を無視し過ぎてます。
歴史や伝統を無視しがちなアメリカ人らしい世界観なのです。
それに対して抗議するために今日の記事の題目「台湾、韓国、北朝鮮、中国、日本は文明共同体」をつけたのです。
今日はハンチントンの文明観についてのみ考えてみたいと思います。
従来は国際政治は「国家」という主体を基本単位として考えてきました。日本とアメリカが同盟を結ぶ中国とベトナムが戦争をするといった具合にです。
それに対してハンチントンは、そもそも「国家」という枠組みのみをもって世界情勢を捉えるのがもはや不適切であり、代わりに世界は「文明」(civilization)という枠組みで捉えられるべきであると主張します。
それでは「文明」とは何でしょうか?
ハンチントンの定義によると文明は次のようになります。
「文明は、最も範囲の広い文化的なまとまりである……文明の輪郭をさだめているのは、言語、歴史、宗教、生活習慣、社会制度のような共通した客観的な要素と、人びとの主観的な自己認識の両方である。」
この定義に従ってハンチントンは世界には8つの文明があると主張したのです。
<世界の8つの文明>
・中華文明(中国など)
・日本文明(日本のみ)
・ヒンドゥー文明(インドなど)
・イスラム文明(北アフリカやイベリア半島にある数々の国々)
・西欧文明(西ヨーロッパとアメリカ)
・ロシア正教会文明(ロシアや旧ソ連諸国)
・ラテンアメリカ文明(中米や南米)
・アフリカ文明(アフリカ)

6番目の写真は主要文明が有する文明圏の分布を示すハンチントンの世界地図です。
この8つの文明の中で日本文明を特殊な文明としています。中国の文明と異なると言っています。
そして彼は台湾、韓国、北朝鮮については殆ど言及していません。
その彼は日本にわざわざ来て「21世紀の日本」について有名な講演会を開催しているのです。
この講演の内容をまとめた本が「文明の衝突と21世紀の日本」なのです。
何故か日本だけを重要視しているようです。この事はアメリカ政府の安保条約の重視を下敷きにしている感じを与えています。
日本の伝統文化を少し深く考察すれば日本は中華文明の社会なのは明々白々です。
この状態は台湾も韓国も北朝鮮も例外ではありません。北朝鮮だけは世襲の独裁者がいて共産主義の社会ですが、それは昔の中国の社会と同じです。共産主義だけは違いますが。

今日の書評の結論です。
ハンチントンの2つの本はアメリカの政策の為に書かれた政治的な本であり、文明や文化を深く考察した学術書ではないと感じました。
21世紀の世界秩序が8つの文明圏の対立と抗争で形づけられるという主張そのものは非常に独創的で説得力もありますが内容はかなり政治的な本なのです。
第二次大戦中のアメリカ政府に頼まれてルース・ベネデデクトが書いた「菊と刀」のような性格を思い出させる本です。しかし「菊と刀」のほうが学問的で好感を覚えます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


面白い名前、煙の木の花の写真です

2019年05月20日 | 写真
世の中には面白い名前の木があるものです。「煙の木」です。
昨日その木の花の写真を撮ってきたのでお送りします。生えていた場所は三鷹市の花と緑の公園です。

1番目の写真は煙の木の花の写真です。ピンクの花が煙のように見えるので煙の木と言うそうです。
英語ではスモークツリーと言います。
この木はウルシ科 の ハグマノキ属の木です。
初夏に咲く花木の代表で、ヨーロッパから中国に分布します。
枝先につく花は長さ約20cmで多数枝分かれし、伸びた花柄が遠くからは煙がくすぶっているように見えるのです。
私は初めて見たので非常に珍しく感じました。
ついでに撮ったバラの写真もお送りします。煙の木の花とともにお楽しみ頂けたら嬉しく思います。







俳句の名作を楽しむための3つの必要条件

2019年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム
これは私の個人的な考えですから間違っているかも分かりません。
俳句を楽しむための条件とは次の3つです。
(1)同じ俳人の句を10句位選び、それを何度も、何度も朗読する。
(2)その俳句を作った人が住んでいた地方の周囲の風景を調べる。
(3)その俳句が作られた時代の日本人の生活状態を理解する。

今日は飯田蛇笏の「冬の十句」を実例にして上記の3つの条件を説明したいと思います。
私は山梨県の県立美術館や文学館には何度も行きました。甲斐駒岳の麓の山林の中の自分の小屋に通う道の途中なので度々行ったのです。美術館でミレーの絵画を沢山見た後で同じ敷地内のの文学館にも寄ったのです。
すると山梨県を代表する文人として俳人の飯田 蛇笏の直筆の俳句や句集や、 蛇笏関連の数多くの写真が広い部屋に展示してあるのです。
そうして飯田蛇笏を格調の高い俳句を作った孤高の俳人だったと紹介してあったのです。

飯田 蛇笏(いいだ だこつ)は1885年(明治18年)に生まれ 1962年(昭和37年)に亡くなりました。享年77歳でした。どちらを向ても山ばかりの甲斐の国で孤高の暮らしをしていました。
そして俳句を沢山作り、大正時代における俳句の雑誌、「ホトトギス」隆盛期の代表作家として活躍した俳人です。俳誌「キララ」後の「雲母」を主宰します。
蛇笏は山梨県の笛吹市境川町小黒坂の旧家に生れました。
1898年(明治31年)には山梨県尋常中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)に入学し、後に早稲田大学に入学します。
詳しい経歴や活躍の様子は、https://ja.wikipedia.org/wiki/飯田蛇笏 に書いてありますのでご覧下さい。

飯田蛇笏が詠んだ冬の俳句です。
●浪々のふるさとみちも初冬かな    (ろうろうの ふるさとみちも しょとうかな)
●炉をひらく火のひえびえともえにけり (ろをひらく ひのひえびえと もえにけり)
●写真師の生活ひそかに花八つ手    (しゃしんしの たつきひそかに はなやつで)
●桃青忌夜は人の香のうすれけり    (とうせいき よはひとのかの うすれけり)
●ふぐ食うてわかるゝ人の孤影かな   (ふぐくうて わかるるひとの こえいかな)
●風邪の児の餅のごとくに頬ゆたか   (かぜのこの もちのごとくに ほおゆたか)
●山国の虚空日わたる冬至かな     (やまぐにの こくうひわたる とうじかな)
●市人にまじりあるきぬ暦売      (いちびとに まじりあるきぬ こよみうり)
●大つぶの寒卵おく襤褸の上      (おおつぶの かんたまごおく ぼろのうえ)
●手どりたる寒の大鯉光さす      (てどりたる かんのおおごい ひかりさす)

以上の10句の出典は、https://cazag.com/1892 です。

さて「(1)同じ俳人の句を10句位選び、それを何度も、何度も朗読する。」を実行してみましょう。
私は上の10句を100回以上声をあげて朗読しました。
するとそれぞれの俳句に謳われている情景が眼前に浮かんでくるようになりました。

しかしその情景はあくまでも主観的です。正しいのか間違っているのかが判然としないのです。
そこで飯田蛇笏が住んでいた甲府盆地の笛吹市の境川から見える山々の写真を自分で昨冬撮ったのです。
以下の5枚の写真が飯田蛇笏が冬の句を作った時見ていた山々の風景なのです。

1番目の写真は南アルプスの主峰、農鳥、間ノ岳、北岳です。

2番目の写真は北岳を拡大して撮った写真です。

3番目の写真は鳳凰三山で右から順に地蔵岳、観音岳、薬師岳です。

4番目の写真は甲斐駒ケ岳です。

5番目の写真は八ヶ岳の写真です。

飯田蛇笏はこのような山々の風景を毎日見ながら冬の句を作ったのです。
そして「(3)その俳句が作られた時代の日本人の生活状態を理解する。」ために大正時代の地方の生活状態を考えてみました。
当時は都会と地方では生活レベルの差が非常に大きく地方の農民は貧しく悲惨だったのです。
飯田蛇笏自身は笛吹の旧家に生れ早稲田大学を卒業しましたので裕福な生活でした。しかし周囲の人々は貧しく、蛇笏はその苦しみに心を寄せて俳句を作っているのです。

浪々のふるさとみちも初冬かな
彷徨い歩くはるか山国の故郷の道も初冬かなとは冬の生活の厳しさを暗示しているようです。

炉をひらく火のひえびえともえにけり
農家の冬の暖房は囲炉裏がただ一つです。朝起きて冷え切った囲炉裏に火を入れる寒さが私の身にもしみます。

写真師の生活ひそかに花八つ手 
田舎の写真屋さんへ家族写真を頼む人も少ないので生活もひそやかになります。
花八つ手は大正、昭和に流行っていた冬に花が咲く八つ手のことです。私の昔の家にも冬に咲いていました。

桃青忌夜は人の香のうすれけり 
芭蕉の亡くなった桃青忌の夜の甲斐の国では人影なぞ一切ありません。淋しいかぎりです。

ふぐ食うてわかるゝ人の孤影かな 
ご馳走のふぐを食べて送別の宴を終えた友人は独り暗い道を帰って行きます。夜道の孤影と別れの悲しみが重なっているのです。なお甲府盆地は山国ですが海の魚貝類は清水港から富士川の舟運で上がって来るのです。
甲府は今でも海の魚貝類が豊富で有名なのです。

風邪の児の餅のごとくに頬ゆたか 
大正、昭和には子供はよくお多福風邪にかかったものです。おたふく風邪にかかると子供の頬がふっくらと膨れあがるのです。その顔が可愛いのです。2、3日で直りますが母親は心配します。

山国の虚空日わたる冬至かな 
ここに示した5枚の冬山の写真の上空には高く澄み切った碧い空です。その様子を蛇笏は虚空日渡る冬至かなと詠んだのです。冬の寒風が想像されます。

市人にまじりあるきぬ暦売 
昔は初冬になると家々に暦売りが回って来年の暦を売りに来たものです。その暦売りが町で売り歩いている情景です。

大つぶの寒卵おく襤褸の上 
貧しい農家にも久しぶりに大きな卵が産まれました。貴重な卵が割れないように柔らかい襤褸の上にソッと置いたという句です。

手どりたる寒の大鯉光さす  
年越しのご馳走にしようと飼っていた大鯉を手にとってみたらウロコが金色に光っていたのです。鯉を手に取って横向きにしないとウロコが金色に見えないのです。一瞬、殺して食べるのを止めた感興を詠った句です。

このように俳句を楽しむためには上で説明した3つの必要条件があると思いますが、如何でしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)