今日のバラの花の写真をお楽しみ下さい。
以前から少しずつ調べていましたが、昨日は日野市の万願寺という地名の来歴の謎を明かすことにしました。
立川市から多摩市の多摩動物園を結ぶ多摩モノレールの駅に「万願寺駅」があります。その駅の周辺の地名を昔から「万願寺」と云い、現在も町名番地に使われています。
しかしこの周辺に万願寺というお寺は無いのです。
日野市には万願寺というお寺は昔存在していたのでしょうか?
江戸時代の「新編武蔵風土記稿」(1828年)にも万願寺を探したが無かったと書かれいたのです。
江戸時代から万願寺がなかったことに関心が持たれていたのです。
しかし私は万願寺は存在していた可能性を探索するため、昨日、多摩モノレールの「万願寺駅」の写真と近くの唯一のお寺である田村山安養寺(真言宗智山派)の写真を撮って来ました。その写真をお送りします。
1番目の写真は多摩モノレールの「万願寺駅」の遠景です。
2番目の写真は「万願寺駅」と書かれたモノレールの駅の入り口の写真です。
3番目の写真は「万願寺駅」から500mほど西にある田村山安養寺の山門です。
4番目の写真は田村山安養寺の本堂です。
5番目の写真は安養寺の本堂の脇にある弘法大師のお像です。
さて私は一つの仮説を立ててそれに従って調べていきました。
仮説、「安養寺の前身が満願寺であり、満願寺を書きやすい万願寺に変え、それが定着し周辺の地名になった」
この仮説の真偽を検証するため、まず全国の地名で万願寺を使用している所を調べました。下記がその結果です。
万願寺 (由利本荘市) - 秋田県由利本荘市の地名。
万願寺 (日野市) - 東京都日野市の地名。多摩国南多摩郡万願寺村。田村山極楽院安養寺、万願寺駅などが置かれている。
万願寺 (富山市) - 富山県富山市の地名。
万願寺 (おおい町) - 福井県大飯郡おおい町の地名。
万願寺 (米原市) - 滋賀県米原市の地名。
万願寺 (舞鶴市) - 京都府舞鶴市の地名。万願寺とうがらしで知られる。
大阪府八尾市の旧地名。東山本町を参照。
兵庫県加西市の地名。東光寺の田遊び・鬼会で知られる上万願寺町・下万願寺町からなる。
千葉県銚子市
以上のなかで有名なのが「万願寺とうがらし」です。しかもこの唐辛子は満願寺唐辛子とも書くのです。
これは万願寺と満願寺とは同じことだと暗示しているのです。
そこで全国に現存している満願寺を検索しました。各地に沢山あったのです。
試しに万願寺というお寺を検索しましたらありません。詳しく調査すれば存在しているのかも知れませんが非常に少ないと断定出来ます。
これから導ける結論は「満願寺」はお寺の名称として使用され、「万願寺」はその周辺の地名として使用されている漢字だということです。
満願には宗教的な意味がありますが、万願は満願の音訳で宗教的な意味はありません。
これで謎の一つは解けましたが仮説にある安養寺の前身が満願寺ではないかという疑問はまだ解けていません。
そこでhttps://ameblo.jp/suzuc-0706/entry-12288056475.html から安養寺由緒を転載いたします。
・・・安養寺は多摩川の近くに位置しています。将棋好きの言葉で「王手は日野の万願寺」と言いますが、その万願寺というお寺はなく、地名として残っているのみです。
「田村」というのは、かつての日野市下田のことですが、その名はこの辺りから起こり、居館を構えていた武蔵田村に由来しています。田村氏は日奉氏族西党の一氏で、知行地を有していました。田村駄太郎知實、その子の同三郎弘綱(平安時代後期〜鎌倉時代初期)等の末裔に、安養寺を開基したといわれる田村安栖がいます。
田村安栖は小田原城の御殿医で、小田原北条氏最期の場面に小田原の自邸を提供し、氏政、氏照兄弟が切腹場に当てた(1590年・天正18年7月11日)ことは「北条五代記」(小田原記)に詳しく書かれています。今でも小田原市の中央部に「安栖小路」の名が残っています。
安養寺の本堂(1690年頃・元禄時代初期)は田村氏の書院の一部を使い、建立されたと伝えられております。また、本堂北側に隣接する茅葺屋根の庫裏は本堂よりも古く、中興開山法印慶深の位牌に1606年・慶長11年11月22日没と刻していることから、その前後に建立されたものと思われます。黒光りする古い柱や床に残されている手斧の跡に、古館の結構を偲ぶことができます。
本堂に安置されている本尊阿弥陀仏如来坐像(都重宝)は、安養寺の前身である万願寺の本尊であったものと思われ、平安時代後期の作で端麗で細部の手法も見事です。また、藤原時代の毘沙門天像、鎌倉時代の大日如来立像等、多数の古仏も安置しております。
現在の本堂は、1983年・昭和58年に檀信徒をはじめ日野市並びに東京都のご協力により、改修復元工事を実施することができました。今日まで幾多の歴史的災害をのりこえてきたこれらの文化遺産を、私達は先人の例に習い、皆様と共に子々孫々に伝え護持していかなければならないと思います。・・・
この記述の筆者は地方の歴史に非常に精通した方で文章も客観的で適切です。従って「安養寺の前身である万願寺」はかなり可能性が大だと判断出来ます。
しかしその前身の萬願寺が存在していたとしても平安末期以前のことであります。その上文献に明記してないのです。すなはち確証が皆無なのです。
仮説、「安養寺の前身が満願寺であり、満願寺を書きやすい万願寺に変え、それが定着し周辺の地名になった」は今日の段階では証明が不可能です。
もし仮説が正しいのでしたら全国の万願寺という地名がある所には満願寺が存在している筈です。
京都府舞鶴市の万願寺という住所には現在も満願寺が存在しています。他の地方ではどうなのでしょうか?
今後少しずつ関連の歴史を調べて行きたいと思っています。
今日は歴史ミステリー、万願寺の謎にささやかに挑戦している私の知見を書いてみました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
立川市から多摩市の多摩動物園を結ぶ多摩モノレールの駅に「万願寺駅」があります。その駅の周辺の地名を昔から「万願寺」と云い、現在も町名番地に使われています。
しかしこの周辺に万願寺というお寺は無いのです。
日野市には万願寺というお寺は昔存在していたのでしょうか?
江戸時代の「新編武蔵風土記稿」(1828年)にも万願寺を探したが無かったと書かれいたのです。
江戸時代から万願寺がなかったことに関心が持たれていたのです。
しかし私は万願寺は存在していた可能性を探索するため、昨日、多摩モノレールの「万願寺駅」の写真と近くの唯一のお寺である田村山安養寺(真言宗智山派)の写真を撮って来ました。その写真をお送りします。
1番目の写真は多摩モノレールの「万願寺駅」の遠景です。
2番目の写真は「万願寺駅」と書かれたモノレールの駅の入り口の写真です。
3番目の写真は「万願寺駅」から500mほど西にある田村山安養寺の山門です。
4番目の写真は田村山安養寺の本堂です。
5番目の写真は安養寺の本堂の脇にある弘法大師のお像です。
さて私は一つの仮説を立ててそれに従って調べていきました。
仮説、「安養寺の前身が満願寺であり、満願寺を書きやすい万願寺に変え、それが定着し周辺の地名になった」
この仮説の真偽を検証するため、まず全国の地名で万願寺を使用している所を調べました。下記がその結果です。
万願寺 (由利本荘市) - 秋田県由利本荘市の地名。
万願寺 (日野市) - 東京都日野市の地名。多摩国南多摩郡万願寺村。田村山極楽院安養寺、万願寺駅などが置かれている。
万願寺 (富山市) - 富山県富山市の地名。
万願寺 (おおい町) - 福井県大飯郡おおい町の地名。
万願寺 (米原市) - 滋賀県米原市の地名。
万願寺 (舞鶴市) - 京都府舞鶴市の地名。万願寺とうがらしで知られる。
大阪府八尾市の旧地名。東山本町を参照。
兵庫県加西市の地名。東光寺の田遊び・鬼会で知られる上万願寺町・下万願寺町からなる。
千葉県銚子市
以上のなかで有名なのが「万願寺とうがらし」です。しかもこの唐辛子は満願寺唐辛子とも書くのです。
これは万願寺と満願寺とは同じことだと暗示しているのです。
そこで全国に現存している満願寺を検索しました。各地に沢山あったのです。
試しに万願寺というお寺を検索しましたらありません。詳しく調査すれば存在しているのかも知れませんが非常に少ないと断定出来ます。
これから導ける結論は「満願寺」はお寺の名称として使用され、「万願寺」はその周辺の地名として使用されている漢字だということです。
満願には宗教的な意味がありますが、万願は満願の音訳で宗教的な意味はありません。
これで謎の一つは解けましたが仮説にある安養寺の前身が満願寺ではないかという疑問はまだ解けていません。
そこでhttps://ameblo.jp/suzuc-0706/entry-12288056475.html から安養寺由緒を転載いたします。
・・・安養寺は多摩川の近くに位置しています。将棋好きの言葉で「王手は日野の万願寺」と言いますが、その万願寺というお寺はなく、地名として残っているのみです。
「田村」というのは、かつての日野市下田のことですが、その名はこの辺りから起こり、居館を構えていた武蔵田村に由来しています。田村氏は日奉氏族西党の一氏で、知行地を有していました。田村駄太郎知實、その子の同三郎弘綱(平安時代後期〜鎌倉時代初期)等の末裔に、安養寺を開基したといわれる田村安栖がいます。
田村安栖は小田原城の御殿医で、小田原北条氏最期の場面に小田原の自邸を提供し、氏政、氏照兄弟が切腹場に当てた(1590年・天正18年7月11日)ことは「北条五代記」(小田原記)に詳しく書かれています。今でも小田原市の中央部に「安栖小路」の名が残っています。
安養寺の本堂(1690年頃・元禄時代初期)は田村氏の書院の一部を使い、建立されたと伝えられております。また、本堂北側に隣接する茅葺屋根の庫裏は本堂よりも古く、中興開山法印慶深の位牌に1606年・慶長11年11月22日没と刻していることから、その前後に建立されたものと思われます。黒光りする古い柱や床に残されている手斧の跡に、古館の結構を偲ぶことができます。
本堂に安置されている本尊阿弥陀仏如来坐像(都重宝)は、安養寺の前身である万願寺の本尊であったものと思われ、平安時代後期の作で端麗で細部の手法も見事です。また、藤原時代の毘沙門天像、鎌倉時代の大日如来立像等、多数の古仏も安置しております。
現在の本堂は、1983年・昭和58年に檀信徒をはじめ日野市並びに東京都のご協力により、改修復元工事を実施することができました。今日まで幾多の歴史的災害をのりこえてきたこれらの文化遺産を、私達は先人の例に習い、皆様と共に子々孫々に伝え護持していかなければならないと思います。・・・
この記述の筆者は地方の歴史に非常に精通した方で文章も客観的で適切です。従って「安養寺の前身である万願寺」はかなり可能性が大だと判断出来ます。
しかしその前身の萬願寺が存在していたとしても平安末期以前のことであります。その上文献に明記してないのです。すなはち確証が皆無なのです。
仮説、「安養寺の前身が満願寺であり、満願寺を書きやすい万願寺に変え、それが定着し周辺の地名になった」は今日の段階では証明が不可能です。
もし仮説が正しいのでしたら全国の万願寺という地名がある所には満願寺が存在している筈です。
京都府舞鶴市の万願寺という住所には現在も満願寺が存在しています。他の地方ではどうなのでしょうか?
今後少しずつ関連の歴史を調べて行きたいと思っています。
今日は歴史ミステリー、万願寺の謎にささやかに挑戦している私の知見を書いてみました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)