1929年12月2日、中国の考古学者 裴文中が北京原人の完全な頭蓋骨を発見します。そして合計十数人分の原人の骨を発掘したのです。
この北京原人は我々の祖先の現生人類ではなく絶滅種でした。
現生人類のホモ・サピエンスは20万年前から10万年前にかけてアフリカで進化したのち、6万年前にアフリカを離れて長い歳月を経て世界各地へ広がったのです。先住の北京原人やアンデルタール人が絶滅した後をついだのです。
日本には約4万年前から人間が住んでいたと考えられます。その頃はまだ土器も土鍋も無い石器だけの生活でした。この時代を無土器、旧石器時代と言います。
その一方中国には北京原人が68~78万年前から住んでいました。この北京原人も土器も土鍋も無い石器だけの生活でした。旧石器時代だったのです。北京と陸続きの朝鮮半島にも当然数十万年前から人間が住んでいたと考えられます。
今日は昨日の記事「日本の2万年前の無土器、旧石器時代の生活の実態は?」の続きをお送りします。
日本の旧石器時代の人々がどのような生活をしていたかを写真でご紹介いたします。なお新石器時代とは土器と石器を併用していた時代で日本では縄文時代と言います。
神奈川県の相模原市の田名向原には旧石器時代の人間の生活の様子を絵にした展示が何枚もあります。
田名向原では2万年前の旧石器時代の住居跡と3000個の精巧な石器の他に5000年前の縄文時代の住居跡、そして1400年前の13基以上の古墳が発見されているのです。
私は展示館にある絵画を写真に撮りました。以下にその写真を示します。
1番目の写真は旧石器時代の女性が木の実を採集している様子を示しています。
2番目の写真は旧石器時代の数人の男性が石器の穂先をつけた槍で大ツノシカを倒している様子を示しています。
3番目の写真葉は旧石器時代の狩人の姿です。槍の先には黒曜石で出来た鋭利な穂先がついています。黒曜石は長野県の和田峠や伊豆七島の神津島でとれ全国に流通していたのです。
4番目の写真は2人の男が小屋の前で石器を作っている様子です。小屋の屋根は獣皮で葺いています。これは裕福な家で、普通は木の枝葉や茅で屋根を葺いていました。
5番目の写真は旧石器時代に日本に棲んでいた動物を示しています。発掘された動物の骨から大ツノシカとイノシシがよく食べられていたことが分かっています。
これらの写真を見ると日本の約2万年前の生活の実態が少しだけ分かります。
ここで強調したいことは焚火があったが土器が一切無かった事実です。採集や狩猟て得た食料は焼いて食べるしか仕方が仕方が無かったのです。焚火の中に立てて煮る土器の鍋が皆無だったのです。土鍋で蒸したり炒めたりして料理することが不可能だったのです。
これでは採集や狩猟て得たもののアクを抜き柔らかく煮て食べることが出来なかったのです。
ですから無土器の旧石器時代の人々は度々飢饉になったと考えられています。
この苦難を救ったのが焚火の中に立て煮る土器の鍋でした。蒸したり炒めたりして料理出来るようになったのです。これこそ古代の人間にとって革命的な出来事でした。その後、日本の人口が増えて行ったのです。
そして石製の刃先をつけた鍬や農機具は石臼と共に縄文時代、弥生時代、古墳時代になっても地方ではほとんど変わらなかったのです。
支配階級の生活は時代が進むと中国文化の導入によって大きく変わって華美になりました。
しかし地方の農民は掘っ立て小屋に住み、土器や木製や石器の農具をも相変わらず使っていたのです。
青銅器や鉄の道具は高価過ぎて支配階級しか使えなかったのです。
農民の生活を考えると時代が変わってもあまり大きな変化が無いと理解するのが自然ではないでしょうか?
石器は安価で簡単に作られる道具だったのです。
学校で教える日本の歴史は豪族や朝廷や権力者の様子を伝えています。
一般の人々の生活の実態は教えません。
今日は日本に2万年前、初めて住み着いた人々の生活の様子を写真で間単にご紹介しました。
北京原人の時代に比べると68~78万年も後のことなのです。日本には北京原人は移住しなかったのです。
日本が海に囲まれている事実の重さをあらてめて考えさせられます。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料:関連記事の紹介============
(1)http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama の2013年1月と2012年12月に次の関連した記事が掲載してあります。
「相模川中流は考古学的史跡の宝庫・・・3層、4層と住居跡や古墳が集中」
「日本の旧石器時代・その悠久の歴史(1)2万年前の住居の発見」
「私の郷土史(2)旧石器時代から江戸時代までの小平市鈴木町の変遷」
「所沢市砂川遺跡と岩宿遺跡から出た旧石器時代の石器の写真と日本の旧石器時代」
(2)はさみやま遺跡:
はさみ山遺跡は、大阪府南東部の藤井寺市の藤井寺公団・野中・藤ケ丘一帯に広がっており、羽曳野丘陵の裾野に広がる段丘に立地する。遺跡およびその周囲は、全体が緩やかな傾斜地となっている。この遺跡は、1974年(昭和49年)、大阪外環状線建設の際に新たに発見されたものである。以後、大阪府教育委員会や藤井寺市教育委員会による調査が続いてきた。
後期旧石器時代の住居跡:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%81%95%E3%81%BF%E5%B1%B1%E9%81%BA%E8%B7%A1
1986年(昭和61年)のはさみ山遺跡の発掘調査により、後期旧石器時代(3万年 - 1万3000年前)の住居の構造が明らかになった。住居跡は、深さ約30cmの半地下式(竪穴住居)で、そのくぼ地の周囲には1.0 - 1.7mの間隔をおいて直径14 - 22cmの柱穴が7個あり、その外側には浅い溝がめぐらされていた。住居の範囲は、東西直径約6メートル、南北径5メートル、深さ0.3メートルに渡り、その形状は楕円形、柱は合計13本であったと推定されている。なお、柱穴は円をなして並び、各柱穴がその円の中心に向かって斜めに掘られており、これに木を差し込むと上方でその中心に集まる角度になっていた。すなわち、直径約6mの円錐形の竪穴住居が復元できる。遺物としては、紀元前2万年頃のナイフ形石器、翼状剥片、石核等が出土した。
なお、住居跡とは沢をはさんだ東側から径270cm×160cmの楕円形状の土坑が見つかっている。これは墓(土坑墓)ではないかと推定されている。
この北京原人は我々の祖先の現生人類ではなく絶滅種でした。
現生人類のホモ・サピエンスは20万年前から10万年前にかけてアフリカで進化したのち、6万年前にアフリカを離れて長い歳月を経て世界各地へ広がったのです。先住の北京原人やアンデルタール人が絶滅した後をついだのです。
日本には約4万年前から人間が住んでいたと考えられます。その頃はまだ土器も土鍋も無い石器だけの生活でした。この時代を無土器、旧石器時代と言います。
その一方中国には北京原人が68~78万年前から住んでいました。この北京原人も土器も土鍋も無い石器だけの生活でした。旧石器時代だったのです。北京と陸続きの朝鮮半島にも当然数十万年前から人間が住んでいたと考えられます。
今日は昨日の記事「日本の2万年前の無土器、旧石器時代の生活の実態は?」の続きをお送りします。
日本の旧石器時代の人々がどのような生活をしていたかを写真でご紹介いたします。なお新石器時代とは土器と石器を併用していた時代で日本では縄文時代と言います。
神奈川県の相模原市の田名向原には旧石器時代の人間の生活の様子を絵にした展示が何枚もあります。
田名向原では2万年前の旧石器時代の住居跡と3000個の精巧な石器の他に5000年前の縄文時代の住居跡、そして1400年前の13基以上の古墳が発見されているのです。
私は展示館にある絵画を写真に撮りました。以下にその写真を示します。
1番目の写真は旧石器時代の女性が木の実を採集している様子を示しています。
2番目の写真は旧石器時代の数人の男性が石器の穂先をつけた槍で大ツノシカを倒している様子を示しています。
3番目の写真葉は旧石器時代の狩人の姿です。槍の先には黒曜石で出来た鋭利な穂先がついています。黒曜石は長野県の和田峠や伊豆七島の神津島でとれ全国に流通していたのです。
4番目の写真は2人の男が小屋の前で石器を作っている様子です。小屋の屋根は獣皮で葺いています。これは裕福な家で、普通は木の枝葉や茅で屋根を葺いていました。
5番目の写真は旧石器時代に日本に棲んでいた動物を示しています。発掘された動物の骨から大ツノシカとイノシシがよく食べられていたことが分かっています。
これらの写真を見ると日本の約2万年前の生活の実態が少しだけ分かります。
ここで強調したいことは焚火があったが土器が一切無かった事実です。採集や狩猟て得た食料は焼いて食べるしか仕方が仕方が無かったのです。焚火の中に立てて煮る土器の鍋が皆無だったのです。土鍋で蒸したり炒めたりして料理することが不可能だったのです。
これでは採集や狩猟て得たもののアクを抜き柔らかく煮て食べることが出来なかったのです。
ですから無土器の旧石器時代の人々は度々飢饉になったと考えられています。
この苦難を救ったのが焚火の中に立て煮る土器の鍋でした。蒸したり炒めたりして料理出来るようになったのです。これこそ古代の人間にとって革命的な出来事でした。その後、日本の人口が増えて行ったのです。
そして石製の刃先をつけた鍬や農機具は石臼と共に縄文時代、弥生時代、古墳時代になっても地方ではほとんど変わらなかったのです。
支配階級の生活は時代が進むと中国文化の導入によって大きく変わって華美になりました。
しかし地方の農民は掘っ立て小屋に住み、土器や木製や石器の農具をも相変わらず使っていたのです。
青銅器や鉄の道具は高価過ぎて支配階級しか使えなかったのです。
農民の生活を考えると時代が変わってもあまり大きな変化が無いと理解するのが自然ではないでしょうか?
石器は安価で簡単に作られる道具だったのです。
学校で教える日本の歴史は豪族や朝廷や権力者の様子を伝えています。
一般の人々の生活の実態は教えません。
今日は日本に2万年前、初めて住み着いた人々の生活の様子を写真で間単にご紹介しました。
北京原人の時代に比べると68~78万年も後のことなのです。日本には北京原人は移住しなかったのです。
日本が海に囲まれている事実の重さをあらてめて考えさせられます。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料:関連記事の紹介============
(1)http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama の2013年1月と2012年12月に次の関連した記事が掲載してあります。
「相模川中流は考古学的史跡の宝庫・・・3層、4層と住居跡や古墳が集中」
「日本の旧石器時代・その悠久の歴史(1)2万年前の住居の発見」
「私の郷土史(2)旧石器時代から江戸時代までの小平市鈴木町の変遷」
「所沢市砂川遺跡と岩宿遺跡から出た旧石器時代の石器の写真と日本の旧石器時代」
(2)はさみやま遺跡:
はさみ山遺跡は、大阪府南東部の藤井寺市の藤井寺公団・野中・藤ケ丘一帯に広がっており、羽曳野丘陵の裾野に広がる段丘に立地する。遺跡およびその周囲は、全体が緩やかな傾斜地となっている。この遺跡は、1974年(昭和49年)、大阪外環状線建設の際に新たに発見されたものである。以後、大阪府教育委員会や藤井寺市教育委員会による調査が続いてきた。
後期旧石器時代の住居跡:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%81%95%E3%81%BF%E5%B1%B1%E9%81%BA%E8%B7%A1
1986年(昭和61年)のはさみ山遺跡の発掘調査により、後期旧石器時代(3万年 - 1万3000年前)の住居の構造が明らかになった。住居跡は、深さ約30cmの半地下式(竪穴住居)で、そのくぼ地の周囲には1.0 - 1.7mの間隔をおいて直径14 - 22cmの柱穴が7個あり、その外側には浅い溝がめぐらされていた。住居の範囲は、東西直径約6メートル、南北径5メートル、深さ0.3メートルに渡り、その形状は楕円形、柱は合計13本であったと推定されている。なお、柱穴は円をなして並び、各柱穴がその円の中心に向かって斜めに掘られており、これに木を差し込むと上方でその中心に集まる角度になっていた。すなわち、直径約6mの円錐形の竪穴住居が復元できる。遺物としては、紀元前2万年頃のナイフ形石器、翼状剥片、石核等が出土した。
なお、住居跡とは沢をはさんだ東側から径270cm×160cmの楕円形状の土坑が見つかっている。これは墓(土坑墓)ではないかと推定されている。