十年位以前に仙台の中学校の同期会がありました。卒業後62年目の会でした。同期生300余人のうち、すでに70名以上の人が旅立っていました。
新幹線で仙台駅におりたった私は大町を通り抜けて、一番丁で右折し、三越のそばの会場まで歩いて行きました。昔のことを思い出しながらゆっくり歩いていきました。
仙台での一番の繁華街なので昔あった店を探しながら行ったのです。しかし存続していたのはたった2軒です。メガネの相沢と井ケ田茶店だけです。あとは見知らぬ店々がえんえんと続いているのです。
そしてメガネの相沢に店員として働いていた水元君のことを思い出したのです。水元君は南米へ移民してしまった友人でした。
水元君は評定河原橋のそばに母一人、子一人で住んで居た色白のやさしい子供でした。生活が苦しいので南米に移民するという夢を何度も話していました。
メガネの相沢に3年間ほど働いた後、水元君はさよならも言わずに居なくなったのです。ブラジルかアルゼンチンに行ったと信じています。それにしても、もう2度と会えないと思います。
その水元君の家のあったお霊屋下に住んでいた萩生田啓一君もあの世へ旅立ってしまいました。特に彼の家には優しい母親がいつも居たのでつい何度も遊びに行きました。中学、高校、大学と通して10年くらいも遊びに行ったのです。彼の家は自分の家のような感じになっていたのです。近所の子供達ともよく一緒に遊んだものです。萩生田君は大学を卒業すると七十七銀行に入り一生そこで働いた真面目な男でした。銀行に入ってからも何度も会いました。そしてニコニコ笑いながら、「お金はある所には沢山あるのだよ」と話していたのが忘れられません。もう彼とは2度と会えません。
その同じお霊屋下に本間君という金持ちの家の子がいました。大柄ですが気の弱い優しい性格の子でした。彼の家には小学校の時よく遊びに行き、広い屋敷の中の樹木に登って遊んだものです。終戦直後に、プロ野球の若林忠夫選手が彼の家に寄寓していて、小学校の校庭で野球を教えてもらったこともありました。
本間君とはその後会っていませんが、中年の頃、事業に失敗して自殺したという噂を聞きました。彼の気の弱さがよくなかったのかと悲しい思いをしました。
そのお霊下には満州から引き揚げて来た羽田君も住んでいました。でもすぐに何処かへ行ってしまったのです。
それから大人のように分別のある三浦君もそのお霊下に住んでいました。しかし三浦君とは長い間会っていません。賢い子でした。
優等生の鈴木壽君もお霊下に住んでいました。彼とは以前の同期会で61年ぶりに会いました。感無量でした。
仙台駅から名掛町、大町、東一番丁とゆっくり歩きながら私は過ぎ去った小学校や中学校の頃の友人のことを思い出していました。
懐かしいその少年たちはみんな旅立ったり、はるか遠くに行ってしまってもう二度と会えないのです。仙台の町もすっかり変わってしまって私のふるさとではなくなりました。寂寥感が急に身に沁みます。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
下に2011年の秋に撮った仙台の風景写真をお送りします。

1番目の写真はは伊達正宗の青葉城から見た仙台市の中心街です。昔は白いビルが一切ありませんでした。それは貧しげな街だったのです。

2番目の写真は青葉城の東にある伊達正宗の霊廟のある経ケ峰という山です。この山の左下に広がる住宅地をお霊屋下(おたまやした)という地名になっているのです。

3番目の写真はお霊屋下と評定河原を結ぶ橋の上から広瀬川と青葉城を見た風景です。
真ん中に見えるテレビ塔の右側が青葉城のあった城跡です。広瀬川の左の森が伊達正宗の霊廟のある経ケ峰です。右の白い建物の見える場所は戦前に市立動物園のあった所です。戦後、白い公立アパートが建ちました。それが写真に写っている白い建物です。余談ながら見合いをした家内が住んでいました。東京から単身赴任した父と住んでいました。それも運命でした。