後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「初夏の花5種の写真をお楽しみ下さい」

2024年06月05日 | 写真
初夏の花5種の写真をぉ送り致します。お楽しみ下さい。
写真の出典は、https://greensnap.jp/article/7824 です。
1番目の写真はガクアジサイ(額紫陽花)です。
アジサイ科アジサイ属のガクアジサイ。その名の通りアジサイの仲間ですが、アジサイ(ハイドランジア)やアナベルとは異なり、特徴的な花を咲かせます。

2番目の写真はダリアです。
白、黄、オレンジ、赤、ピンク、紫、複色など色とりどりの花が魅力のダリア。品種により、大・中・小と花の大きさも様々です。

3番目の写真は,トケイソウ(時計草)です。
時計の文字盤に似た花が特徴的なトケイソウ。白、黄、赤、ピンク、紫色の花を咲かせる熱帯植物です。

4番目の写真はアスターです。
お盆の頃に開花し、夏の花のイメージが強いアスター。素朴な花姿と白、赤、ピンク、青、紫など、カラフルな色あいが人気の花です。
5番目の写真はリコリスです。
ヒガンバナの仲間であるリコリス。秋のイメージが強いヒガンバナに対し、リコリスは品種により、夏~秋にかけて花を咲かせます。

「友人たちが先に旅立つ、仙台の愛宕中学校の亡くなった友人たち」

2024年06月05日 | 日記・エッセイ・コラム

2012年10月に仙台市愛宕中学校の第二回生の同窓会が秋保温泉でありました。私は卒業以来61年目に初めて仙台の同窓会に出席しました。

若くして仙台を出てアメリカへ留学した私はそれ以来61年間仙台の中学校の同窓会へは不義理を重ねてきました。
今回をもって最後にしますという案内状に誘われて出席しました。61年目に再会した懐かしい友人が皆笑顔で迎えてくれたのです。
その折に幹事が配った名簿に物故者の名簿がありました。
その中に一緒に遊んだ友だちが数人もいたのです。亡くなったことも知らなかった私をお許し下さい。
内海範夫君。君は長身で知的な少年でした。今回の大津波で流された宮城県の名取市の閖上港町から汽車通学していたので心配していました。同窓会に出ていた友人に君の事を聞きました。石巻日赤病院に医者として定年まで勤めていたそうですね。定年後、実家のあった閖上港町に帰って暫くして病気で亡くなったそうですね。ですから大津波が来る前だったのです。幸いだったのかも知れませんが何故か悲しいです。
有路敏夫君。君の家は愛宕神社の山の中腹にありました。何度も遊びに行きましたね。君は小柄な体に機敏そうな顔をしていました。よく走り回って遊んでいましたね。勉強は苦手だったようですがいつも数多くの友人が君の周りにいました。友達のめんどう見が良かったですね。何故か君のパーソナリティーが魅力的だったのです。今回の同窓会で多くの人が君の事を懐かしそうに話してくれました。
我孫子遜君。美声でよくイタリア歌曲を歌って聞かせてくれましたね。満州からの引き揚げで、都会的な雰囲気をまき散らしていましたね。
大学を卒業してからすぐに東京で一緒に飲みましたが、その後、君が証券会社で忙しくなり会えなくなりました。そして若くして病死したのです。その頃のことをよく知っている友人が同窓会で君の華やかな活躍ぶりを話してくれました。それにしても若すぎる死でした。君は実に印象深い人でした。
早坂清作君。君は喧嘩が強かったですね。その君が何時も非力な私を守ってくれましたね。どういう訳か君は僕の保護者のようになってくれていました。貧しい時代で、世の中は殺伐としていました。学校でも喧嘩が絶えませんでした。現在のよう陰湿ないじめはありませんでしたが鉄拳がものを言う時代でした。
そんな学校で喧嘩の強い君が守ってくれたおかげで大変心強かったです。そのお礼を何時か言おうと思いつつ今回同窓会へ行ったのです。でも君は既に旅立ってしまっていたのです。
早坂清作君、私を守ってくれて有り難う。そのことは一生忘れないよ。
その他いろいろ追悼したい友だちが沢山いますが、この辺で止めます。
 
今日は既に亡くなってしまった愛宕中学二回生のご冥福をお祈り致します。
どうぞこの私の長い間の不義理をお許し下さい。
1番目の写真は愛宕橋の上から広瀬川の下流を見た風景です。はるか向こうに宮沢橋が見えています。
 
そして2012年の10月14日に秋保温泉で一泊の同窓会があったのです。そして皆、77歳の喜寿になったので、今回をもって最後の同窓会にするというのです。
幹事長は懐かしい杉下成美君です。61年間会っていませんが、野球やバレーボールが上手だった彼の顔を鮮明に記憶しています。
私はこの61年目で、最後の同窓会に出席してきました。
2番目の写真は2012年の10月14日に秋保温泉で一泊の同窓会の出席者です。
 
 

「友人たちが先に旅立つ、今は亡き萩生田君などの思い出」

2024年06月05日 | 日記・エッセイ・コラム

十年位以前に仙台の中学校の同期会がありました。卒業後62年目の会でした。同期生300余人のうち、すでに70名以上の人が旅立っていました。

新幹線で仙台駅におりたった私は大町を通り抜けて、一番丁で右折し、三越のそばの会場まで歩いて行きました。昔のことを思い出しながらゆっくり歩いていきました。

仙台での一番の繁華街なので昔あった店を探しながら行ったのです。しかし存続していたのはたった2軒です。メガネの相沢と井ケ田茶店だけです。あとは見知らぬ店々がえんえんと続いているのです。

そしてメガネの相沢に店員として働いていた水元君のことを思い出したのです。水元君は南米へ移民してしまった友人でした。

水元君は評定河原橋のそばに母一人、子一人で住んで居た色白のやさしい子供でした。生活が苦しいので南米に移民するという夢を何度も話していました。

メガネの相沢に3年間ほど働いた後、水元君はさよならも言わずに居なくなったのです。ブラジルかアルゼンチンに行ったと信じています。それにしても、もう2度と会えないと思います。

その水元君の家のあったお霊屋下に住んでいた萩生田啓一君もあの世へ旅立ってしまいました。特に彼の家には優しい母親がいつも居たのでつい何度も遊びに行きました。中学、高校、大学と通して10年くらいも遊びに行ったのです。彼の家は自分の家のような感じになっていたのです。近所の子供達ともよく一緒に遊んだものです。萩生田君は大学を卒業すると七十七銀行に入り一生そこで働いた真面目な男でした。銀行に入ってからも何度も会いました。そしてニコニコ笑いながら、「お金はある所には沢山あるのだよ」と話していたのが忘れられません。もう彼とは2度と会えません。

その同じお霊屋下に本間君という金持ちの家の子がいました。大柄ですが気の弱い優しい性格の子でした。彼の家には小学校の時よく遊びに行き、広い屋敷の中の樹木に登って遊んだものです。終戦直後に、プロ野球の若林忠夫選手が彼の家に寄寓していて、小学校の校庭で野球を教えてもらったこともありました。

本間君とはその後会っていませんが、中年の頃、事業に失敗して自殺したという噂を聞きました。彼の気の弱さがよくなかったのかと悲しい思いをしました。

そのお霊下には満州から引き揚げて来た羽田君も住んでいました。でもすぐに何処かへ行ってしまったのです。

それから大人のように分別のある三浦君もそのお霊下に住んでいました。しかし三浦君とは長い間会っていません。賢い子でした。

優等生の鈴木壽君もお霊下に住んでいました。彼とは以前の同期会で61年ぶりに会いました。感無量でした。

仙台駅から名掛町、大町、東一番丁とゆっくり歩きながら私は過ぎ去った小学校や中学校の頃の友人のことを思い出していました。

懐かしいその少年たちはみんな旅立ったり、はるか遠くに行ってしまってもう二度と会えないのです。仙台の町もすっかり変わってしまって私のふるさとではなくなりました。寂寥感が急に身に沁みます。

 

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

下に2011年の秋に撮った仙台の風景写真をお送りします。

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1番目の写真はは伊達正宗の青葉城から見た仙台市の中心街です。昔は白いビルが一切ありませんでした。それは貧しげな街だったのです。

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2番目の写真は青葉城の東にある伊達正宗の霊廟のある経ケ峰という山です。この山の左下に広がる住宅地をお霊屋下(おたまやした)という地名になっているのです。

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3番目の写真はお霊屋下と評定河原を結ぶ橋の上から広瀬川と青葉城を見た風景です。

真ん中に見えるテレビ塔の右側が青葉城のあった城跡です。広瀬川の左の森が伊達正宗の霊廟のある経ケ峰です。右の白い建物の見える場所は戦前に市立動物園のあった所です。戦後、白い公立アパートが建ちました。それが写真に写っている白い建物です。余談ながら見合いをした家内が住んでいました。東京から単身赴任した父と住んでいました。それも運命でした。