後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「開戦早々にイギリスのプリンス・オブ・ウェールズも沈没」

2024年06月06日 | 写真

1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃と同時にマレー沖でイギリスのプリンス・オブ・ウェールズも日本空軍の攻撃で沈没しました。12月10日でした。帆足正音予備少尉が指揮する九六陸攻(元山空、索敵)がイギリスのZ部隊を発見して通報した。同機の誘導により、まず美幌空の九六式陸攻8機が水平爆撃を敢行し、レパルスに爆弾1発が命中して小破した。続いて元山空の九六式陸攻の雷撃がはじまる。第2波空襲開始早々、プリンス・オブ・ウェールズに魚雷2本が命中したのです。ウェールズでは13時15分に総員退去が命じられ、13時20分に転覆、沈没したのです。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E6%B2%96%E6%B5%B7%E6%88%A6 です。

1番目の写真はシンガポールに到着したプリンス・オブ・ウェールズです。

2番目の写真は「プリンス・オブ・ウェールズ」から乗員を移乗させる駆逐艦「エクスプレス」です。

3番目の写真は日本軍航空部隊の攻撃を受ける英海軍のプリンス・オブ・ウェールズ(右上)とレパルスです。

4番目の写真は攻撃にさらされる英艦隊(Z部隊)。巧みな機動で爆撃を回避するレパルスと逆に集中攻撃を受けるプリンス・オブ・ウェールズです。

 


「夏が来ると思い出す戦争(2)真珠湾攻撃とその他燃えるアメリカ艦艇の写真」

2024年06月06日 | 写真
人間の心に悪魔が住みつくと戦争を始めます。戦争は悪魔の仕業です。狂気の沙汰です。
1941年12月8日の日本軍による真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争も狂気の沙汰です。
1番目の写真は1941年12月8日の真珠湾攻撃で炎上するアメリカの太平洋艦隊です。
2番目の写真は1945年1月1日、リンガエン湾に向けて航行中にスールー海で神風特攻隊旭日隊の特攻を受け炎上する護衛空母オマニー・ベイです。この後に沈没しました。 
3番目の写真は1945年6月10日、特攻機が至近弾となって大きく傾いた駆逐艦ウィリアム・D・ポーター(en:USS William D. Porter (DD-579))です。復旧作業も実らずこの後に横転し沈没しました。 
4番目の写真は1944年10月30日神風特攻隊葉桜隊の零戦1機の特攻を受け艦載機が次々と炎上している軽空母ベローウッドです。奥は同じく特攻で炎上する正規空母フランクリンです。
特攻機は沖縄戦だけで艦船36隻沈没、破壊368隻、航空機損失800機の損害を与えたのです。
 
今日は太平洋戦争の悲劇を写真で示しました。日本人が忘れてはいけない写真だと思います。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「夏が来ると思い出す戦争(1)焦土の日本とB29の搭乗員」

2024年06月06日 | 日記・エッセイ・コラム

戦前の昭和11年に生まれた私は毎年、夏が来ると太平洋戦争のことをいろいろと思い出します。
太平洋戦争は日本民族の歴史において空前絶後の大事件でした。日本人が310万人死に、中国人は1000万人、アメリカ人も40万人も死んだのです。
朝鮮の人は軍人が22万人、一般人が2万人死亡しました。台湾人は軍人が18万人、一般人が3万人死亡しました。

今日は日本の200の都市が焦土になった写真を示します。そしてB29の搭乗員として何度も空襲に来たアメリカ空軍の大佐と戦後に親友になった話を書きます。
戦争の虚しさと不条理を考えさせます。あれから79年経過しましたが戦争の悲劇の大きさにますます心が痛みます。

米国空軍のB29爆撃機による無差別絨毯爆撃はすさまじいものでした。
1945年7月10日、仙台市はB29による焼夷弾攻撃で一夜にして焼野原になってしまったのです。
当時はまだ少年だった私は家のあった向山の高台から一面の紅蓮の炎を見下ろしていました。
空には銀色の機体のB29が編隊を組んで縦横無尽に飛びながら束になった焼夷弾をばらまいていました。100機ほどのB29が来襲したそうです。
夜が明けてから市街地の焼け跡を見におりて行きました。まだ煙が立っていて異臭が鼻を突きます。見回すとあちこちに焼けた死体がころがっています。
その日は一日中、崖下の広瀬川の川原で死体を焼く焚火が絶えませんでした。
幸い私の家の周囲の野山には焼夷弾が数本落ちましたが家を直撃しなかったので焼け残りました。

1番目の写真は焼野原になった仙台市の街の様子です。1945年7月10日の仙台大空襲の後、仙台駅から南町通りの向こうの西公園方面の光景です。
このように焼き尽くされたのは仙台市だけでなく全国の都市が徹底的にやられたのです。
空襲は1945年(昭和20年)8月15日の終戦当日まで続き、全国(内地)で200以上の都市が被災し、死者は33万人、負傷者は43万人、被災人口は970万人に及んだのです。
東京の空襲後の光景は石川光陽氏によって克明に撮影されています。
その一部は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2 と http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E9%99%BD に掲載されています。そこからお借りした写真を以下に示します。

2番目の写真は空襲の直後の東京の街の風景です。まだあちこちから煙が立っています。生き残った人々が歩いている様子が痛々しいです。

3番目の写真は空襲後、何日かたってからの街の様子です。自分の家が焼け落ちているのを見た人が落胆して座り込んでいるのでしょうか?そんなことを想像させる写真です。

4番目の写真は空襲後、しばらくしての写真です。焼け残った電車が駅に停まっています。気持ちを取り戻した人々が駅に出入りしています。

5番目の写真は一面に焼け野原になった東京の下町の風景です。右手に隅田川が写っています。

6番目の写真は焼けた乗用車です。トランクに一酸化炭素を発生させる木炭釜が積んであります。この釜で木炭を燃やして一酸化炭素ガスを作り、エンジンへ送り走っていたのです。私も戦争中に後ろに大きな木炭釜を積んだバスに何度も乗りました。
登り坂に来ると乗客が下りて、バスの後ろを押すのです。

さて空襲で焦土と化した都市は200におよびました。
昭和21年10月9日に内閣総理大臣の吉田茂は次のような都市が焼け野原になったと発表します。
根室市、釧路市、函館市、本別町、青森市、釜石市,宮古市,盛岡市,花巻市、仙台市,塩竈市 、郡山市,平市 、東京都の区の存ずる区域,八王子市 、横浜市,川崎市,平塚市,小田原市、千葉市,銚子市 、熊谷市 、水戸市,日立市,高萩町,多賀町,豊浦町 、宇都宮市,鹿沼町、前橋市,高崎市,伊勢崎市、長岡市、甲府市。
名古屋市,豊橋市,岡崎市,一宮市 、静岡市,浜松市,清水市,沼津市、岐阜市,大垣市、津市,四日市市,桑名市,宇治山田市 、富山市、大阪市,堺市,布施市 、神戸市,西宮市,姫路市,明石市,尼崎市,魚崎町,鳴尾村,本山村,住吉村,本庄村、和歌山市,海南市,田辺市,新宮市,勝浦町、福井市,敦賀市 、広島市,呉市,福山市 、岡山市、下関市,宇根氏,徳山市,岩国市、堺町、高松市 、
徳島市 、松山市,宇和島市,宇治市 、高知市、福岡市,門司市,八幡市,大牟田市,久留米市、長崎市,佐世保市 、熊本市,荒尾市,水俣町,宇土町 、大分市 、宮崎市,延岡市,都城市,高鍋町,油津町 、鹿児島市,川内市,串木野町,阿久根町,加治木町,枕崎町,山川町,垂水町,東市来町,西ノ表町 (沖縄は当時、アメリカ領だったので含まれていません)

この徹底的な空襲と2度の原爆投下の後やっと日本は降伏しました。沖縄戦で惨敗した6月に日本が降伏していたら原爆投下も無かったのです。全国の数多くの都市が焦土に化すことも無かったのです。徹底抗戦を主張した陸軍幹部の大きな過ちでした。

終戦後15年経過して1960年に私はアメリカのオハイオ州立大学へ留学しました。
その時、クラスメイトに14歳年上のオートンさんという空軍大佐がいました。
オートンさんはB29爆撃機を操縦して日本へ何度も飛んできて焼夷弾を落とした男です。
どういう訳かオートンさんとは親友になり彼が死ぬまで交友が続きました。
大きな体、坊主頭、赤ら顔のカウボーイのような男でした。面倒見のよい人で、英語のできない私にノートを見せてくれ、何度も家に招待してくれました。当時、彼は空軍大佐でしたが、引退後は大学の先生になろうと博士課程に進んでいました。
なぜ日本人の私の面倒をそんなに本気でみるのか、かなり親しくなってから聞いたことがあります。「俺は東京へB29で何十回も空襲に行ったよ。それでなんとなく日本人に親近感ができてしまったのかも…」と言葉を濁します。そしてその後、彼はその話を二度としませんでした。

1988年、私はオランダの出版社から初めて英語で専門書を出版することになりました。その時、原稿を逐一訂正してくれたのがオートンさんです。
オートン氏のことを思い出すと、1945年7月、少年であった私の目の前で一面火の海になった仙台の町々と、空襲の大火に映しだされるB29の白い機体のゆっくりした動きを思い出します。憎しみも悲しみもない走馬灯のように。
オートン氏は2006年の末に亡くなりました。花束を贈り、遠くから冥福を祈るだけです。オートンさんの終生変わらなかった友情を思い出すたびに戦争の不条理が身に沁みます。戦争は人間を悪魔にするのです。アメリカ人も日本人も同じく悪魔にするのです。それをオートンさんも知っていたのでしょう。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)