我が故郷、仙台を何時も懐かしく想っています。
昭和11年に生まれ、昭和35年に仙台を出るまで24年間住んでいた町です。
2年程前に車で訪れてから行っていません。その旅を最近よく思い出しています。
そこで今日はその旅で撮った懐かしい仙台の風景写真をお送りしたいと思います。
旅は東京外環道路から始まりました。川口JCで東北自動車道路に入り、北へ北へとひたすら走ります。約350Kmを5時間半で到着しました。
仙台ではホテルに2泊しました。まず老人ホームにいる96歳の叔母を訪ねました。
2人の弟が仙台在住でそれぞれ夫婦とも健在です。私共夫婦と6人で両親の墓、母方の祖父母の墓、叔父の墓をお参りしました。お寺の住職をしている次男がそれぞれのお墓に般若心経と大悲心陀羅尼というお経をあげました。久しぶりに6人そろっての昼食会は大変愉快でした。
2日目の午後に懐かしい場所を巡りました。仙台で通っていた学校を見に行ったり、昔住んでいた場所を見に行ったのです。
写真にしたがってご説明いたします。
1番目の写真は昭和17年から23年まで通っていた向山小学校です。戦争中は向山国民学校という看板が石の門柱にかけてありました。
その門柱は昔のままの石です。日本軍が昭南島を占領した戦勝祝いに生徒全員がゴムマリを貰ったのを思い出しました。
昭和20年の7月10日の夜にB29が百機来襲し、仙台の街が一面火の海になりました。高台の向山から夜が明けるまで見下ろしていました。
こんなことを思い出しながら向山小学校の坂道をゆっくり下りて来ました。
2番目の写真は私が卒業した東北大学の建物です。現在は青葉山のキャンパスに引っ越して使っていませんが、赤レンガの建物が60年前と同じように残っていました。
現在は仙台にも高層ビルが立ち並んでいてこの赤レンガの建物がみすぼらしく見えます。しかし空襲でも残ったこのビルは当時は非常に立派に見えたものです。私の実験室の窓もそのままありました。
3番目の写真は青葉城の石垣です。城の建物はすべて戊辰戦争のおりに焼かれてしまいこの石垣だけが残ったのです。この石垣の下を右方向に車で登ると見晴らしの良い城跡に上がれます。
4番目の写真は城跡にある伊達政宗の騎馬像です。
5番目の写真は城跡から見下ろした現在の中心街の風景です。昭和20年の大空襲で一面の焼け野原になった町がこのような風景になったのです。夢を見ている心地でした。
6番目の写真は広瀬川の評定河原橋付近から見た風景です。写真の左の小高い山に伊達政宗のお霊屋の瑞鳳殿があります。
それで評定河原橋を渡った地域を「霊屋(おたまや)下」とい地名になっています。
この霊屋下には友人達が幾人か住んでいたのでしょっちゅう遊びに行った場所でした。今回も霊屋下を車で回りましたが家々がすっかり変わってしまって友人達も消えてしまいました。茫々あれから70年もたっているのです。
7番目の写真は伊達政宗のお霊屋の瑞鳳殿のある経京ヶ峰の広瀬川に面した断崖の風景です。この写真の右手に家内が若い時に少しの間住んでいた公務員住宅があります。父親が東北大学で働いていたので一緒に少しの間住んでいました。この時見合いをして結婚した思い出の場所です。妻は鎌倉生まれ東京育ちですが偶然にもこの場所に住んでいたので結婚したのです。結婚の縁とは不思議なものです。
この仙台を1960年に出る時、ある漢詩を何度も読んだことを思い出しました。
「元二の安西に使するを送る」 王維 作
渭城の朝雨 軽塵を潤し
客舎青青柳色新たなり
君に勧む更に盡くせ一杯の酒
西のかた陽關を出づれば故人無からん
さて皆様もご自分の故郷を懐かしく思っていると存じます。皆様の故郷はどの様な風景なのでしょうか。遠方にある故郷は懐かしいものですね。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===中国の学校でも教えている王維の漢詩============
漢詩は日本人の教養ですが共産党の中国の学校でも現在教えています。
例えば、湖南省の邵阳市第一中学校のHP(http://www.sysyz.com.cn/wx/sh.aspx?id=280 )にも「元二の安西に使するを送る」と題した漢詩が挿絵入れで紹介してあるのです。邵阳市は日本の漢字で書くと邵陽市になります。
古典文学の教養として日本も中国も同じ漢詩を幾つも習っているのです。
8番目の写真はその挿絵です。
「送元二使安西」王維 作
渭城朝雨潤輕塵
客舎青青柳色新
勧君更盡一杯酒
西出陽關無故人
王維が友人の送別のために書いたのがこの漢詩です。唐の都から西の陽関という関所を越えて西域の僻地に旅立つ親友との惜別の詩です。もう二度と会えないかも知れない友へもう一杯の酒を飲んでくれと言いながら別れを惜しんでいるのです。
この詩のポイントは故人にあります。故人とは古くからの友人や親友の意味です。そして 陽関は関所の名で、現在の甘粛省敦煌県の西南の玉門関の陽(みなみ)にあったのです。
皆様も友人の送別会の時、この漢詩を朗誦したのではないでしょうか?
・・・渭城の朝雨 軽塵を潤し~客舎青青柳色新たなり~~
君に勧む更に盡くせ一杯の酒~~~
西のかた陽關を出ずれば故人無からん~~~無からん無からん故人無からん
こんな漢詩を読んでいると自分の故郷の仙台の風景が思い出されるのです。
昭和11年に生まれ、昭和35年に仙台を出るまで24年間住んでいた町です。
2年程前に車で訪れてから行っていません。その旅を最近よく思い出しています。
そこで今日はその旅で撮った懐かしい仙台の風景写真をお送りしたいと思います。
旅は東京外環道路から始まりました。川口JCで東北自動車道路に入り、北へ北へとひたすら走ります。約350Kmを5時間半で到着しました。
仙台ではホテルに2泊しました。まず老人ホームにいる96歳の叔母を訪ねました。
2人の弟が仙台在住でそれぞれ夫婦とも健在です。私共夫婦と6人で両親の墓、母方の祖父母の墓、叔父の墓をお参りしました。お寺の住職をしている次男がそれぞれのお墓に般若心経と大悲心陀羅尼というお経をあげました。久しぶりに6人そろっての昼食会は大変愉快でした。
2日目の午後に懐かしい場所を巡りました。仙台で通っていた学校を見に行ったり、昔住んでいた場所を見に行ったのです。
写真にしたがってご説明いたします。
1番目の写真は昭和17年から23年まで通っていた向山小学校です。戦争中は向山国民学校という看板が石の門柱にかけてありました。
その門柱は昔のままの石です。日本軍が昭南島を占領した戦勝祝いに生徒全員がゴムマリを貰ったのを思い出しました。
昭和20年の7月10日の夜にB29が百機来襲し、仙台の街が一面火の海になりました。高台の向山から夜が明けるまで見下ろしていました。
こんなことを思い出しながら向山小学校の坂道をゆっくり下りて来ました。
2番目の写真は私が卒業した東北大学の建物です。現在は青葉山のキャンパスに引っ越して使っていませんが、赤レンガの建物が60年前と同じように残っていました。
現在は仙台にも高層ビルが立ち並んでいてこの赤レンガの建物がみすぼらしく見えます。しかし空襲でも残ったこのビルは当時は非常に立派に見えたものです。私の実験室の窓もそのままありました。
3番目の写真は青葉城の石垣です。城の建物はすべて戊辰戦争のおりに焼かれてしまいこの石垣だけが残ったのです。この石垣の下を右方向に車で登ると見晴らしの良い城跡に上がれます。
4番目の写真は城跡にある伊達政宗の騎馬像です。
5番目の写真は城跡から見下ろした現在の中心街の風景です。昭和20年の大空襲で一面の焼け野原になった町がこのような風景になったのです。夢を見ている心地でした。
6番目の写真は広瀬川の評定河原橋付近から見た風景です。写真の左の小高い山に伊達政宗のお霊屋の瑞鳳殿があります。
それで評定河原橋を渡った地域を「霊屋(おたまや)下」とい地名になっています。
この霊屋下には友人達が幾人か住んでいたのでしょっちゅう遊びに行った場所でした。今回も霊屋下を車で回りましたが家々がすっかり変わってしまって友人達も消えてしまいました。茫々あれから70年もたっているのです。
7番目の写真は伊達政宗のお霊屋の瑞鳳殿のある経京ヶ峰の広瀬川に面した断崖の風景です。この写真の右手に家内が若い時に少しの間住んでいた公務員住宅があります。父親が東北大学で働いていたので一緒に少しの間住んでいました。この時見合いをして結婚した思い出の場所です。妻は鎌倉生まれ東京育ちですが偶然にもこの場所に住んでいたので結婚したのです。結婚の縁とは不思議なものです。
この仙台を1960年に出る時、ある漢詩を何度も読んだことを思い出しました。
「元二の安西に使するを送る」 王維 作
渭城の朝雨 軽塵を潤し
客舎青青柳色新たなり
君に勧む更に盡くせ一杯の酒
西のかた陽關を出づれば故人無からん
さて皆様もご自分の故郷を懐かしく思っていると存じます。皆様の故郷はどの様な風景なのでしょうか。遠方にある故郷は懐かしいものですね。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===中国の学校でも教えている王維の漢詩============
漢詩は日本人の教養ですが共産党の中国の学校でも現在教えています。
例えば、湖南省の邵阳市第一中学校のHP(http://www.sysyz.com.cn/wx/sh.aspx?id=280 )にも「元二の安西に使するを送る」と題した漢詩が挿絵入れで紹介してあるのです。邵阳市は日本の漢字で書くと邵陽市になります。
古典文学の教養として日本も中国も同じ漢詩を幾つも習っているのです。
8番目の写真はその挿絵です。
「送元二使安西」王維 作
渭城朝雨潤輕塵
客舎青青柳色新
勧君更盡一杯酒
西出陽關無故人
王維が友人の送別のために書いたのがこの漢詩です。唐の都から西の陽関という関所を越えて西域の僻地に旅立つ親友との惜別の詩です。もう二度と会えないかも知れない友へもう一杯の酒を飲んでくれと言いながら別れを惜しんでいるのです。
この詩のポイントは故人にあります。故人とは古くからの友人や親友の意味です。そして 陽関は関所の名で、現在の甘粛省敦煌県の西南の玉門関の陽(みなみ)にあったのです。
皆様も友人の送別会の時、この漢詩を朗誦したのではないでしょうか?
・・・渭城の朝雨 軽塵を潤し~客舎青青柳色新たなり~~
君に勧む更に盡くせ一杯の酒~~~
西のかた陽關を出ずれば故人無からん~~~無からん無からん故人無からん
こんな漢詩を読んでいると自分の故郷の仙台の風景が思い出されるのです。