後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

優しい美しさを追求し描いた小野竹喬と息子の戦死

2017年09月13日 | 日記・エッセイ・コラム
日本画の世界は西洋画の世界とは非常に違います。そのどちらも芸術的な作品である以上、絵画として美しい上に人間の考えや精神が深く描き込んであります。東洋と西洋では精神性が違うので絵画も違います。
日本画では人間と自然と調和しお互いに一体になりたいという精神が深く描き込んであります。西洋のように人間と自然が対立しているのではなく両者が調和し溶けあっています。自然に対する考え方の違いです。
ですから小野竹喬の日本画もそのように描かれています。そこで彼の日本画の特徴を考えてみましょう。
小野竹喬の画の特徴を一口に言うと柔らかさでしょう。なだらかな線、穏やかな色、それらが見る人の心にそっと浸みこみ、自然に平安な世界へといざなってくれます。優しい美しさを追求し描いた画家でした。
このような特徴は西洋画にはあまりありません。
人間の優しさを自然風景を柔らかく美しく描いて表わしているのです。絵は人間性を表わすとよく言いますが、小野竹喬は優しくてしなやかな人格者だったに違いありません。
今日はそんな小野竹喬の絵画をご紹介し、最後に戦死した息子、春男の絵画をご紹介したいと思います。

1番目の写真は「西の空」です。素描、1967年作。
空は少し暮れかかって茜色になり始めました。もう少し時間が経てば本当に鮮やかな茜色になると考えられます。なにかほのぼのとした幸せな気分になります。

2番目の写真は『夏の五箇山』です、 1933年(昭和8年)作、 笠岡市立竹喬美術館所蔵。
この絵は戦争前の昭和8年に描かれた四曲の屏風絵です。若い頃の作品なので山々の茂っている樹木の緑の濃淡が丁寧に描いてあります。この絵をしばらく見ていると自分の体が木々の緑色に染まってしまうようです。人間と自然が溶け合うのです。

3番目の写真は「池」です。1967年(昭和42年)作、彩色・絹本、東京国立近代美術館蔵。
この絵は碧い池の中に葦が茂っている風景です。波が静かに漂います。私は仏教が好きなので、何故か仏画を見ているような気分になります。

4番目の写真は「沖の灯」です。 1977年作。
茜色の雲が湧き、そして暮れかかった沖には漁火が点々とまたたいています。手前の海の風波には夕日の光が反射しているようにも見えます。中央を大胆に横切る黒い線は潮目でしょうか。
自然の光景の変化の一瞬を捕え、大胆な色使いでいきいきと描いてあります。
自然の大きさと静謐さを感じられます。

5番目の写真は「春耕」です。1924年作、 絹本着色,二曲一双 、笠岡市立竹喬美術館蔵 。
これは35歳の時の作品です。春先に農民が牛を使って田おこしでもしているのでしょうか。大きな犂を引くことに疲かれた牛が一休みしているようです。
周囲の樹木の春らしい緑の色調の違いが丁寧に美しく描いてあります。「春耕」という題目が納得されます。

彼は90歳まで生き数多くの名作を描き文化勲章まで貰った幸福な一生でした。しかし悲しい思いは避けられませんでした。昭和17年に長男の春男が出征してすぐに戦死してしまったのです。

6番目の写真の画は遺作の屏風絵です。小野春男の屏風(びょうぶ)絵「茄子(なす)」です。1941年(昭和16年)作。

信州、上田の戦没画学生の遺した絵画を展示している「無言館」にあります。
春男は父の才能を引き継ぎ日本画家として期待されていました。
1917年、京都市生まれ。41年に同市美術展覧会で入選を果たすなど活躍が期待されていたのです。
翌年に出征。43年12月2日、中国湖南省で26歳の若さで銃弾に倒れたのです。そのため、これまで知られていたのは、屏風絵「茄子(なす)」と自画像のみです。
息子が親より早く亡くなるというのは悲しいものです。小野竹喬もそのような悲劇に見舞われたのです。 戦争の悲しみが湧いて来る戦没画学生の遺した絵画を展示している「無言館」は全ての作品に心打たれます。この屏風絵は小野竹喬が大好きな家内が悲しそうに説明してくれた絵なので、構図から繊細な筆使いまで忘れられない日本画です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考資料==================
(1)小野 竹喬
出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%AB%B9%E5%96%AC です。
小野 竹喬(おの ちっきょう、 1889年(明治22年)11月20日 - 1979年(昭和54年)5月10日)は、大正・昭和期の日本画家。本名は小野英吉。
1889年(明治22年) 岡山県笠間市西本町に生まれる。1906年(明治39年)京都の日本画家・竹内栖鳳に師事。栖鳳より「竹橋」の号を授かる。1911年(明治44年)京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)別科修了。同校の同期生であった村上華岳、土田麦僊とともに1918年(大正7年)国画創作協会を結成する。1923年(大正12年)、号を「竹喬」と改める。1947年(昭和22年)には京都市美術専門学校教授に就任し、京都市立芸術大学と改組した後も教鞭を執った。同年、日本芸術院会員となる。 50歳前後で没した華岳、麦僊に対し、竹喬は戦後も日本画壇の重鎮として活躍し、1976年(昭和51年)には文化勲章を受章している。等持院の小野宅は、今も閑寂な空気につつまれ、庭や東隣に位置する名刹等持院境内には、小野竹喬の絵の素材になった木々が繁る。
代表作:
「郷土風景」(1917年) - 京都国立近代美術館
「波切村」(1918年)
「波切村風景」(1918年)
「夏の五箇山」(1919年) - 笠岡市立竹喬美術館
「波濤」(1927年) - 笠岡市立竹喬美術館
「青海」(1927年) - 笠岡市立竹喬美術館
「冬日帖」(1928年) - 京都市美術館
「溪竹新霽」(1938年) - 霞中庵 竹内栖鳳記念館
「秋陽(新冬)」(1943年) - 大阪市立美術館
「奥入瀬の渓流」(1951年) - 東京都現代美術館
「奥の細道句抄絵」(1976年) - 京都国立近代美術館
(2)小野春男:
大正6年(1917)、日本画家・小野竹喬の長男として京都に生まれた。父の母校である京都市立絵画専門学校に入り、昭和15年に卒業した。翌年には京都市美術展に「樹林」を出品している。
昭和17年に伏見の京都連隊に入営し、敵飛行場を占領して破壊するための浙カン作戦に加わっていた歩兵第109連隊に補充された。翌年、常徳殲滅作戦に参加。10月初に漢口付近に上陸し、揚子江を渡河し、敵陣地を潰しながら洞庭湖の西端にある常徳に向かった。
11月30日に常徳城の総攻撃が行われ、激しい市街戦が展開された。おそらくその日、彼は歩哨に立ち、狙撃された。死亡は12月2日となっているのでしばらく生きていたのではなかろうか。享年27歳。
(3)無言館:
私共は巡礼のような気分で3度ほど訪れました。遠い所にありますが最近はバスが上田駅から出ています。その詳細は、http://www.city.ueda.nagano.jp/kankojoho/shisetsu/museum/007.html にあります。

何故多くの人は特攻は無駄だったと信じているか?

2017年09月12日 | 日記・エッセイ・コラム
尊敬している先輩に陸軍士官学校を出て戦闘機に乗っていた方がいます。陸軍中尉でした。同期生の多くが特攻で亡くなり知覧の特攻記念館に写真が並んでいます。
その方は特攻は戦果がほとんど無く、無駄な戦術だったと言います。
そこで私の書いた以下の記事をプリントして差し上げました。そうしたら生き残った特攻仲間へ手紙を差し上げたが、やはり戦果をご存知無かったと報告してくれました。そして念の為に知覧の記念館の学芸員にも連絡してみたいとおっしゃっています。
私の8月14日掲載の記事の要旨をお送り致します。
『特攻攻撃が与えた意外に大きい連合国側の損害の一覧』
今日はこの特攻隊、6000余人の犠牲によって連合国側にどの位の損害があったのかを客観的に書いてみたいと思います。
まずマッカーサー太平洋戦域連合軍総司令官の感想からご紹介いたします。(出典は、https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13128680533 です。)
「沖縄では、特攻が殆どの日本軍機による攻撃で我が軍は艦船36隻沈没、破壊368隻、航空機損失800機の損害を出した。これらの損害は米海軍がメルボルンから東京までの間に受けたそれまでの損害を遥かに超えるものである。」

太平洋艦隊司令長官のニミッツ元帥はもう少し具体的に語っています。
(4ヵ月に渡った沖縄戦で)「我が海軍が被った損害は、戦争中のどの海戦より遥かに大きかった。沈没30隻以上、損傷300隻以上、9000人以上が死傷もしくは行方不明になった。この損害は主として日本軍の航空攻撃、主に特攻によってなされた。」

そしてアーネスト・キング海軍元帥も次のように語っています。
「4月6日からはじまった日本機の攻撃は、いままで嘗てなかった激烈なものだった。この特攻戦は凄惨を極めた。(略)海上では戦死行方不明4907名、戦傷4824名であった。 艦船は沈没36隻、損傷368隻であり、飛行機の喪失は763機であった。」

特攻が開始された1944年10月から終戦までのわずか10ヶ月間に、米海軍史上最大の損害を与えたのです。その損害の内訳は次の通りです。・・・以下省略致します。

以上の8月14日掲載の私の記事は主に次のネット情報にもとずいて書きました。
『特攻攻撃が与えた損害の一覧』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E6%94%BB%E3%81%A7%E6%90%8D%E5%AE%B3%E3%82%92%E5%8F%97%E3%81%91%E3%81%9F%E8%89%A6%E8%88%B9%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
この一覧表は次のように整理、分類されています。
1連合軍の被害、1.1沈没、1.2損傷による除籍処分、1.3損傷、1.3.1巡洋艦以上、1.3.2駆逐艦以下
そしてそれぞれの表には、沈没日、艦名、艦種、場所、戦死者、負傷者の項目が示してあり、非常に分かり易い一覧表になっています。
このネット情報は正確でしょうか?
文末に引用文献が詳しく紹介してありますが、そのどれもが日本語で書かれた二次資料のようです。
ここで私は大きな疑問を感じました。ネット情報には間違いが多いものです。日本語の資料には客観性に欠けるものもあります。
そこでアメリカで公表されている損害の情報を調べてみました。
検索には「US Navy Kamikaze Damage」や「US Damage by Japanese Suicide Attacks」とか「Kamikaze Damage to US and British Carriers」などと英語でアメリカ海軍の損害を検索しました。以下はその結果判ったアメリカ側の発表です。
『Destroyer Report』
(https://www.history.navy.mil/research/library/online-reading-room/title-list-alphabetically/w/war-damage-reports/destroyer-report-gunfire-bomb-kamikaze-damage.html)
Gunfire, Bomb and Kamikaze Damage Including Losses in Action 17 October, 1941 to 15 August, 1945

また次のような報告書もありました。
「Summary of War Damage to U. S. Battleships, Carriers, Cruisers And Destroyers」
(https://www.history.navy.mil/research/library/online-reading-room/title-list-alphabetically/w/war-damage-reports/summary-of-war-damage-17-oct-1941-to-7-dec-1942.html)

List of Allied vessels struck by Japanese special attack weapons
(https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Allied_vessels_struck_by_Japanese_special_attack_weapons)

特に上の報告書は一覧表になっていて日本語の『特攻攻撃が与えた損害の一覧』の原資料のようです。
そこで結論として、日本語の『特攻攻撃が与えた損害の一覧』は正確であり信用してよいと考えられます。
皆様、もう一度、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E6%94%BB%E3%81%A7%E6%90%8D%E5%AE%B3%E3%82%92%E5%8F%97%E3%81%91%E3%81%9F%E8%89%A6%E8%88%B9%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7 を検索して特攻隊の戦果がいかに甚大であったかをご確認下さい。

さて表題に戻り、何故多くの人は特攻は無駄だったと信じているか?の解答を書きます。
今日ご紹介し英文の資料は全てアメリカ側の軍事機密として長い間公表さらなかったのです。
そのことは次の部外秘とせよという注意書きに明快に示してあります。
The Chief of Naval Operations directs that this report be shown only to those persons to whom the report would be of value in the performance of their duties.
Steps shall be taken accordingly to insure that the report will be seen by those persons responsible for design, construction and repair of naval vessels, as well as for their operation, but by no others.

戦前生まれ、戦後育ちの日本人の受けた教育はマッカーサー占領軍の指導による教育だったのです、それは日本の軍国主義の復活を徹底的に防ぐ目的の教育でした。従って野蛮な特攻攻撃は何の戦果も上げられなかった、無意味な作戦だったという内容の教育でした。
戦後の満員の映画館のニュース映画では特攻機がアメリカの戦艦の銃撃で無残に黒煙を吹いて海に墜落して行く場面を何度も見ました。たまに特攻機がアメリカの戦艦に体当たりして、艦上で燃える特攻機に対して何本もの消火ホースで水をかけている場面も出ますが、アメリカ側の損傷は軽微なのです。
そのようなニュース映画ばかり見て育ちました。その全てはマッカーサー占領軍の検閲を受けていたのです。映画も本も新聞雑誌も全て検閲を受けていたのです。敗戦国とはそういうものなのです。
冒頭に紹介したマッカーサー太平洋戦域連合軍総司令官や太平洋艦隊司令長官のニミッツ元帥の談話はアメリカ国内向けの談話で、日本の新聞では殆ど掲載されませんでした。当時は全ての報道に対してアメリカ軍司令部、GHQの検閲が厳しかったのです。
今日、ご紹介した連合国側の損害が明るみになったのは戦後、随分後になってからなのです。

嗚呼、敗戦から茫々72年!
戦争で亡くなった日本人、アメリカ人、その他の全ての国々の方々のご冥福をお祈りいたします。

今日の挿し絵代わりの写真は檜原村で平和に川遊びを楽しんでいる人々の風景写真です。一昨日撮りました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)





===参考資料、その他のアメリカ側損害の報告書===================
以下の資料はそれぞれの題目をそのままコピーし、それをキーワードにして検索すると全文が出て来ます。
(1)Submarine Report - Vol. 1, War Damage Report No. 58

(2) Submarine Report. Depth Charge, Bomb, Mine, Torpedo and Gunfire Damage Including Losses in Action ... It is the only report of the entire series which deals with war damage sustained by submarines. The remaining ...

(3)Battle of Savo Island August 9th, 1942 Strategic and Tactical Analysis
https://www.history.navy.mil/research/library/online-reading-room/title-list-alphabeticall...

(4) August 9th, 1942. Strategical and. Tactical Analysis. U. S. Naval War College 1950. NAVPERS 91187. Prepared By Department of Analysis Naval War College Commodore Richard W. Bates, USN (Ret) Commander Walter D.

(5)USS Birmingham CL62 War Damage Report No. 48 - Naval History ...

(6)W. » War Damage Reports ... The Navy Department Library ... Torpedo and Bomb Damage - Solomon Islands 8 November, 1943 ... (e) COMDT NYPearl ltr. ... I Torpedo Damage II Bomb Damage. LIST OF PHOTOGRAPHS. No. Title. 1. ... The aircraft torpedo detonated upon impact with the port shell at frame 20 about 10 feet ...
Carrier Locations - Pearl Harbor Attack - Naval History and Heritage ...

(7)Title List: Each Letter as a Separate List. » ..... List of Naval Personnel Who Died in the Honda Point Disaster ... Information in Relation to the Naval Protection Afforded to The Commerce of the United States in the West India Islands, &c. ..... Destroyer Report - Gunfire, Bomb and Kamikaze Damage · Destroyer Report - Torpedo and Mine Damage and Loss in .... Enterprise: On 28 November 1941, Admiral Husband E. Kimmel sent TF-8, consisting of Enterprise, the heavy ...
Anti-Suicide Action Summary - Naval History and Heritage Command

(7)2015/03/23 - Anti-Suicide Action Summary, issued as CominCh P-0011, deals with Japanese aerial suicide attacks against ... Mail or U.S. Registered Mail is authorized in accordance with Article 76 (15) (e) and (f), U.S. Navy Regulations. ... List 6 a(2) less 17th NavDisRep, SRNC, PRNC, SamDefGrp; c(l) Adm. & Mil. ... Others bombed, made torpedo attacks, used harassing tactics, or snooped. ... April and May figures are based on data taken from action reports, and are incomplete.
Disaster at Savo Island, 1942 - Naval History and Heritage

(8)2017/02/17 - This article examines the command and control breakdowns along with the various contributing causes such as personality conflicts .... Providing rear security for the force was the destroyer Yunagi (see Figures 3 and 4).
Solomon Islands Campaign - Naval History and Heritage Command

(9)2017/02/17 - Home · Research ... Wars, Conflicts, and Operations ... Title List: Each Letter as a Separate List. » ... The Navy Department Library ..... Information in Relation to the Naval Protection Afforded to The Commerce of the United States in the West India ..... Destroyer Report - Gunfire, Bomb and Kamikaze Damage · Destroyer Report - Torpedo and Mine Damage and .... As a result, the reports of commanding officers may differ although they participated in the same action and ...
Active Military Sonar and Marine Mammals - Naval History and ...

(10)2015/12/22 - Title List: Each Letter as a Separate List. » ..... Information in Relation to the Naval Protection Afforded to The Commerce of the United States in the West India Islands, &c. &c. .... The Naval Bombing Experiments .... Sunk and Damaged Ships and Craft ..... Four National Research Council reports provide substantial technical background and summarize the scientific progress in ...

昭和時代の風景が無性に懐かしくなったら檜原村に行く

2017年09月10日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和生まれ、昭和育ちの方は多いと存じます。昭和という時代は63年もあり明治維新以来一番長い時代でした。
満州事変や上海事変に始まり日中戦争と太平洋戦争が起き、そうして国中が焼野原になり敗戦になりました。それから復興!復興!の掛け声でやがて経済の高度成長を達成します。
昭和という時代は戦乱と敗戦、そして復興に汗を流した時代でした。日本が貧しさにあえぎ、努力によって貧しさからやっと抜け出したのです。
私は仙台に生まれ育ち、田舎にも疎開しました。その頃見た仙台の風景や田舎の風景が時々、無性に懐かしくなります。
そんな時には昔の風景を色濃く残している東京の辺境にある檜原村に車を走らせます。
昨日、撮ってきた写真を示します。

1番目の写真は檜原村養沢の杉の植えてある山の写真です。仙台の郊外の山には杉がよく植えてありました。杉は当時、貴重な材木として大切に育てられていたのです。そんなことを思い出す風景です。

2番目の写真は養沢の中流にある昔風の庄屋の家です。私が勝手に「庄屋の家」と命名しているだけで真偽のほどは分かりません。この家の下方に農家の集落があり、この庄屋の家が治めているように見えるのです。私はこの家が江戸時代からの庄屋だったと思い込んでいるのです。金持ちの庄屋とは山を所有して材木の切り出しで大儲けをした家なのです。

3番目の写真はこの家の倉です。何十年とこの下を通りましたが、いつも真っ白に塗っています。住んでいる人のきちんとした人柄が偲ばれます。背後の山の上にある高圧線の鉄塔さえなければ、この風景は江戸時代、そして明治、大正、昭和、平成と寸分、変わらぬ風景なのでしょう。

4番目の写真は養沢の上流にあるもう一軒の「庄屋の家」です。これも勝手に私が命名しているだけですが。
この大きな家の下は広い谷が盆地のようになっていて、家々が密集した集落になっています。どう見てもその集落の「庄屋の家」です。
如何にも江戸時代の山里の風景のようです。それがそのまま明治から昭和と続いたのです。そして昭和の戦争の時代には、この集落から何人もの若者が歓呼の声に送られて出征して行ったに違いありません。はたして何人が命長らえて帰ってきたのでしょうか?
そんなことを考えていると復員兵が街を歩いていた仙台の風景を思い出します。

5番目の写真は養沢の上流の光景です。このような川の風景を見ると昔、仙台の広瀬川で川遊びをしたことを思い出しました。現在の子供達はこんなにも綺麗な川で遊ばないのだろうかと思いました。そして川遊びをしている子供達を探しました。

6番目の写真は川遊びをしている子供達の写真です。時代がどんなに移り変わっても子供達は川遊びが好きなのです。

7番目の写真は川遊びをしている子供達の上に広がっている空の風景です。白い雲と空の碧さが秋の空の光景になっています。もう夏は過ぎ去ったのです。やがて空の色も晩秋の色になり木枯らしの吹く冬になるのです。冬の檜原村の風景も良いものです。
そんなことを考えながら車をゆっくり走らせて帰ってきました。
昨日は午前中、教会のミサに出て、午後に檜原村に行ったのです。忙しい筈ですが、とても悠然とした気分で一日をす過ごせました。
皆様の日曜日は如何だったでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

鎌倉時代の天守閣の無い小山田城の跡にある大泉寺を訪ねる

2017年09月09日 | 日記・エッセイ・コラム
鎌倉時代が始まる前の承安元年(1171年)、小山田有重によって築かれた小山田城跡とそれを所有、保存している大泉寺を昨日訪ねました。 小山田氏は桓武平氏で、秩父重弘の次男の有重が小山田荘に住んで小山田氏を名乗ったのです。
その小山田氏一家は相模国二俣川で討死し、元久2年(1205年)に小山田一族は離散したのです。
この小山田城のあった山を所有し城跡を保存しているのが曹洞宗の大泉寺です。東京都町田市の小山田緑地公園の隣にあります。
詳しくは、http://www.hb.pei.jp/shiro/musashi/oyamada-jyo/ をご覧下さい。
それでは昨日撮った来た写真を示します。

1番目の写真は大泉寺の山門です。

2番目の写真は大泉寺の本堂です。

3番目の写真は大泉寺の鐘楼です。
さて小山田城は何処にあったのでしょうか?お寺の本堂の説明版に寺の裏山を補陀山(ほださん)と言い、本堂の裏山にあると書いてあります。そして入山禁止の看板もあります。
そこで帰宅後、いろいろ調べましたところ、ある方がお寺の住職の許可を得て城跡に登り、写真を公表していたのです。
そのブログ、http://gi001.gokenin.com/tanbou/13_tokyo/06_minami_tama/005_machida/oyamada/oyamada_jou.html から2枚の写真をお借りして以下にお送りいたします。

4番目の写真は「虎口」と書かれた堀跡の写真です。虎口という事はこの場所が城の入口と想像出来ます。

5番目の写真は「二の丸」と標識のある城跡です。

大泉寺は小山田城の跡地に建てた寺院です。大泉寺は補陀山水月院と号します。小山田城を作った有重が開基となり、小山田有重が居住していた当地に安貞元年(1228)に建てたと言います。そして後に無極和尚が曹洞宗寺院として開山したといいます。江戸時代には寺領8石の御朱印状を拝領していて、武相卯歳観音霊場四十八ヶ所11番だったお寺です。

これで小山田城のことが明快に分かりました。
鎌倉時代の山にある城は戦いのある時だけ使い、普通は領主は城のある山の下の館に住んでいたのです。その館の下の方には武装した家来たちが住んでいたのです。
この近辺の片倉城も高幡城も深大寺城も石神井寺城もみんな天守閣の無い戦いの時に使う砦のようなものだったのです。
天主閣が現われた最初は織田信長が天正7年(1579年)に建造した安土城と言われています。下に天守閣の写真を示します。

6番目の写真は日本に現存する12の天守閣の集合写真です。
左1列上から姫路城、彦根城、松本城、犬山城。中1列上から松江城、備中松山城、丸岡城、弘前城。右1列上から伊予松山城、高知城、宇和島城、丸亀城。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AE%88 です。

昨日、訪れた鎌倉時代が始まる前の承安元年(1171年)、小山田有重によって築かれた小山田城をご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

20世紀のヨーロッパを震撼させたキリスト教と共産主義の戦い

2017年09月09日 | 日記・エッセイ・コラム
20世紀が過ぎ去ってもう17年にもなりますね。この頃、20世紀とはどんな時代だったのだろうかと考えています。
ヨーロッパでは第一次世界大戦と第二次世界大戦があり歴史最大の悲劇が起きました。ドイツのヒトラーとナチスによるユダヤ人など600万人ものホロコーストはヨーロッパ文化の崩壊でした。
しかしこれらの大規模な惨劇の陰にはキリスト教と共産主義の激しい抗争があったのです。その抗争は1990年前後のソ連の崩壊で終止符が打たれたのです。
今日はこのヨーロッパにおけるキリスト教と共産主義の抗争を振り返って見たいと思います。
まず写真をご覧下さい。

1番目の写真はロシア革命後に共産党によって1831年12月5日、爆破された救世主ハリストス大聖堂爆破の写真です。出典は次の通りです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%91%E4%B8%96%E4%B8%BB%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%B9%E5%A4%A7%E8%81%96%E5%A0%82

2番目の写真は2000年に再建された救世主ハリストス大聖堂の写真です。
大聖堂全体の成聖式は2000年8月19日(主の顕栄祭)にアレクシイ2世司祷により行われました。

日本は幸いにも共産主義が大規模には浸透せず、その被害も小さかったのです。
しかしヨーロッパ世界は共産主義に怯え、特に1917年のロシア革命の成功の後は、自国の共産化を防ごうとする人々が沢山いました。
特にロシアの政権は1923年に国際的に共産主義革命を援助する為に「コミンテルン」を組織し、ソ連の国家予算で各国の革命運動を支援し始めたのです。日本の共産主義者もコミンテルンに連携したのです。
この共産主義はキリスト教を完全に否定したのです。これは世界中にいるキリスト教信者に恐怖を与えました。文字通り世界を震撼させたのです。
レーニンは、1918年から1920年までに、28人の主教を殺害し、数千人の聖職者が殺されるか、あるいは投獄されたのです。
ほぼ1万2000人の信徒が宗教活動を行なったかどで処刑され、数千人が逮捕の後、労働キャンプに送られるか、流刑処分を受けたといわれています。
このニュースは1919年2月にロンドンで公刊されます。この公開文書は、ロシア正教会オムスク大主教から英国聖公会カンタベリー大僧正に宛てた書簡で、当時の教会迫害の様子を生々しく伝えていたのです。
ヨーロッパのキリスト教国は大きな精神的な打撃を受けたのです。いや全世界のキリスト教徒が衝撃を受けたのです。
この衝撃の大きさは仏教国の日本では比較的軽く見られがちです。

ご存じのとうりキリスト教は2000年前にガリラヤ湖の近辺で生まれました。それ以来、紆余曲折はありましたが1517年のマルチン・ルターによる宗教改革まで教勢を一途に上げてきました。この宗教改革でヨーロッパのキリスト教はカトリックとプロテスタントに二大宗派に分裂します。
しかし1848年の共産党宣言でヨーロッパ人の一部が歴史上初めてキリスト教を完全否定したのです。
革命成功後のロシアではレーニンもスターリンもフルシチョフも大々的にキリスト教を弾圧したのです。特にスターリンは神学校を卒業し神父になる直前に共産主義に転向した人です。
全世界のキリスト教界に与えた精神的打撃ははかり知れないほど大きかったのです。
共産主義による宗教支配は現在でも中国やベトナムでも続いています。
中国ではカトリックのことを天主教と言いますがその教会はローマ法王の傘下に入ることを許されていません。中国共産党が大司教や司教や神父を任命しているのです。
個人的な話で恐縮ですが私どもの教会の主任司祭のヨゼフ・ディン神父は共産党の弾圧を恐れてベトナムからボート・ピープルとして日本へ亡命した方です。
そのことを想うと共産主義の弾圧のすさまじさが身近に感じるのです。私は共産主義を恐ろしいと思います。
そしてソ連が崩壊してロシアにキリスト教が73年後に復活したことを嬉しく思います。

このようなキリスト教と共産主義の激しい抗争は1990年前後のソ連の崩壊によって終了したのです。
キリスト教には再び平和がやって来ました。
それを象徴するようなローマ法王のフランシスコ教皇のフィリピン訪問の折りの写真をお送りいたします。
以下は、http://news.livedoor.com/article/detail/9688495/ からです。

3番目の写真はフィリピンの子供たちと楽し気に手をつなぐフランシスコ法王の写真です。

4番目と5番目の写真は2015年1月18日にマニラでの野外ミサの様子です。写真と説明文は、http://news.livedoor.com/article/image_detail/9688495/… から転載しました。

首都マニラでの大規模な野外ミサでは、雨の降りしきる中、歴代法王が開いたミサとしては過去最多の600万人が集まり、貧しい人々の救済を掲げた法王のアジア歴訪のフィナーレを飾ったそうです。
 フィリピンはアジア最大のカトリック国で、国民の80%がカトリック信者です。さすがの法王も群衆の数に驚いたそうです。

共産主義はキリスト教では全ての人間が幸福になれないという考えでヨーロッパで生まれた思想です。
その思想に基いて政治体制を作ると予想もしなかった悲劇が起きたのです。それはヨーロッパで起きた犠牲の大きい社会現象でした。
20世紀は戦争の世紀とはよく言われますが、その一方でキリスト教と共産主義の激しい抗争があった世紀だったのです。
その流れがまだ中国やベトナムや北朝鮮に続いている現実を忘れないようにしたいものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考資料===========
(1)ルターの宗教改革
1517年、ルターはローマ教会に抗議してヴィッテンベルク市の教会に95ヶ条の論題を打ちつけた。これが、一般に宗教改革の始まりとされる。この贖宥状批判は大きな反響を呼んだ。この批判はまたたくまに各地に拡大し、ローマ教皇に嫌悪を抱いていた周辺の諸侯の支持を得た。
「宗教は民衆のアヘンである」とのマルクスの言葉を踏襲し、宗教の存在を否定する。階級社会が発生して以来、支配階級は、民衆の目を厳しい生活からそらさせるため、常に宗教を利用してきたからである、とする。実際に、ロシア革命以降、諸宗教の数多くの教会が破壊され、聖職者及び信徒が殺害された。マルクス・レーニン主義者の、宗教に対する否定的な姿勢は、戦闘的と言ってもいい。

(2)マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』
http://page.freett.com/rionag/marx/mcp.html
 共産主義の基本的革命理論を構築したマルクスとその友であるエンゲルスは、その著書『共産党宣言』において、「共産主義者は、彼らの目的は、既存の全社会組織を暴力的に転覆することによってのみ達成できることを、公然と宣言する。」として、暴力によってのみ共産主義革命が達成できると主張した(暴力革命必然論)。革命理論としては他に、国家は抑圧のための暴力装置であり、全社会は相対立するブルジョアジーとプロレタリアートの二大階級に分裂するという(階級国家観)。革命転換の時期においてはプロレタリアートの革命的独裁が行われなければならないという(プロレタリア独裁論)。「万国のプロレタリアよ団結せよ」で知られるプロレタリア国際主義などがある。

(3)革命直後レーニン時代のキリスト教の迫害
http://www2.odn.ne.jp/~caq10260/c14.htm
…政教分離の名の下に行なわれた一連の宗教抑圧政策は、しばしば聖職者の処刑や教会の強制的閉鎖といった直接的な宗教弾圧をも伴い、その結果、宗教界の抵抗を招いて各地で流血の衝突が頻発するにいたった。
ロシア正教会の場合、1918年から1920年までの間に少なくとも28人の主教が殺害され、数千人の聖職者が殺されるか、あるいは投獄された。
またほぼ1万2000人の信徒が宗教活動を行なったかどで処刑され、数千人が逮捕の後、労働キャンプに送られるか、流刑処分を受けたといわれている。
1919年2月にロンドンで公刊された、ロシア正教会オムスク大主教から英国聖公会カンタベリー大僧正に宛てた書簡は、当時の教会迫害の様子を生々しく伝えている。 
過激派が1917年のロシアで政治権力を掌握すると、彼らは社会の教養階級だけでなく、宗教そのもの、教会の指導者たち、そしてあらゆる人々から尊ばれた宗教的記念碑を一掃しはじめました。
モスクワのクレムリン大聖堂、ヤロスラーヴリやシンフェローポリといった諸都市の聖堂は略奪され、多くの教会が汚されました。
由緒ある至聖所も、モスクワとペトログラードの有名な総主教書庫も略奪を受けました。
キエフ府主教ウラジーミル、20名の主教そして数百人の聖職者たちが暗殺されました。
しかも殺害する前に、ボリシェヴィキどもは犠牲者の手足を切り刻み、そのうちの幾人かは生きながら火で焼いたのです。

「北海道の秋の風景写真をお楽しみください」

2017年09月08日 | 写真
先程から東京の空も久しぶりに晴れ上がって青空が見えています。もっと素晴らしい秋の空の写真を探すために「根室写真館」、https://www.facebook.com/masachuunemuro?pnref=story のページを開きました。私がいつも拝見している素晴らしいん風景写真のページです。
そこから青空の写真を3枚お送り致します。
1番目の写真は、根室十景花咲灯台車石です。
2番目の写真は、秋空の根室十景春国岱です。
真っすぐのびる木道、その先はアカエゾマツ森林の太古のような塩性湿原です。
3番目の写真は、根室十景の一つ花咲車石海岸の景観です。
スローシャッターで撮ったそうです。肉眼では見られない ぶれた波が幻想的ですね。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。





老境を幸せにする感謝の気持ちと他人を愛する心

2017年09月08日 | 日記・エッセイ・コラム
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の終りのところにジョバンニとカンパネルラの次のような会話があります。
・・・ジョバンニが云いました。
「僕、もうあんな大きな暗やみの中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」
「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。」カムパネルラは俄に窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫さけびました。・・・
ここにある本当の幸いとは何でしょうか?
老境になって私は本当の幸いを見つけたような気がします。
それは感謝の気持ちを持って毎日を送ることです。他人を愛して毎日を過ごすことです。
そんな気持ちで時を過ごしている間、私は本当の幸福の中にいるのです。
人は高齢になるにしたがって、年上の父母、親類、恩人、友人たちが次々と旅立って行きます。ある時、気が付いてみるといつの間にか自分一人になっているような気分になります。
そのような老境は間違いなく淋しいものです。
しかしそうなると若い他人の親切がしみじみと有難く感じます。病院でリハリビ施設で薬屋さんなどなどで、若い他人が実に親切なのです。「有難う御座います」と私は毎日、何度も言います。
そして他人を心の中で愛しています。なにせ高齢者の周りにはもう家族は少なくなります。親切な他人だけがたくさん居るのですから。
幸運にも私の妻は健在です。毎日感謝して、若い頃より一層愛しています。近所の路地をよく老夫婦が幸せそうに一緒に散歩しています。
その姿はほんとうの幸いの中を歩んでいる姿なのです。若い時より幸せそうです。
不運にもどちらかが亡くなってしまった高齢者もいますが、他人が一層親切にしてくれます。そんな実例をたくさん見ております。
こうして老境は他人の愛に支えられて幸せなのです。ですからこそ他人を強く愛するようになります。
このような幸せを忘れないで持続するようにしたいと思います。
そのためには四季折々の自然の風景を眺め、自然と同化するのが良いと思います。
写真にそんな風景をお送りします。北アルプスの雪解け水が安曇野に湧き出して豊かに流れている光景です。今年の6月18日に撮った写真です。





この写真のような風景を見ると誰でも幸せになれます。

しかし不幸な老境もあるのです。他人の好意に感謝せず、一人で不満をぶつぶつ言いながら毎日を過ごす人がいます。
自分の不幸の原因をすべて他人のせいにして他人の悪口をいろいろを考えながら日々を過ごす人もいます。
そして病院の医者が冷酷だと思い込んで怨念を抱いている人も居ます。
市役所の福祉課の役人のサービスが悪いと恨み言を言う人もいます。
政治家の悪口を言って自分だけが正しいと言う人もいます。
このような高齢者が居るのも事実です。
人それぞれですから、どのような老境を過ごすかは個人の自由です。勝手で良いのです。
強制的に「他人へ感謝しなさい」と言ってはいけません。それは個人の自由の侵害になります。
さて他人を愛することはどうすれば出来るようになるのでしょうか?
それは「愛してますよ」と何度も心の中で思う訓練をすれば良いのです。
例えば私は妻を愛していますと心の中で何度もつぶやきます。この文章を真面目に読んで下さっている読者の方々を愛しています。
親切にしてくれた方々に「愛しています」と心の中で言うのです。

今日の結論です。本当の幸いは感謝する気持ちがあればやって来ます。家族は勿論ですが、他人を愛する心があれば本当に幸福になれるのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

陽賜里工房の恒例の秋のオープンガーデンのご案内

2017年09月07日 | 日記・エッセイ・コラム
山梨県、北杜市の甲斐駒の麓にある陽賜里工房ガーデンの恒例の秋のオープンガーデンが例年通り開催されます。
庭でお茶をゆっくり飲んで寛ごうという企画です。ホストは原田聖也さんという男性とその母上です。

日時:9月22日(金)と23日(土)の朝10:00時から午後4:00時ころまで、
ところ:山梨県北杜市武川町山高 3567-556の陽賜里工房ガーデンです。

連絡先:原田聖也さん、携帯電話:090-4170-0370 E-Mail: t-taraku@t-net.ne.jp

このオープンガーデンには私も家内と一緒に何回か参加したことがあります。

7年前の春のオープンガーデンの報告記事を以下に掲載いたします。ご参考になれば幸いです。
======花の園の中の喫茶店・・・陽賜里工房というコーヒー店===
戦後に学生時代を過ごした方々にとっては喫茶店という言葉は懐かしいと思います。名曲喫茶とか純喫茶とか歌声喫茶とかいう名前で、コーヒーの香りとともに文化的な場所でした。当時、コーヒーは高価な飲みものだったのです。
それから幾星霜、不思議な喫茶店へ行ってきました。陽賜里工房という名前で、春と秋の2回しか開店しません。
春の花々、秋の花々に囲まれたコーヒー店です。店主は原田聖也さんという男性で、コーヒーの修業を重ね、特別のコーヒー豆焙煎工場のものを仕入れて使っています。食品衛生法を勉強をし、飲食店開業の資格も取りました。
この喫茶店は北杜市の真原桜並木のはずれにある花の園です。庭全体がなだらかな南向きの斜面になっていて満開の桜の木が2本、ピンクのユキヤナギ、水仙、ヒトリシズカ、イカリソウなどに囲まれて店主手造りの店があります。
花園の一番高い所にはロマンチックなデザインの木造の家があり店主が寝泊まりする場所になっています。お客は勝手に花の園を歩きまわり、花々を鑑賞します。そして花疲れしたら洒落た店に入って香り高いコーヒーを頂きます。
コーヒーを飲む場所には女主人が居て、つれづれの話し相手になってくれます。店の主人のお母さんです。上品な日本語を使う方です。花の園の作り方などのよもやま話です。私がカトリックの話をしましたら、ご自分の信仰のバプテスト教会の話を静かにして下さいました。亡くなったご主人はその教会の牧師さんで、ご自分も宣教活動をしながら幼稚園の園長さんもしていたそうです。兎に角、折り目正しい一生を過ごした方なのでお話をしていても晴れた青空を見ているような印象です。
下にこの花の園の中の喫茶店の写真をお送り致します。






国家とは?そして北朝鮮の国家としての特徴は?

2017年09月07日 | 日記・エッセイ・コラム
最近考え込んでいる問題があります。
一体、国家とはどんな存在なのでしょうか?水爆実験やミサイルで超大国のアメリカを脅している北朝鮮とはどんな国家なのでしょうか?
私は国家というものはヨーロッパの近代国家の概念で理解していましたが、どうもその理解は偏狭すぎるようです。
アメリカ流の民主国家とヨーロッパの民主国家は少し違うようですし、南米の諸国の国家の実態は民主国とは非常にかけ離れているような気がします。イスラム教の諸国は王家に主権がある宗教団体のようです。例えばサウジアラビアはサウド王家の所有する王国です。
ひるがえってアジアの諸国を考えると古代から続く専制王朝の伝統的文化を背負った社会が近代国家の形式をとっているようです。
中国の共産党独裁は清朝の伝統を引き継いでいます。ベトナム共産党はグエン王朝の影響が無いと理解したら間違いではないでしょうか。
台湾は中華民国という国家ですが、日本政府は国家ではないと言います。私は独立した国家だと理解しています。歴史的に広い中国には同時に幾つかの独立した国があったのです。ですから国家の実情を理解するためにはその国の歴史を知らなければなりません。
それでは北朝鮮という国家はどのような歴史を背負った国家なのでしょうか?その国家の特徴はどのようなものなのでしょうか?
それを考えると今後の日本の平和を守る方法が分かるかも知れません。
今日は単なる問題提起であります。間違った記述が沢山あると存じます。読者のご指導を期待しています。

さて国家とは何かを検索すると次のような定義があります。
国家の三要素(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6)
領域(Staatsgebiet:領土、領水、領空)- 一定に区画されている。
人民(Staatsvolk:国民、住民)- 恒久的に属し、一時の好悪で脱したり復したりはしない。
権力(Staatsgewalt)ないし主権- 正統な物理的実力のことである。この実力は、対外的・対内的に排他的に行使できなければならない、つまり、主権的(souverän)でなければならない。
このモデルにおいては、国家とは、権力が領域と人民を内外の干渉を許さず統治する存在であると捉えられているのである。領域に対する権力を領土高権(Gebietshoheit)、人民に対する権力を対人高権(Personalhoheit)という。国際法上、これらの三要素を有するものは国家として認められるが、満たさないものは国家として認められない。この場合、認めるか認めないかを実際に判断するのは他の国家なので、他国からの承認を第四の要素に挙げる場合もある。

以上の定義をご理解できますか?やたら難しい学問的用語とドイツ語が出できて訳が分かりません。こういう文章は学者馬鹿が書いた典型的な文章です。
簡単に書けば、国家は領域と国民と権力機構としての政府や軍隊があるということです。しかしこの定義は曖昧過ぎていろいろな国家の内状や実態が理解出来ません。
そこで今日の主題である北朝鮮という国家の歴史的特徴を考えてみましょう。
北朝鮮が高句麗や高麗だった頃のことは省略して李朝朝鮮の末期から考えて見ましょう。
現在の北朝鮮の歴史で重要なことは日本の朝鮮併合です。その概略を次に示します。
1910年(明治43年)に、韓国併合条約が漢城(現在のソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相により調印され、大日本帝国は大韓帝国を併合し、その領土であった朝鮮半島を領有したのです。そして1945年(昭和20年)8月15日、大日本帝国の敗戦により正式に朝鮮半島領有は終了しました。
その直後、金日成がソ連の支援で朝鮮半島の北半分を占領して現在の北朝鮮を樹立したのです。
そして1951年に北朝鮮は怒涛の如く韓国に攻め込んで南部の釜山近郊まで占領してしまったのです。これが所謂、朝鮮動乱という戦争でした。
これでは朝鮮半島は全て共産主義勢力になると恐れたマッカーサー軍がいきなり北部の仁川に強行上陸したのです。北朝鮮軍は支離滅裂になり満州国境へ追い詰められます。この時中国共産党軍が人海戦術でアメリカ軍を38度線まで押し返したのです。
朝鮮半島の全てを占領し共産党独裁の国家を作ろうとした金日成の夢はアメリカのおかげで無残にも崩れ去ったのです。現在の金正恩は金日成の孫なのです。
朝鮮動乱以来、北朝鮮はアメリカを憎み、激しい怨念が続いているのです。北朝鮮とアメリカの間には停戦条約はありますすが平和条約が無く戦争状態が続いているのです。
ですから北朝鮮が一番憎んでいるのはアメリカです。そして韓国と日本も激しく憎んでいます。
その憎しみは金正恩の独裁を強化するために常に燃え上がるような運動をしています。北朝鮮には拿捕したアメリカの情報収集船のフエブロ号を現在も宣伝し、公開しているそうです。
このような北朝鮮の歴史を知ると、水爆弾頭のミサイルでアメリカを脅かしている理由が分かるような気がします。韓国や日本も脅している理由も分かります。
こんな状態で将来の日本の平和を守るためには北朝鮮に武力行使をさせない賢明な外交しかありません。中国とロシアの役割が非常に重要なのです。この問題はあまり長くなるので今日はここでお終いにします。

今日の挿し絵代わりの写真は『KITAHO のデジカメ散歩』http://kitaho321.blog25.fc2.com/ からお借りしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真はヒルガオ科サツマイモ属のマルバルコウです。

2番目の写真は小さなガマの穂です。

3番目の写真はキジカクシ科のツルボです。

4番目の写真はヤブミョウガの実です。

5番目の写真はガマズミです。

秋の野に 咲きたる花を 指折りて かき数ふれば 七草の花

2017年09月06日 | 日記・エッセイ・コラム
秋になりましたね。昼間は残暑がけっこう厳しいですが、朝夕は流石に涼しくなってきました。
碧く晴れ上がった日は、秋の野に出て花々の写真を撮りに行こうと考えています。これから長い秋の日々が楽しみです。
そして秋の七草を思い出して、山上憶良の万葉集の和歌を読み返します。
家人の持っている岩波の「古典文学体系」や角川文庫の万葉集、上巻(武田祐吉校註)を見ると、花の名が書いてあります。芽子は萩のことで、朝貌は現在のキキョウのことと理解したうえで、山上憶良の和歌を楽しんでみましょう。

その原文を分かりやすくしたものを下に示します。
秋の野に 咲きたる花を 指折りて かき数ふれば 七種の花
(山上憶良 万葉集 巻八 一五三七)七種は「ななくさと」読みます。

萩の花 尾花 葛花(をばな くずばな) なでしこの花 をみなへし また藤袴 朝顔の花
(山上憶良 万葉集 巻八 一五三八)

これらの歌を読むと、秋風がわたる野にいろいろな花が咲いているのどかな情景が浮かんできます。二番目の歌は花の名前を羅列しただけですが、その順序と読んだときの音の響きが心地よいのです。2首続けて読むと優雅で気品のある作品のように感じられます。

それでは秋の七草の花の写真をしめします。

1番目の写真は秋の七草です。出典は、http://mariko789.exblog.jp/18059356 です。
  
それにてもこの和歌が作られたのは天平時代の730年ころです。現在よりも1300年も昔のことです。しかし現代の日本人もこの歌を楽しむことが出来るのです。
やはり万葉集は確かに素晴らしい文化遺産です。
ついでに末尾の付録に山上憶良の他の和歌も示しておきました。

こんな秋の季節の流れ行く日々を振り返りながら、過去に自分で撮った秋の花々の写真もお送りいたします。
このような写真を眺めていると、四季折々、花々の咲く日本に生まれた幸せをしみじみと感じる季節です。

秋の花と言えば萩、すすき、葛花、撫子、おみなえし、藤袴、桔梗などの他に、彼岸花(マンジュシャゲ)、野菊、ホトトギス、リンドウなどがあります。これらは全て日本古来の花々です。
しかし海外から来た秋の花もあります。セイタカアワダチソウやコスモス、カンナや皇帝ダリアなどなどです。
日本古来の花、そして海外から来た花など、自分で撮った秋に咲く花々の写真を以下にお送りいたします。

2番目の写真は秋の彼岸に咲くヒガンバナです。墓参りに行った日野市のお寺で撮りました。

3番目の写真はコスモスです。山梨県北杜市の尾白の湯のそばで撮りました。

4番目の写真はシオンです。北杜市の尾白の湯のそばで撮りました。

5番目の写真はオミナエシです。三鷹市花と緑の広場で撮りました。

6番目の写真はススキです。北杜市の尾白の湯のそばで撮りました。

7番目の写真は萩です。都立薬草植物園で撮りました。

8番目の写真は薬用の菊です。都立薬草植物園で撮りました。

9番目の写真は丹精込めて大輪に咲かせた菊です。諏訪大社上社で撮りました。

10番目の写真は秋に咲くフヨウです。鎌倉の円覚寺で撮りました。

11番目の写真はセイタカアワダチソウです。北杜市のラフォーレ小淵沢で撮りました。

12の写真はホトトギスです。都立薬用植物園で撮りました。

最後の13番目の写真は小金井公園で撮った皇帝ダリアです。

ところで私が花の写真を撮る時に工夫していることを書いてみたいと思います。
(1)花のクローズアップの写真がお好きな方々が多いのでまず花のクロ-ズアップ写真を撮ります。茎や葉を入れた写真も撮ります。
(2)詩情を感じさせるような背景も一緒に写真に入れて撮ることもあります。
例えば早春に咲く梅の花には淋しげな詩情があります。背景に枯れた雑木林などを入れると、楚々とした梅の花の姿が詩的になると思っています。 それがお寺の境内でしたなら、五輪の塔などを背景に入れます。
(3)花の咲いてるまわりの環境が分かるように遠景写真も撮ります。それを花のクローズアップ写真と組み合わせて掲載します。
私は花がどのような場所に咲いているかが分かるような写真も撮ります。
(4)花々の写真にその場所の歴史の説明を加え、記事の内容を奥深くします。花の背景に歴史を感じさせる建物などを入れて撮ります。
例えば江戸時代に名も分からない流れ大工が作った鎌倉時代風の山門があったらその山門を花の背景に入れて撮ります。

以上のようにいろいろ考えて写真を撮りますが。写真の出来はそれほど良くありません。素人の悲しみを感じます。
しかし花々の写真を眺めていると何故か幸福感につつまれるのです。
そしていろいろな写真を撮った時の思い出がよみがえって来て楽しいのです。大体いつも家人が傍にいて話し合いながら撮ります。彼女は花々がどのような場所に咲いているか分かるような写真が好きです。

さてあなたは花々の写真を撮る時にどのような工夫をなさっているでしょうか?
ご意見を頂けたら大変参考になると思います。勉強になります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=====================
山上憶良:斉明天皇6年(660年)? - 天平5年(733年)?
大宝元年(701年)第七次遣唐使の少録に任ぜられ、翌大宝2年(702年)唐に渡り儒教や仏教など最新の学問を研鑽する(この時の冠位は無位)。なお、憶良が遣唐使に選ばれた理由として大宝の遣唐使の執節使である粟田真人が同族の憶良を引き立てたとする説がある。和銅7年(714年)正六位下から従五位下に叙爵し、霊亀2年(716年)伯耆守に任ぜられる。養老5年(721年)佐為王・紀男人らとともに、東宮・首皇子(のち聖武天皇)の侍講として、退朝の後に東宮に侍すよう命じられる。

神亀3年(726年)筑前守に任ぜら任国に下向。神亀5年(728年)頃までに大宰帥として大宰府に着任した大伴旅人とともに、筑紫歌壇を形成した。天平4年(732年)頃に筑前守任期を終えて帰京。天平5年(733年)6月に「老身に病を重ね、年を経て辛苦しみ、また児等を思ふ歌」を、また同じ頃に藤原八束が見舞いに遣わせた河辺東人に対して「沈痾る時の歌」を詠んでおり、以降の和歌作品が伝わらないことから、まもなく病死したとされる。

いざ子ども はやく日本(やまと)へ 大伴の 御津(みつ)の浜松 待ち恋ひぬらむ(唐にて詠んだ歌)(『万葉集』巻1-63、『新古今和歌集』巻10-898)

憶良らは 今は罷(まか)らむ 子泣くらむ それその母も 吾(わ)を待つらむそ(『万葉集』巻3-337)

春されば まづ咲くやどの 梅の花 独り見つつや はる日暮らさむ(大宰府「梅花の宴」で詠んだもの)(『万葉集』巻5-818)

秋の野に 咲きたる花を 指折りて かき数ふれば 七種(ななくさ)の花(『万葉集』巻8-1537)

瓜食めば 子供念(おも)ほゆ 栗食めば まして偲(しの)はゆ 何処(いづく)より 来たりしものぞ 眼交(まなかい)に もとな懸りて 安眠(やすい)し寝(な)さぬ(『万葉集』巻5-802)

銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子に如(し)かめやも (『万葉集』巻5-803, )

行く船を 振り留めかね 如何ばかり 恋しかりけむ 松浦佐用姫(『万葉集』巻5-874)

世の中を 憂しとやさしと おもへども 飛びたちかねつ 鳥にしあらねば(『万葉集』巻5-893)

以下省略。

花々を見て冷静になり、北朝鮮のことを考える

2017年09月05日 | 日記・エッセイ・コラム
最近、北朝鮮の水爆実験や太平洋へのミサイル発射で騒然としています。
こういう時こそ冷静になり、この事態をゆっくり考えることが大切になると思います。
冷静になるためには初秋の花々の写真を眺めることが良いと思いました。
先週、京王フローラルガーデンで撮って来ましたが名前が全て分っているわけではありません。
そこで又KITAHOさんに教えを乞いました。彼は世界中から花の種を取り寄せて実生の花々を自宅や甲斐駒岳の麓の別荘で育てています。兎に角あらゆる花々の名前、原産地、学名、交配の歴史などなどに精通しているのです。植物学者ではありません。嗚呼、こういう方が世の中に居るのですね。
彼は『KITAHO のデジカメ散歩』http://kitaho321.blog25.fc2.com/ の管理人でもあります。一度、このブログをご覧下さい。
それはそれとして花々の写真をお送りします。

1番目の写真は白花睡蓮です。ヒツジグサとも似ていますが、ヒツジグサの交配種ではないでしょうか?

2番目の写真は黄花コスモスです。学名:Cosmos sulphureus、キク科 コスモス属 原産地: メキシコ.

3番目の写真はカンナ レッドクロスです。 Canna cv. American Red Cross.(交配種)
 カンナ科 原産地:熱帯アメリカ

4番目の写真はボタンクサギ(牡丹臭木)です。 学名: Clerodendrum bungei、クマツヅラ科クサギ属  原産地: 中国南部

5番目の写真はカンナ 黄花です。 学名 Canna generalis、カンナ科 原産地:熱帯アメリカ

6番目の写真はフヨウです。葉が大きいのでムクゲと、区別が出来ますね。Hibiscus mutabilis
アオイ科 フヨウ属 原産地: 中国

7番目の写真はヒューケラ カラーリーフプランツです。 学名:Heuchera、ユキノシタ科ユキノシタ属、原産地:北アメリカ 

このように美しい花々の咲いている地球に何故戦争が絶えないのでしょうか?
人間の性でしょうか?人間の本能で戦争が起きるのでしょうが、多くの場合は感情的な憎しみや領土欲が原因になっているとも考えられます。
トランプ大統領の北朝鮮への憎しみに満ちた発言を見ると感情的になっていることが明らかに分かります。
そして北朝鮮の金正恩委員長もアメリカを激しく憎み、大陸間弾道ミサイルに搭載する水素爆弾の実験に“成功した”と感情むき出しの発表をしています。
平壌市内では、市民たちの「万歳~!」という歓喜の声が響いたそうです。
アメリカは国連を動かして制裁を強化しようとしています。
しかし北朝鮮の国内の写真を見るとその生活レベルが急速に改善されている様子です。北朝鮮は水爆やミサイルを開発しながらも国民の生活は間違いなく良くなっている様子です。
北朝鮮の2016年の貿易額の92.5%は中国との取引です。金額は60億5600万ドルもあるのです。
この中国はアメリカと太平洋の覇権を争い航空母艦を更に2隻、建造中です。
こういう状況では中国はアメリカの敵国の北朝鮮が水爆搭載の長距離ミサイルを開発することを陰で支援するのは当然ではないでしょうか?
中国は北朝鮮への原油供給を削減し、北朝鮮からの石炭の輸入を減らす一方で、北朝鮮へ中国の代わりになる国々を斡旋しているに違いありません。
なにせアメリカ本土に到達する核弾頭ミサイルを北朝鮮が開発することは中国の国益にかなうのです。
同じことはアメリカの仮想敵国のロシアも同様と考えられます。
従って、冷静に考えれば北朝鮮は遅かれ早かれアメリカ本土に到達する核弾頭ミサイルを実戦配備することは自明のことです。
問題はそのミサイルを発射させないように北朝鮮の経済の海外依存度を拡大しておくことではないでしょうか?
戦争が始まれば生活が苦しくなります。その恐怖が戦争抑止力になります。北朝鮮の国民がそのような心理状態になることが上策ではないでしょうか?
経済封鎖を強化されて日本が真珠湾攻撃をした愚かさを忘れるべきではないと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

昔の自動車とエンジンは技師の情熱と努力のあかし

2017年09月04日 | 日記・エッセイ・コラム
皆様ご存知のように大学には工学部というものがあります。その学部の中はいろいろな学科に分かれています。
昔は機械工学科や電気工学科や電子工学科などから応用化学科、金属工学科、建築工学科、土木工学科、鉱山工学科、造船工学科、溶接工学科などがありました。
現在は学科の名前が電子工学科がコンピューター工学科のように変わったのもありますが基本的には同じです。
これらのどれかの学科を卒業すると工学士と呼ばれ各会社に技術者として採用されます。
この機械工学科や電機工学科や金属工学科卒業生の技術者の多くは自動車会社の技師になったのです。
そして彼等の夢は世界一性能の良いエンジンを作ることでした。エンジンこそが自動車の命なのです。
技師たちは情熱に燃え寸暇を惜しまず努力しました。
そして世界的にも優れたエンジンを製造して、日本を工業国に押し上げたのです。金属工学科の卒業生はエンジン部品の鋳造と鍛造を担当します。機械工学科の卒業生は鋳造部品と鍛造部品の切削と歯車の組み合わせを担当します。電気やコンピューター工学科の卒業生がエンジンの電気系統とコンピューター制御を担当します。こうしてはじめて自動車用のエンジンがが完成するのです。
このように自動車のエンジンこそは技師たちの情熱と努力の賜物なのです。
日野自動車の作った「日野オートプラザ」という博物館にはこの技術者の情熱が熱く感じられるように、歴代のエンジンが展示してあるのです。そういう博物館は珍しいものです。
それにしてもエンジンの写真だけを掲載しても面白くないのでまず昔の乗用車の写真を示します。2014年の8月に河口湖自動車ミュージアムで撮った写真です。

1番目の写真は戦前、1936年から1938年の日産のダットサン乗用車の写真です。日本で初めて量産された乗用車で、4気筒、722cc、でした。

2番目の写真は1933年のイギリスのライレー/ケストレルで6気筒1083cc・26馬力のスポーティ・セダンです。イギリスの落着いた伝統的なスタイルをしています。当時のイギリスの中流階級に人気があったそうです。

3番目の写真はアルファロメオ、6気筒、2500CCです。いかにもイタリアらしい華麗なデザインです。

さてそれはそれとして、日野自動車の「日野オートプラザ」に展示したあるバスやトラック用のエンジンの写真を示します。

4番目の写真は日野自動車によって昭和38年に開発されたバス用の水平対向12気筒、320馬力のジーゼルエンジンです。良く出来たエンジンだったのでバスに長く使われました。

5番目の写真は平成4年、日野自動車によって開発された直立6気筒、320馬力の大型トラック用のジーゼルエンジンです。軽量ダクタイル鋳鉄を使い軽量化に成功しました。斜流ターボチャージャーの採用により当時世界一の熱効率の45%を達成しました。

6番目の写真は平成18年に開発した小型トラック用のハイブリッドエンジンです。直立4気筒、4000cc、ターボ・インタークーラー式の最新鋭エンジンです。
このようなエンジンを作れる会社は、いざ戦争になると一斉に軍用機のエンジンを作るようになります。

7番目の写真は日野自動車が1936年から1940年まで製造していた軍用機用の星型9気筒、650馬力の航空ガソリンエンジンです。中島飛行機が軍用の「光」という飛行機に搭載していました。

あまりクドクド長い話は止めますが、現在の日本の先端的な工業技術を支えているのは日本の戦前からのエンジン製造技術なのです。少し過言ですが、工学部の卒業生の筆者の身びいきですが。
主張したいことは全ての技術分野には歴史があり工学的経験の積み重ねが非常に重要だという事です。とかく忘れがちなことなので、改めて強調したいと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

今日のミサは久しぶりに歌ミサでした!

2017年09月03日 | 日記・エッセイ・コラム
ミサを全て歌いながら進めて行く形式のミサを「歌ミサ」と言います。もっとも聖書朗読と説教は歌いません。
今日のカトリック小金井教会のミサはカトリック秋津教会の主任司祭の天本昭好神父さまが司式をしてくれました。
天本神父さまが始めから歌い出しました。今日は歌ミサですよという意味です。
歌ミサは神秘的で深い祈りが出来るようです。説教も明快で良かったです。

歌ミサではありませんが、ご参考までに九州の小倉カトリック教会の2014年の正月の歌ミサの風景を、
https://www.youtube.com/watch?v=cFje_dRU4BA でお送りします。
挿し絵代わりの写真は長崎の大浦天主堂です。





青空を一ケ月も憬れ、やっと秋晴れになった!

2017年09月03日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は夏の間中、空を覆っていた雨雲が消え、やっと碧い空が広がりました。涼しい秋風も吹いています。一ケ月もこの晴れ上がった青空に憧れていました。
さっそく小金井公園に行って秋の陽が美しく射す風景を撮って来ました。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しいです。









青空を見上げながら金子みすずの「星とたんぽぽ」という詩を思い出しました。

青いお空の底ふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまで沈んでる、

昼のお星は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。

この見えない星々のかなたに神が住み給うのです。
そして公園の野原で楽しそうに遊んでいる親子を見下ろして、その一人一人を愛しているのです。神を信じない人も信じている人も平等に愛しているのです。

常日頃は神様のことを忘れていますが、時々、このように神の愛を信じるときがあります。
ですから私も神様を愛します。
このように楽しそうに遊んでいる家族連れの風景をみると戦乱が絶えない中東のことを思います。
そしてこの地球に真の平和が来ますように祈らざるを得ません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

日々が流れ、夏が過ぎ行き秋になる

2017年09月02日 | 日記・エッセイ・コラム
今年の夏は不思議なことに毎日雨や曇り日でした。東京では8月の31日間、何処かで雨が降っていたそうです。
そして今日から9月になり急に涼しくなりました。蒸し暑かった夏が過ぎ去り、本物の秋が来たようです。

振り返ってみると今年の夏には、安曇野と仁科三湖への旅、伊勢鳥羽への客船の旅と、奈良井宿と木曽馬の開田高原への旅、猪苗代湖と会津城への旅と4回ほど旅行を楽しみました。

最初の安曇野と仁科三湖への旅は6月17、18日に行き、伊勢鳥羽への客船の旅は7月6,7、8日に行きました。
そして奈良井宿と開田高原への旅は7月20日と21日でした。最後の猪苗代湖と会津城への旅は8月24日と25日でした。
それぞれの旅に関する記事は次のように掲載致しました。

安曇野の旅に関する記事は次の通りです。「信州、安曇野、大町、仁科3湖をめぐる旅」(6月20日掲載)と「東洋と西洋の融合(1)ロダンと荻原碌山」(6月21日掲載)です。

伊勢鳥羽への旅日記は、「三重県の鳥羽への客船の旅」(7月8日 掲載)と「竜宮城を模した遊覧船に乗って浦島太郎伝説を考える」(7月10日掲載)でした。

奈良井宿と木曽馬の開田高原への旅の記事は、「奈良井宿と木曽馬の開田高原への小さな旅」(7月21日掲載)と「開田高原に木曽馬が数百頭も放牧されていた時代」(7月27日掲載)です。

そして猪苗代湖と会津城への旅の記事は「鶴ケ城落城、白虎隊の悲劇の会津若松を旅して」(8月26日掲載)と「猪苗代湖の美しさを見た石器時代、縄文時代、古墳時代の人々」(8月29日掲載)です。

昨日は久しぶりに涼しくなったので京王フローラルガーデンに小さな秋の草花の写真を撮りに行きました。ゆっくり写真を撮りながら過ぎ去った夏の四つの旅の思い出を楽しんでいました。

撮りました小さな秋の花々の写真をお送り致します。写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。
尚、花々の名前や原産地については、『KITAHO のデジカメ散歩』http://kitaho321.blog25.fc2.com/ の管理人のKITAHOさんに教えて貰いました。感謝の意を表します。

1番目の写真はサルビア・グラニチカ、Salvia guaranitica、 シソ科アキギリ属、原産地: 南米原産です。

2番目の写真はペンタス(草山丹花 くささんたんか)ピンク花、Pentas lanceolata、あかね科、原産地:東アフリカです。

3番目の写真は青色フジバカマ ユーパトリウム セレスチナム、 Eupatorium coelestinum 、キク科、ヒヨドリバナ属、原産地:アメリカです。  

4番目の写真は白花のフロックス ?、Phlox paniculata alba、クサキョウチクトウ、オイランソウ、ハナシノブ科、原産地:北アメリカです。

5番目の写真はアンゲロニア ?、Angeronia、ゴマノハグサ科、原産地:中央アメリカから南アメリカ、西インド諸島です。

6番目の写真は分かりません。

7番目の写真はハナトラノオ 白花、Physostegia virginiana、シソ科、原産地:北アメリカです。
如何でしょうか。6番目の花の名前をご存知の方へお願いいたします。花の名前をお教え下さいませんでしょうか。感謝致します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)