鎌倉時代が始まる前の承安元年(1171年)、小山田有重によって築かれた小山田城跡とそれを所有、保存している大泉寺を昨日訪ねました。 小山田氏は桓武平氏で、秩父重弘の次男の有重が小山田荘に住んで小山田氏を名乗ったのです。
その小山田氏一家は相模国二俣川で討死し、元久2年(1205年)に小山田一族は離散したのです。
この小山田城のあった山を所有し城跡を保存しているのが曹洞宗の大泉寺です。東京都町田市の小山田緑地公園の隣にあります。
詳しくは、http://www.hb.pei.jp/shiro/musashi/oyamada-jyo/ をご覧下さい。
それでは昨日撮った来た写真を示します。
1番目の写真は大泉寺の山門です。
2番目の写真は大泉寺の本堂です。
3番目の写真は大泉寺の鐘楼です。
さて小山田城は何処にあったのでしょうか?お寺の本堂の説明版に寺の裏山を補陀山(ほださん)と言い、本堂の裏山にあると書いてあります。そして入山禁止の看板もあります。
そこで帰宅後、いろいろ調べましたところ、ある方がお寺の住職の許可を得て城跡に登り、写真を公表していたのです。
そのブログ、http://gi001.gokenin.com/tanbou/13_tokyo/06_minami_tama/005_machida/oyamada/oyamada_jou.html から2枚の写真をお借りして以下にお送りいたします。
4番目の写真は「虎口」と書かれた堀跡の写真です。虎口という事はこの場所が城の入口と想像出来ます。
5番目の写真は「二の丸」と標識のある城跡です。
大泉寺は小山田城の跡地に建てた寺院です。大泉寺は補陀山水月院と号します。小山田城を作った有重が開基となり、小山田有重が居住していた当地に安貞元年(1228)に建てたと言います。そして後に無極和尚が曹洞宗寺院として開山したといいます。江戸時代には寺領8石の御朱印状を拝領していて、武相卯歳観音霊場四十八ヶ所11番だったお寺です。
これで小山田城のことが明快に分かりました。
鎌倉時代の山にある城は戦いのある時だけ使い、普通は領主は城のある山の下の館に住んでいたのです。その館の下の方には武装した家来たちが住んでいたのです。
この近辺の片倉城も高幡城も深大寺城も石神井寺城もみんな天守閣の無い戦いの時に使う砦のようなものだったのです。
天主閣が現われた最初は織田信長が天正7年(1579年)に建造した安土城と言われています。下に天守閣の写真を示します。
6番目の写真は日本に現存する12の天守閣の集合写真です。
左1列上から姫路城、彦根城、松本城、犬山城。中1列上から松江城、備中松山城、丸岡城、弘前城。右1列上から伊予松山城、高知城、宇和島城、丸亀城。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AE%88 です。
昨日、訪れた鎌倉時代が始まる前の承安元年(1171年)、小山田有重によって築かれた小山田城をご紹介致しました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
その小山田氏一家は相模国二俣川で討死し、元久2年(1205年)に小山田一族は離散したのです。
この小山田城のあった山を所有し城跡を保存しているのが曹洞宗の大泉寺です。東京都町田市の小山田緑地公園の隣にあります。
詳しくは、http://www.hb.pei.jp/shiro/musashi/oyamada-jyo/ をご覧下さい。
それでは昨日撮った来た写真を示します。
1番目の写真は大泉寺の山門です。
2番目の写真は大泉寺の本堂です。
3番目の写真は大泉寺の鐘楼です。
さて小山田城は何処にあったのでしょうか?お寺の本堂の説明版に寺の裏山を補陀山(ほださん)と言い、本堂の裏山にあると書いてあります。そして入山禁止の看板もあります。
そこで帰宅後、いろいろ調べましたところ、ある方がお寺の住職の許可を得て城跡に登り、写真を公表していたのです。
そのブログ、http://gi001.gokenin.com/tanbou/13_tokyo/06_minami_tama/005_machida/oyamada/oyamada_jou.html から2枚の写真をお借りして以下にお送りいたします。
4番目の写真は「虎口」と書かれた堀跡の写真です。虎口という事はこの場所が城の入口と想像出来ます。
5番目の写真は「二の丸」と標識のある城跡です。
大泉寺は小山田城の跡地に建てた寺院です。大泉寺は補陀山水月院と号します。小山田城を作った有重が開基となり、小山田有重が居住していた当地に安貞元年(1228)に建てたと言います。そして後に無極和尚が曹洞宗寺院として開山したといいます。江戸時代には寺領8石の御朱印状を拝領していて、武相卯歳観音霊場四十八ヶ所11番だったお寺です。
これで小山田城のことが明快に分かりました。
鎌倉時代の山にある城は戦いのある時だけ使い、普通は領主は城のある山の下の館に住んでいたのです。その館の下の方には武装した家来たちが住んでいたのです。
この近辺の片倉城も高幡城も深大寺城も石神井寺城もみんな天守閣の無い戦いの時に使う砦のようなものだったのです。
天主閣が現われた最初は織田信長が天正7年(1579年)に建造した安土城と言われています。下に天守閣の写真を示します。
6番目の写真は日本に現存する12の天守閣の集合写真です。
左1列上から姫路城、彦根城、松本城、犬山城。中1列上から松江城、備中松山城、丸岡城、弘前城。右1列上から伊予松山城、高知城、宇和島城、丸亀城。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AE%88 です。
昨日、訪れた鎌倉時代が始まる前の承安元年(1171年)、小山田有重によって築かれた小山田城をご紹介致しました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)