後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日はシクラメンの花を買い、思い出しました」

2022年12月08日 | 日記・エッセイ・コラム
毎年冬の始めにシクラメンの花の鉢植えを4個ほど買います。年を越して春の5月まで咲き続けます。今年は2つの店で合計4鉢買いました。今年は花の出来が悪い上に値段が高くなっています。不作の年なのです。
シクラメンの花を買うとある園芸花店のことを思い出します。以前に花や植木をよく買った馴染み深い園芸花店でした。それが15年程前に突然倒産して消えてしまったのです。ショックを受けました。
その大きな園芸花店では数棟の広い温室に熱帯の花々をあふれるように育てていました。
花の売り場も広くて2棟の店内には鉢植えの花が沢山売られています。店の前には梅、桜、藤、椿などの花咲く苗木、実を付けた蜜柑、柚子、柿、栗、葡萄等果実の苗木を売っていたのです。
毎年、11月末になると見事なシクラメンの鉢を幾つも買うのが家内の楽しみでした。
稽古事の先生や親類へのお歳暮にしていました。我が家用のは4鉢少し小さい鉢にしていました。毎年時間を掛けて花の色や形に迷うのも楽しい行事のようでした。
庭に植える八重桜やライラックの木、桂の木、椿も何種か買いました。
何時行っても四季折々の花々が豊かに飾ってあるので、植物園へでも行くような気分で家内と散歩のように通ったお店です。
およそ55年前その店に初めて行った時、雪の残る広い畑で背の高い物静かな青年が一人で花々の苗を育てていました。その青年から雪間に鮮やかに咲いていたパンジーの苗を買ったのが付き合いの始まりでした。
間もなく体格の良い陽気なお嫁さんが来て、温室を建て、その数が次第に増え、商売が繁盛します。
女の子が産まれ、やがて成人して他の店で園芸の勉強をしていると奥さんが嬉しそうに話していました。アルバイトの若い男女を大勢使うようになり華々しい雰囲気の園芸店になりました。それが15年ほど前に突然倒産し消滅しました。
陽気な奥さんと、物静かな夫の姿が消えました。あれ以来二度と会っていません。最近は数カ所の園芸店を廻って年ごとに違う店で買ってます。

懐かしい店の跡はしばらく空地になっていましたが、洗車場が出来ました。流行のチェーン写真館、そして大きな回転寿司の店がやってきました。
私は一人で出かけ、寿司を食べながら「ああ、この辺には温室が有ったな!色々なランの花が咲いていたな」と花々のことを鮮明に思い出します。あの折々の家内の明るく輝く顔も思い出します。
世のはかなさをしみじみと感じます。シクラメンの花を買う度に思い出します。
色即是空、空即是色です。

「この寒さを忘れさせる沖縄の情熱的な花々」

2022年12月08日 | 写真
この寒さを忘れさせる沖縄の情熱的な花々の写真をお送りいたします。

写真の出典は、https://www.orionbeer.co.jp/story/okinawa-flowers/ です。

1番目の写真はブーゲンビレアと石垣の組み合わせです。

2番目の写真は沖縄三大名花の一つで、1967年に県民の投票によって沖縄県の「県花」に指定された「デイゴ」です。

3番目の写真は沖縄三大名花の一つとされるマメ科の植物「オオゴチョウ」です。

4番目の写真は沖縄では「サンニン」と呼ばれ、野山や道端、民家の庭先などで見られるショウガ科の植物「ゲットウ」です。

5番目の写真はマメ科の植物で、フィリピン諸島の一部の熱帯雨林地域にしか自生しないといわれる「ヒスイカズラ」です。絶滅が危惧されるとても貴重な植物で、国際自然保護連盟のレッドリストにも登録されています。

「冬に咲き出す南伊豆町の菜の花畑」

2022年12月07日 | 写真
温暖な伊豆半島エリアの中でも南伊豆町は特に暖かいと有名です。その南伊豆で、春一番は日野(ひんの)の菜の花畑です。
菜の花は真冬の1月下旬あたりから咲き始め4月中旬ごろまで長く楽しめます。
詳しくは、https://tripnote.jp/shimoda/hinno-nanohana をご覧下さい。

「クリスマスに贈りたい花」

2022年12月06日 | 写真
今年もクリスマスがやってきます。きらきらと楽しげに煌めくイルミネーションや、あちらこちらで流れるクリスマスソングに心も華やぐこのシーズンです。
クリスマスに贈りたい花の写真です。
出典は、https://www.eflora.co.jp/f_xmas/colum/flower/01/ です。

「楽しいクリスマス、サンタクロースが贈り物を持ってやって来る」

2022年12月06日 | 日記・エッセイ・コラム
12月に入ると間もなくクリスマスが巡って来ます。サンタクロースも贈り物を持ってやって来ます。楽しいクリスマスが終わると除夜の鐘を聞いてお正月です。家族揃って楽しく過ごす季節です。12月は心がうきうきする季節です。
そんな訳で今日はクリスマスのことを書いて、北海道の広尾町のサンタランをご紹介します。そしてサンタクロースのモデルになった実在の人もご紹介したいと思います。
(1)欧米でのクリスマスの風景
欧米ではクリスマスは、日本のお正月のようなものです。実家に家族が集まって、プレゼントの交換をし、美味しいものを食べて楽しく過ごします。キリスト教信者は教会のミサへ家族揃って行きます。街の店々は一斉に休みますので、家族のいない人や旅行者はとても淋しい思いをします。
クリスマスの時期には街角にクリスマス市がたって大変賑やかになります。その店々は夜も賑わい、子供達の可愛い声がしています。
ですからクリスマスという言葉を聞くと欧米人は家族との楽しい日々を思い出して幸せな気分になります。
その様子を示す写真をお送りします。

1番目の写真はドイツのフランクフルトの『クリスマスマルクト(Weihnachtsmarkt)』です。写真の出典は、http://urarande.blog.fc2.com/blog-entry-62.html です。

2番目の写真は同じくフランクフルトの夜のレーマー広場です。カップルと家族連れで賑わっています。
このクリスマスマーケット(バイナハトマルクト)は「クリスマスを迎えるための市場」です。だから、クリスマス関連の物、例えばツリーの飾り、 部屋の飾り、リース、キャンドル、子供達のオモチャなどが沢山並んでいます。そしてソーセージを挟んだ丸いパンやワインも売っています。子供の乗り物のメーリーゴランドも音楽を奏でながら回っています。子供にとっては楽しい、楽しい思い出の出来る場所なのです。

3番目の写真は小金井教会の祭壇に飾ったイエス様の誕生の様子を示す模型です。この模型と共に4本のローソクを立てます。そして待降節の4回の主日に一本ずつ火を点けて行きます。
欧米では家族全員でクリスマス・イヴの夕食をとってから揃って夜のミサへ行くのが普通です。カトリック教会では24日は夜に2回のミサがあります。25日は早朝のミサと日中のミサがあります。

(2)北海道の広尾町のサンタランドの紹介
サンタクロースはトナカイの橇に乗って来るので常日頃はフィンランドやノルウエイやスウェーデンの深い深い森に住んでいると信じられています。
このように北欧の森に住むサンタクロースが住む土地を北海道に作った町があるのです。帯広の南の太平洋岸にある広尾町です。
サンタクロースの住む土地なので広尾町は「サンタランド」という名前もつけました。
そうしてその土地に本当にサンタクロースが住んでいることをノルウェーの首都オスロ市に正式に認定して貰ったのです。
オスロ市はノルウェー・サンタランドとして世界中の子供たちから届くサンタクロースあての手紙に対し、返事のクリスマスカードを送っているのです。
広尾町はサンタの故郷と称するノルウェーが初めて認めた国外の、そして日本で唯一のサンタの住む土地になったのです。それは1985年のことでした。
それ以来「広尾サンタランド」は平和のシンボルであるクリスマスツリーを全国各地に贈り、平和の灯をともすリレー点灯式をはじめ「サンタメール事業」も行ってきました。そして現在も広尾サンタランドから子供達へクリスマスカードを送っているのです。
全国からの申し込みに応じてクリスマスカードを届けて来たのですが、その総数は30年間で208万通にもなっているそうです。詳しくは、https://www.santaland.or.jp/information/ をご覧下さい。
それでは写真に広尾町のサンタランドのイルミネーションを示します。

4番目の写真は広尾町のサンタランドのトナカイの橇です。

5番目の写真は広尾町のサンタランドの入り口です。

(3)サンタクロースのモデルになった実在の人の紹介

サンタクロースはキリスト教から生まれた楽しい伝承です。そこでサンタクロースとキリスト教の関係を簡略に説明します。
サンタクロースは4世紀頃の東ローマ帝国の小アジアのミラの司教の聖ニコラウスが起源になっているのです。「ニコラウス」の名はロシア語ではニコライです
皆様は東京にあるニコライ堂をご存知だと思いますが、その名は小アジアの司教の聖ニコラウスから来ているのです。
聖ニコラウス神父は、ある時貧しさのあまり三人の娘を身売りしなければならなくなった家族の存在を知ります。
そこでニコラウス神父は真夜中にその家を訪れ、窓から金貨を投げ入れたのです。このとき暖炉には靴下が下げられていており、金貨はその靴下の中に入ったというのです。
この話が由来となり、「夜中に家に入って、靴下の中にプレゼントを入れる」というサンタクロースの伝承が生まれたのです。
そして煙突から入ることになったのは1822年にアメリカの学者クレメント・クラーク・ムーアがフィンランドの言い伝えを伝承した「聖ニクラウスの訪(おとな)い」という次の詩を書いたためです。
    キラ星のなか、
    屋根から聞こえるのは
    小さいトナカイの蹄の立てる爪音
    煙突の下を振り向いて見ると
    聖なるニコラウス煙突からどすん。
    (意味の分かるように一部補足しました)

以上がサンタクロースの伝承が生れた経緯です。

今日はクリスマスにちんんで、欧米でのクリスマスの風景、北海道のサンタランド、サンタクロースのモデルになった実在の人などをご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「旧懐の情かき立てられる宿場町の風景」

2022年12月05日 | 写真
旧懐の情かき立てられる宿場町の風景をお送りいたします。
写真の出典は、https://jp.zekkeijapan.com/article/index/713/ です。

1番目の写真は鳥取県の智頭宿です。

2番目の写真は岐阜県の馬籠宿です。

3番目の写真は岐阜県の妻籠宿です。

4番目の写真は福井県の熊川宿です。

5番目の写真は長野県の海野宿です。

「冬の花屋さんの店先で撮った写真」

2022年12月05日 | 写真
冬に近所の花屋さんや園芸店を見ると栽培種の花々が沢山咲いてます。自然の花が少なくなる冬に合わせて栽培種の花々が数多く出回るようです。近所の花屋さんや園芸店で花を買い、写真を撮らせてもらいました。

「日本に深い影響を与えた西洋人達(4)第二次大戦を始めたヒットラー」

2022年12月05日 | 日記・エッセイ・コラム
アドルフ・ヒトラーは第二次世界大戦を始めた張本人です。彼と同盟を結んだ日本は破滅しました。1939年にポーランドを占領し第二次世界大戦が始まったのです。その後ソ連の西半分へ侵攻しモスクワの郊外まで軍事占領しました。しかしソ連の反撃にあいベリリンが包囲されるのです。1945年4月30日のヒトラーの自殺でヨーロッパの第二次世界大戦は終わりました。太平洋地域では1945年8月15に終わりました。アドルフ・ヒトラーと同盟した日本も破滅したのです。ヒトラーは日本に悪い影響を与えた西洋人です。その悪い影響は甚大でした。日本は歴史上はじめて全国をアメリか軍によって占領されたのです。アドルフ・ヒトラーは 1889年にオーストリアの田舎で生まれ、1945年に自殺しました。56歳でした。

今日はヒットラーの起こした数々の戦争を振り返ってみます。その後でヒットラーが日本をどのように評価していたかをご紹介したいと思います。
(1)はヒットラーの起こした数々の戦争
以下は次の資料を参考にしました。(https://encyclopedia.ushmm.org/content/ja/article/world-war-ii-key-dates )

1番目の写真はラジオ放送を行うヒトラーです。(1933年2月)
1938年10月、オーストリアを併合しました。
ぞして1939年9月1日
ドイツがポーランドに侵攻し、ヨーロッパにおける第二次世界大戦が勃発。

2番目の写真はオーストリア併合後にウィーン市内をパレードするヒトラーです。(1938年10月)
1940年5月10日〜6月22日
ドイツが西ヨーロッパのフランスなどを攻撃。オランダは5月14日に降伏。ベルギーは5月28日に降伏。
6月22日に、フランスが休戦協定に調印し、これによりドイツはフランスの北半分と大西洋海岸線地域全体を占領。南フランスでは、ヴィシーを首都とする敵国に協力的な政権が樹立。

1940年9月27日
ムッソリー独裁のイタリアとドイツと日本が三国同盟に調印しました。

3番目の写真はドイツを訪問した日本の外相松岡洋右とヒットラーです。(1941年)

1941年12月8日
日本の真珠湾攻撃。太平洋地域でも第二次世界大戦が勃発。
1942年6月28日〜9月
ドイツがソビエト連邦で新たな攻撃を開始。9月中旬までには、ドイツ軍はボルガ川沿いのスターリングラードまで進撃し、クリミア半島を確保した後、コーカサス深部へ侵入。これにより2000万人以上のロシア人が犠牲になる。

1944年7月25日
英米軍がノルマンディー上陸拠点を突破し、東のパリ方面へと大急ぎで移動。
1945年4月16日
ソ連軍が最終攻撃を開始し、ベルリンを包囲。
1945年4月30日
ヒトラー自殺。
1945年5月9日
ドイツがソ連に降伏。

(2)ヒットラーが日本をどのように評価していたか?
ドルフ・ヒトラーはドイツの独裁的な政治家でした。ドイツ国首相になり遂に国家元首(総統)になりました。その以前から国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の指導者になっていたのです。この政党の主張がナチ思想でした。ナチズムでした。
さてヒットラーが日本をどのように評価していたのでしょうか?
以下の資料から抜粋します。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC#%E6%80%9D%E6%83%B3 )

ヒットラーはドイツ民族至上主義者であり、人種主義差別主義者でした。彼は好戦的な外交政策を推進し、全世界を第二次世界大戦へと導いたのです。ぞの上、ユダヤ人を組織的に大虐殺する「ホロコースト」を実行したのです。そしてドイツの敗戦を目前にした1945年4月30日、自ら命を絶ちました。

さてヒットラーの対日本観です。沢田謙著、『ヒットラー傳』の抜粋です。
・・・ヒトラーは『わが闘争』の中で、日本人について、「文化的には創造性を欠いた民族である」とし、日本語の発音を鵞鳥のようだと酷評している。
『わが闘争』には日本人に対して差別的見解が多く、原文で読むと、「ヒトラーは日本人を想像力の欠如した劣等民族、ただしドイツの手先として使うなら小器用・小利口で役に立つ存在と見ている」として、ヒトラーやナチズムの根底には強固な反日主義・差別主義があるとみている。

・・・大日本帝国海軍によるマレー作戦と真珠湾攻撃の成功の報告を受けた際には「我々は戦争に負けるはずがない。我々は3000年間一度も負けたことのない味方ができたのだ」と語り対米宣戦を行ったが、当時の日本の快進撃を誇大発表と感じており日本の発表を直接報道しない措置を承認している。・・・

・・・ナチズムが最もこだわる人種主義思想からすれば、白人かつ北方人種と考えられていたアングロサクソンの英米を心情的に応援するのは当然であったし、「アジア人によるアジア統治」を唱える大アジア主義や大東亜共栄圏は悪夢でしかなかった際、日英同盟と日露戦争を引き合いに出し日本の外交政策を称賛している。・・・以下省略します。

結論はヒットラーは日本人を尊敬せずにドイツの軍事力の優位を保つために利用したのです。彼の人間性は困ったものです。

さて以上の記述ではヒットラーだけを悪者にしました。ヒットラー個人だけを悪者にしました。しかしそんな個人を生んだヨーロッパ文化が悪いのです。

第二次世界大戦で傷ついたの全ヨーロッパ人でした。ヒットラーと同盟した日本人も深く傷ついたのです。戦争は罪悪です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「故郷、仙台の昭和の風景と亜炭の煙の臭い」

2022年12月04日 | 日記
我が故郷、仙台の昭和の風景写真をお送りします。昭和11年に生まれ24歳mまで仙台に住んでいました。仙台の家の燃料は亜炭でした。亜炭の煙の臭いを懐かしく思い出します。
その亜炭が戦後の経済成長とともに跡形も無く消えてしまったのです。
それでは昭和時代の仙台の写真をお送り致します。写真の出典は、「仙台市の昭和』写真展、です。







私は仙台市の向山という地区に住んでいました。その地区には戦前戦後にかけて東洋館、鹿落温泉旅館、いかり亭、蛇の目寿司、広瀬寮、観月亭、黒門下の湯などが存在していました。
向山は亜炭の産地でした。
大正、昭和、そして戦後にかけて向山には数々の亜炭を掘り出す横穴がありました。子供のころはその亜炭の横穴に出入りするトロッコに乗って遊んだものです。横穴は電燈もない暗闇でした。怖くて2、30mも入ると逃げ出してきたものです。
向山の住民はこの亜炭を八鉱社という元締めから買って炊事や風呂の燃料にしていたのです。
夕方になると、亜炭の煙の独特な臭いが流れてきます。亜炭は石炭になる前の黒い炭化した木材で、仙台の郊外で当時掘りだされていたのです。
燃料にするだけでなく埋木細工を作ってお盆や皿や飾りものにして仙台名物のお土産として売っていたのです。埋木細工をする職人の仕事が格子窓を通して見えました。子供心にその彫師のノミの動きに感動して、飽かずに覗き込んでいたものです。そんな工房が3軒あったのです。
その埋もれ木細工の職人の工房も完全に消えてしまいました。
故郷の亜炭の煙の臭いが懐かしいのです。
そもそも亜炭とは褐色から暗灰色のもの400万年前ころの樹木が土に埋れて炭化したものです。
それが昭和40年ころも経済高度成長とともにすっかり消えてしまったのです。
夕暮れになると家々のお風呂の煙突から亜炭の煙がながれその独特の臭いが夕闇とともに町を覆ったものです。その懐かしい臭いも二度と嗅ぐことが出来ません。
亜炭は人々の記憶から遠うのき忘れられていました。嗚呼。色即是空です。


「日曜日なので油絵の写真を眺めてのんびり過ごす」

2022年12月04日 | 写真
今日は日曜日なので油絵の写真を眺めてのんびり過ごすことにしました。眺めて気に入った絵の写真をお送り致します。
そして今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人) 

1番目の写真はセザンヌの「林檎とオレンジ」です。(1899年 サイズ:74x93cm 技法 :油彩 キャンバス 所蔵 :パリ オルセー美術館. )

2番目の写真は印象派のカイユボットの『イエール、雨』です。(L'Yerres, pluie)(1875)、(インディアナ大学美術館)

3番目の写真はシスレーの「ポール・マルリの洪水」です。(1876、Oil on canvas、50 x 61 cm、ルーアン美術館)

4番目の写真はカミーユ・ピサロの「エルミタージュの丘、ポントワース」です。(1867 年、151x200cm 、グッゲンハイム美術館、ニューヨーク)

5番目の写真はユトリロのサクレクール寺院の見える風景画です。彼は『サクレクール寺院』の風景画を沢山描いていますが、この絵は私の好きな絵です。

「道の奥の紅葉の風景」

2022年12月03日 | 写真
道の奥の紅葉の風景をお送りいたします。
写真の出典は、https://www.pixpot.net/.../545/aomori-pref-autumn-best/ です。
本州でも北に位置する東北地方は全国的にも紅葉の名所です。その紅葉の風景の写真をお送りいたします。

1番目の写真は十和田湖です。
ブルーの湖面を囲む赤・黄・オレンジの紅葉。十和田湖周辺はブナが多く、特に黄色の紅葉が美しいエリアになっています。その中にカエデやナナカマドの赤が映え、緑の松が加わり、絵に書いたような紅葉絶景が広がっています。

2番目の写真は八甲田連峰の「グダリ沼」です。
八甲田連峰の雪解け水が伏流水として湧き出す「グダリ沼」は白い小さな花を咲かせるバイカモの群生でも知られています。新緑や夏の緑の美しさも際立つこの場所は、秋も紅葉が美しいスポットです。

3番目の写真は津軽白神湖です。
津軽白神湖は世界遺産白神山地の弘前側入口にある、青森県で一番規模の大きいダム湖です。大自然の中にあるダム湖は紅葉が美しく有名です。

4番目の写真は青森県の黒石市にある「中野もみじ山」です。
山一帯が赤や黄色の紅葉に包まれる、青森県を代表する紅葉狩りの名所です。
この山は、弘前9代目藩主「津軽寧親公」が京都から100種類の楓を取り寄せて植えたのが始まりと言われています。

「日本に深い影響を与えた西洋人達(2)占領軍総司令官マッカーサー」

2022年12月01日 | 日記・エッセイ・コラム
太平洋戦争の連合国司令官マッカーサーは1945年8月15日の終戦直後に日本全国を占領しました。そして軍国主義の日本を民主化にする大改革を始めたのです。それは壮大な社会改革のドラマでした。
マッカーサーは1880年1月26日 に生まれ1964年4月5日に亡くなりました。享年84歳です。

さてマッカーサーと占領軍の改革は日本国民にどのように評価されたのでしょうか?
今日はまずマッカーサーに対する当時の日本人の評価をご紹介したいと思います。続いてマッカーサーとアメリカ軍による日本占領に関する写真を7枚示します。
占領当時、マッカーサーは多くの日本国民より「マ元帥」として慕われ、絶大な人気を得たのです。GHQ総司令部本部が置かれた第一生命館の前は、マッカーサーを見る為に集まった多くの群衆で賑わっていました。それまでの価値観を全て否定された日本人にとって、マッカーサーは征服者ではなく、新しい強力な指導者に見えたのです。
ですから日本人はマッカーサーへの50万通の感謝の手紙を送ったのです。手紙は全て英訳され重要な手紙はマッカーサー自身が読んだのです。

投書の中でもGHQがもっとも関心を寄せた投書が天皇に関する投書であり、『ヒロヒト天皇に関する日本人の投書』という資料名を付され、極東国際軍事裁判の国際検察局(IPS)の重要資料として管理・保管されます。
マッカーサーは送られてきた手紙をただ読むのではなく、内容を分析し、世論や民主化の進行度を測る手段の一つとして重要視し占領政策を進めていくうえでうまく活用していたのです。委しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC をご覧下さい。
それではマッカーサーとアメリカ軍による日本占領に関する写真を示しましょう。
写真と説明文の出典は、http://www.asahi.com/special/sengo/visual/page3.html です。

1番目の写真は1945(昭和20)年8月30日マッカーサー元帥が厚木飛行場に到着した時の写真です。元帥の搭乗機は「バターン号」でした。先着の米第8軍司令官アイケルバーガー中将(右)らの出迎えを受けました。

2番目の写真は昭和天皇とマッカーサーです。1945(昭和20)年9月27日、昭和天皇はマッカーサー元帥を米国大使館に初めて訪問しました。天皇と元帥が2人並んだ写真は、国民に敗戦を実感させました。

3番目の写真は全国を巡幸した昭和天皇です。1946(昭和21)年2月19日、横浜・稲荷台国民学校跡の戦災者用共同宿舎を訪れた昭和天皇。「人間宣言」をした昭和天皇は、巡幸で国民と直接ふれ合ったのです。当時、仙台の向山小学校の3年生だった私も向山まで行幸した昭和天皇に小旗を振ってお会いしました。そんなに近くでお会いしたのはそれ一回だけでした。

4番目の写真は1946(昭和21)年7月4日、米国独立記念日に星条旗を掲げて大阪・御堂筋の大阪市役所前を行進する米軍兵です。

5番目の写真は1946(昭和21)年4月6日、アメリカ陸軍記念日に東京・日比谷のGHQ前をパレードするアメリカ第1騎兵師団の機械化部隊です。

6番目の写真は1946(昭和21)年7月4日、米国独立記念日のパレードに本国から派遣されたレッドクロスガールズです。(福岡県小倉市の井筒屋百貨店前)

7番目の写真は1947(昭和22)年7月4日、アメリカの独立記念日を祝う米軍閲兵式です。この後、東京駅前、有楽町を通って帝国ホテル付近まで行進しました。

占領軍総司令官マッカーサーが日本に与えた影響は絶大でした。それまでの封建的な軍国主義を一気に吹き飛ばし、日本を現在のような民主主義の国にしたのです。
日本は戦争に負けて良かったと言う人も多いのです。それにしても310万人の日本人戦没者と2000万人とも言われるアジア諸国の犠牲者と数万人のアメリカ兵の戦死者はあまりにも大きい犠牲でした。ものすごく大きな悲劇でした。

今日はずマッカーサーに対する当時の日本人の評価をご紹介し、続いてアメリカ軍による日本占領に関する写真を7枚示しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日は寒いので熱帯の花々を見て暖かな気分になろう」

2022年12月01日 | 写真
いよいよ寒い日々になりました。特に今日は寒いで熱帯の花々を見て暖かな気分になりましょう。
1番目の写真はプルメリアです。
プルメリアはキョウチクトウに似た植物で、同じキョウチクトウ科に属します。熱帯原産のプルメリアは夏に枝先に花茎を伸ばし多数の花を次々に咲かせます。

2番目の写真は花ゴクラクチョウの花 です。
ゴクラクチョウカ(極楽鳥花Crane flower Strelitzia reginae 他)は南アフリカが原産の双子葉、多年生、常緑草本です。ゴクラクチョウカは成長すると2m程で、がく片がオレンジ色で花弁が紫色の極楽鳥の頭に似た形状の花を咲かせます。

3番目の写真はアラマンダの花 です。
アラマンダは熱帯ブラジルが原産の双子葉、常緑、つる性植物です。蔓性のアラマンダは枝先に花茎を伸ばし黄金色(黄色)の花を次々に咲かせます。

4番目の写真はベンガルヤハズカズラの花 です。
ベンガルヤハズカズラ(弁軽矢筈葛Sky Vine Thunbergia grandiflora 他)はインドから東南アジアが原産の双子葉、常緑、蔓性です
4枚の写真の出典は、http://kamakura.travel.coocan.jp/tropical.html です。