30年戦争を主題にした油彩画の写真をお送り致します。
当時は写真がまだ無かったので油彩画でした。ここに示す油彩画の出典は、
https://jacyou.com/society/tory/thirty-years-war-5-greatest-battles/ です。
スウェーデンの草原に咲く花の写真をお送り致します。
写真の出典は次の通りです。
写真の出典は次の通りです。




四季折々登った蔵王山です。
仙台に住んでいたので私は何度も蔵王山に登りました。夏には宮城県側から登りました。冬は山形県側の懺悔坂の樹氷の間で毎年スキーをしました。私の一番想いの深い山です。
蔵王山は奥羽山脈の中にあって宮城県と山形県の県境にあります。火山活動によって出来た山です。その夏の写真をインターンットからお借りしてお送り致します。
仙台に住んでいたので私は何度も蔵王山に登りました。夏には宮城県側から登りました。冬は山形県側の懺悔坂の樹氷の間で毎年スキーをしました。私の一番想いの深い山です。
蔵王山は奥羽山脈の中にあって宮城県と山形県の県境にあります。火山活動によって出来た山です。その夏の写真をインターンットからお借りしてお送り致します。




昨日の掲載記事の「若い頃の夏の日の思い出」をもう一度、見ていると日本を取り囲む海の美しさに感動します。群青の海が緑の島々をかこむように広がっているのです。日本は海も綺麗です。しかし陸地にある山々も美しい風景です。絶景です。
今日は美しい日本の山々の風景の写真をお送り致します。
若い頃日本の北アルプスと南アルプスの縦走しました。山々の写真に私の感想文も添えました。日本のアルプスの縦走は私のささやかな青春の冒険だったのです。自分の人生を振り返ってみると、「北アルプス表銀座縦走」の思い出が非常に重要だったと思います。その思い出は私の人生のエネルギー源になったのです。
北アルプス表銀座は特に素晴らし縦走コースです。そのルートの山々の景観雄大でした。後年見たヨーロッパのアルプスのようです。
そして高山植物の花々も華麗に咲いていました。山肌一面に咲いていたのです。
1番目の写真は日本の北アルプス表銀座縦走コースです。槍ヶ岳は中央に写っています。

2番目の写真は北アルプス表銀座縦走コースに咲いている高山植物のお花畑です。

3番目の写真は表銀座縦走コースにある残雪とお花畑です。
表銀座ルートとは、「中房温泉ー燕岳ー大天井岳ー槍ー南岳ー大キレットー穂高岳ー上高地」というコースを言うのです。
私は1959年23歳の時の夏にこの北アルプス表銀座を縦走しました。このルートは燕岳まで登ると眺望が開け、北に立山連峰、南に乗鞍や中央アルプスや南アルプス、八ヶ岳、そして富士山まで見えるのです。その上、山々の斜面には高山植物の花畑が広がっています。何故こんな山奥に花畑があるのか不思議な思いです。運が良ければ夏毛に変わった雷鳥も見ることが出来ます。涼しい風が爽やかに吹いています。まさに天国のような景観なのです。私は4日間でこの山道を歩きました。
北アルプスの表銀座を縦走した翌年の夏に南アルプスの鳳凰三山を縦走しました。苦しい登山でした。尾根道に樹木が生い茂っていて眺望がないのです。風が暑いのです。高山植物の花畑が無いのです。南アルプスは北岳、仙丈岳、農鳥岳のような奥山へ登れば花畑が広がって、眺望も良いようですが、仕事が忙しくなって登山の時間が無くなってしまいました。下の二枚は家内が撮った写真です。
4番目の写真は南アルプスの北端にある甲斐駒岳です。麓の自分の小屋がありましたで何度か登りました。
5番目の写真は1960年に縦走した鳳凰三山です。
北アルプススと南アルプスの両方の縦走は私のささやかな青春の冒険でした。それは私の人生のエネルギー源になり続けたようです。その表銀座コースから見た燕岳と夕暮れの写真もお送り致します。
6番目の写真は燕岳です。
7番目の写真は表銀座コースから見た夕暮れの写真です。写真の出典は、https://www.yamakei-online.com/yama-ya/detail.php?id=1147 です。
昨日は日本の海の美しさを紹介したので、今日は陸地の山々の美しい風景をお送り致しました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人 )
隣りの韓国も日本と同様に祭りが沢山あります。そこで夏の夜の祭りの写真をお送り致します。

1番目の写真はソウルのお祭り「ソウルランタンフェスティバル」です。ソウル特別市鍾路区の清渓広場と清渓川一帯で灯りをテーマに繰り広げられるお祭りです。

2番目の写真もソウルのお祭り「ソウルランタンフェスティバル」です。1番目の写真は2番目の写真の出典は、https://s-koreanschool.com/column/c20220904_jp.html です。

3番目の写真は統営(トンヨン)閑山大捷祭りです。大海戦の一つである閑山島海戦を閑山島沖で再現する祭りです。8月11日から15日まで慶尚南道統営市で開かれます。
写真の出典は、https://japanese.korea.net/NewsFocus/FoodTravel/view?articleId=147926 です。

4番目の写真は「浦項(ポハン)国際光祭り」です。7月26日から30日まで慶尚北道浦項市の兄山江体育公園と迎日台海水浴場で開かれます。
写真の出典は、https://japanese.korea.net/NewsFocus/FoodTravel/view?articleId=147926 です。
日本には各地に四季を通して祭りがあります。神社やお寺さんに関係した宗教色のあるものから宗教とは関係のないものなど沢山あります。
特に夏は盆踊りや納涼祭などが加わり一層数多くの祭りがあります。
それこそが日本民族の文化の基盤であり、人々を幸せにしている大切なものです。
祭りは家族の愛を強め、地域の人々を美しい絆で結びつけきます。夏の夜に遠くから聞こえて来る太鼓の響きや掛け声を聞くと亡くなった祖父母や両親のことを思い出します。一緒に遊んだ友人たちのことを思い出します。懐かしい故郷の昔の風景がよみがえって来ます。
夏祭りの一つの例を示します。能登半島の津々浦々のキリコ祭りをご紹介致します。能登は今年の元日に大地震に見舞われ甚大な被害を受けました。亡くなられた人々の魂の安らぎを祈ります。
キリコ祭りは能登地方の住民にとって最も重要な祭りです。能登地方で生まれて東京や大阪などに出て行っている人たちが、自分の町でキリコ祭りがある時には戻ってきて、祭りに参加するのです。祖父母に孫たちを会わせ家族全員でキリコ祭りを楽しむのです。
キリコは巨大な灯籠のことです。背が高い直方体で、前面中央部には漢字3文字で表した「キリコ吉祥文字」と呼ばれる地区ごとの願いや祈りを込めた文字が書かれています。
このキリコ祭りを夏祭りと書きましたが、正確には7月から10月に掛けて行われます。能登の場所によっては秋祭りとして行われる所もあります。
能登地方の出身者は自分の町のキリコ祭りにあわせて帰省します。つまり帰省する月日が地域ごとに違います。夏のお盆に帰らない人でもキリコ祭りの日には必ず帰るのです。
写真に 七尾市で行われる石崎奉燈祭(キリコ祭り)の様子を示します。写真は「七尾市、石崎奉燈祭の写真」を検索して鮮明な写真を選んで転載させて頂きました。




考えてみると民族の文化の基盤は家族の中の愛のあり方や、地域の人々の結びつきのあり方にあります。これこそ日本民族のアイデンティテーなのです。
家族のあいだの愛のありかたは民族によらずかなり普遍的に同じです。しかし地域の祭りに合わせて帰省するのは日本独特の文化ではないでしょうか?そして祭りをとうして地域の人々が美しく結ばれるのも特徴的な文化ではないでしょうか?
若い人でも賢い人は祭りを大切にしています。重要だと思っています。
老境に至って全国の地方、地方の祭りの重要さがしみじみ判ったのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
いよいよ夏です。そこで夏の風物詩の花火、金魚売の光景を写真で示します。今は消えてしまった懐かしい風物詩です。
夏が来るとしきりに思い出すのが昔の茶の間、花火遊び、夜店、金魚売り、海水浴などの光景です。
私の幼い頃は戦前、戦後にまたがっていました。食べるものも少なかった貧しい時代でしたが夏の日々がめっぽう楽しかったのです。エアコンは勿論、電気冷蔵庫も無い時代でしたので暑かったに違いありませんが、不思議に暑くて困ったという記憶がないのです。近所の子供たちとよく花火遊びをしたものです。

1番目の写真は子供たちの花火遊びの写真です。この写真の出典は、http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201508/p1_0008264353.shtml です。
花火遊びで一番魅了されたものが線香花火です。
線香花火は細い小さな花火ですが赤い丸い火の球が出来、そこから柳や松葉のような繊細な光が飛び出すのです。出来の良い線香花火は何時までも松葉の光を出します。そして散り菊の形になり、丸い火の玉がポトリと落ちて終わります。その後のシンとした静かさ。あの笹の葉が擦れるような線香花火の音が86歳になった私の耳に鮮明に残っています。
夏の夜の思い出でもう一つ忘れられない光景があります。それは夜店の並んだ通りの光景です。

2番目の写真は夜店が並んだ風景です。写真の出典は、お祭りや縁日の必須アイテムといえば屋台で決まり、です。
当時は電灯を並べるなどという贅沢が出来ません。ローソクの炎がゆらゆら揺れて幻想的なものでした。その夜店でひときわ明るい店が所々にあります。カーバイトに水を少しずつ供給しアセチレンガスを発生させ、大きな炎を出させるのです。その炎がシューシューと大きな音を立てます。カーバイトから出る特有の臭いを思い出します。夏の夜はこうして楽しい思い出が沢山ありました。
そして朝になり、時が過ぎ、太陽がまぶしく中天にかかるころになると金魚売りがやって来ます。キンギョ、キンギョーとよく透る呼び声が路地に響きます。

3番目の写真は金魚売の写真です。出典は、read:http://www.city.shimabara.lg.jp/mailmagazine/backnumber/no135(270401)/270401.html です。

4番目の写真は金魚売りの売っていた金魚の写真です。
出典は、http://ameblo.jp/rika-131/entry-11485194425.html です。
金魚は秋になるとよく死んでしまったのです。飼い方が悪く可哀そうなことをしたものです。
そして夏と言えば海水浴です。当時は貧しい時代だったので娯楽といえば海水浴しか無かったのです。
海水浴では海で泳いで、砂浜に寝そべって甲羅干しをします。海水で冷え切った体に熱い砂が心地良く感じました。
当時はスイカ割りなどしませんでした。スイカは貴重品です。もったいないのです。私は一度もスイカ割りの経験がありません。
海水浴には多数の人が集まりました。ただ泳いで砂浜で遊ぶだけです。
そして夏休みになると子供たちは徹底的に遊び回ったのです。私には夏休みの宿題など熱心にした記憶がありません。
海水浴に行けない日は、セミ取り、トンボ取り、ドジョウ掬い、小鮒釣り、肝試し、なんでもやりました。
遊びは何でもやりましので思い残すことはありません。そんな遊びの光景を楽しみながら老境の夏の日々が静かに流れて行きます。今日も暑くなりそうです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
今日は日曜日ですので宗教に関する記事を書きます。キリスト教の諸宗派を簡単に説明します。
キリスト教の宗派は、カトリリック、ロシア正教、英国聖公会、プロテスタント諸教会の4つに分類されます。日本に全部あります。

1番目の写真は世界のキリスト教の諸宗派が分離した年号を示す図面です。この図の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/キリスト教諸教派の一覧 です。
さてカトリリック、ロシア正教、英国聖公会、プロテスタント諸教会の4つはどの様にして日本へ入って来たのでしょうか?
カトリックは1549年、ザビエルの訪日以来、スペイン、ポルトガルから伝承されました。
ロシア正教は幕末にニコライによってロシアから伝わりました。
英国聖公会、プロテスタント諸教会は明治維新後に日本へやって来たのです。
特にプロテスタント諸宗派は第二次大戦後のアメリカ軍の占領期間中に勢いを増しました。
このようにキリスト教の諸宗派は日本へ伝えた国々が違う上に、伝承された時代も違うのです。
ですから教義も教会組織も違います。
その違いを以下において簡明に書いてみます。
大きな違いは16世紀のルターの宗教改革で生まれたプロテスタント諸宗派か、あるいは古い宗派かの違いです。
カトリックとロシア正教、英国聖公会は古い宗派です。
古いと言えば特にロシア正教が一番古いのです。
ヨーロッパのカトリックも、それから分離したイギリスの聖公会も宗教改革の起きたドイツやスイスに近かったので宗教改革に大きな影響を受け、随分と革新されたのです。
ロシア正教の古い感じは、東京、神田にあるニコライ堂の礼拝に参加してみると歴然とします。礼拝の儀式は日曜日毎に、3時間も続くのです。神秘的な歌の連続と祈りの繰り返しです。雰囲気が暗いのです。ロシア文学の暗さと通じ合っているようです。
他の日本にある宗派の礼拝やミサは1時間だけです。明るい楽しい雰囲気です。
古い宗派と新しいプロテスタント諸宗派の違いは簡単です。
古い宗派ではマリア様を大切にします。ミサでは必ず毎回、イエス様の体と言って神父が信者一人一人へパンを与えます。聖霊を信じ、体の復活を信じています。
一方、新しいプロテスタント諸宗派では神秘的な儀礼を廃して、福音書に書いてある隣人愛や世界の真の平和を祈り、強調します。近代合理主義的な教義の部分のみを強調します。
極端に言ってしまえば古い宗派は土俗的であり、プロテスタント宗派は近代的な感じがします。
余談ながら、私は古い考えを持ったなんとなく土俗的なカトリックが好きで信者になりました。ヨーロッパの近代文明は何故かキリスト教にそぐわない感じがするのです。
古い宗派とプロテスタント諸派の相違は教会組織と運営方法にもあります。
古い方の代表例のカトリックでは全世界のカトリック教会がローマ法王の直属組織になっています。
神父さんの給料も含めた一切の費用は最終的にはバチカン法王庁が責任を持ちます。
これと対照的なのはプロテスタント諸宗派です。個々の教会の牧師さんの給料も含めて一切の費用は個々の教会に属した信者の寄付金だけで賄います。
日本にあるプロテスタントの教会は一応、「日本キリスト教団」に所属していますが、そこからは、ほとんど財政援助はありません。
日本へ入って來たロシア正教は、やがて日本正教会と名前も運営方法も変わりました。そしてニコライ堂も含めて現在日本にある正教会の聖職者の給料と一切の費用は日本正教会が責任を持っています。正教会ではグルジア正教会やアルメニア正教会のように、国別に正教会組織を作るのです。
新旧のキリスト教では聖職者になるための条件も異なります。
カトリックでは一生独身を通さなければ神父になれません。日本正教会では神父は結婚しても良いのです。プロテスタント諸派では牧師は結婚し、健全な家庭を持っています。
日本にあるカトリック、日本正教会、聖公会、プロテスタント諸宗派はこのように異なるのです。
しかしイエス様の教えを一番大切にするという点ではどれでも同じです。
日本に入ってきた多神教的な大乗仏教の諸宗派の複雑さは分かり難いものです。その上、鎌倉佛教のように日本独自の宗派が加わり一層分かり難くしています。
それに比べればキリスト教のカトリリック、ロシア正教、英国聖公会、プロテスタント諸教会の4つに分類される宗教は分かり易いのです。分かり易いので単純な私はキリスト教を信じています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
今日の挿し絵代わりの写真は「カナの婚礼」というベニスで活躍したベロネーゼの作品です。大きさはなんと66㎡です。日本の平均的な2LDKマンションの大きさです。

今日は広島のカトリック幟町教会のミサにインターンットを通してあずかりました。ミサ の風景の写真をお送り致します。










年間第12主日ミサ
第1朗読 ヨブ記 38章1、8~11
第2朗読 コリントの信徒への手紙二 5章14~17節
福音朗読 マルコによる福音書 4章35~41節
カトリック幟町教会
〒730-0016 広島県広島市中区幟町4−42

私は2009年1月に冬の波荒れる八丈島へ独りで旅をしました。帰りの船が悪天候で欠航したので非常に印象深い旅になりました。芝浦の桟橋から遥か286Kも船に揺られて翌朝辿り着いたのです。着いてみると八丈島は想像以上に大きな島です。
島の東に10万年前の噴火山の三原山があり、西に1万年前に出来た八丈富士があり、その間が平野で農村が広がっています。
そして西の海上には八丈小富士という急峻な火山が突き出ています。この3つの山が近過ぎず、遠過ぎず、丁度良い距離でどっしりと座っています。この配置が雄大な景観を作っています。

1番目の写真は2009年1月に撮った写真です。東の三原山の中腹から西の八丈富士を撮った写真です。
レンタカーを借りて江戸幕府の島役所跡や古い集落や秀吉の家老だった宇喜多秀家のお墓にも行きました。
そして八丈島には音楽家として昭和時代に活躍した有名な團 伊玖磨(だん いくま)の別荘があるのです。
八丈島では團伊玖磨氏を誇りにしています。2002年の没後一周忌に團さんの別荘を公開し、遺品や著作を展示しました。島に昭和6年から続いている地方新聞、「南海タイムス」の2002年5月31日の掲載写真を示します。

2番目の写真は別荘内の書斎や著作の展示の写真です。
團伊玖磨さんが亡くなってからもう23年になります。多くの童謡やオペラを作曲しました。なかでも「夕鶴」は広く上演されたのでご記憶の方も多いと思います。その一方で團伊玖磨さんは随筆の名作を沢山遺しました。
特に私は1964年から2000年まで毎月、彼の「パイプのけむり」と題した随筆を読み続けていたました。「パイプのけむり」はアサヒグラフという写真雑誌に連載されていたのです。四季折々の自然が主な題材です。そしていろいろな植物や旅や食べ物の話も多かったと記憶しています。
そして團伊玖磨は別荘のある八丈島のこともたびたび書いていました。
そのせいで私は八丈島を自然が豊かな夢の楽園として信じるようになってしまったのです。
写真でそんな八丈島の風景を示します。

3番目の写真は八丈島の温室に咲いていたブーゲンビリアです。

4番目の写真は島の集落にある玉石の石垣です。1月でも石垣の上に花が咲き緑の葉が茂っています。八丈島は亜熱帯なのです。

5番目の写真は島の漁港です。周囲は魚類の宝庫です。捕った魚は冷蔵して高速漁船で東京に送るそうです。
團伊玖磨さんの随筆についてもう少し説明させて下さい。
随筆はいろいろ読みました。寺田寅彦、中谷宇吉郎、團伊玖磨などのものは長年愛読してきました。團伊玖磨の「パイプのけむり」は1963年に八丈島の樫立に別荘を作った翌年から2001年に亡くなる直前まで40年近く続いた随筆です。朝日新聞社から27巻の本として出版されていますので、お読みになった方々も多いと思います。
外国で仕事をしながら忙しく書いたものや、葉山の自宅や、八丈島でゆっくり書いたものなど変化があって飽きさせませんでした。世界の珍しい風物や人情、そして八丈島の自然、人々・植物のことなどが軽妙洒脱な筆致で活き活きと描いてあります。話題は多岐ですが、いずれも上品な書き方で、文章の裏に人間愛が流れています。読後の爽快感が忘れられません。
團伊玖磨さんが亡くなって23年になりますが私は今でも團伊玖磨さんの「パイプの煙」を時々思い出します。思い出してほのぼのとした気分になります。若い頃に読んだ本は忘れにくいものです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)