春夏秋冬ライフ

四季の変化に向き合い、目の前に起きる様々な出来事を目の丈で追ってみた。

今年も元気に

2007-10-27 21:36:00 | 仲間との絆

楽しみにしている年に1回の昔の職場の連中が府中に集まった。
皆揃いのサングラスをかけているが、フレーム加工しているだけで、その筋の方の集まりに非ず、一応善良なおじ様方なのである。
まあ、どのように写真が一人歩きするか判らないので、不釣り合いなサングラスをかけて貰った。まあ、昔の紅顔の美少年も、顔の色艶は失わないまでも、上の方のオツムは見事なまでに光輝く、眩しさと豊かな銀髪をゆする姿に自然と変わってしまった。
過分な料理も年相応に胃袋が小回りになったせいか、かっての旺盛な食欲は流石が衰え、目の前の御馳走に目は動くが、箸の方は中々進まなくなった。
定時間までは飲み放題と言うことでもあったが、アルコールもそこそこに鯨飲することもなくなった。
仕方ないことではあるが、世代相応にあちこちに、鬼籍入りの話が耳にするようになった。
そんな中で、多少の衰えもあっても、こうして皆集まって飲んで食える五官の持ち合わせであることに感謝しなければならないのであろう。
宴もたけなわ、嬉しそうに自慢の孫を持った喜びを語るもの。
明日は我が身に降りかかるのか、御身内の介護に重い責務を負うもの。
生涯現役とばかりエンピツと紙にかけ仕事一縷にいきるもの。
惜しみなくボランテイアで身を捧げ、奉仕する鏡のようなもの。
巨万の富を夢見て、金相場にかけるもの。
ボランテイアで公共施設に身を置き、キレルおやじと戦い正義感に燃えるもの。
莫大な投資に回収など気にせず太陽光発電に命をかけるもの。
etc,皆それぞれの道で、時の過ぎたるを忘れ、熱く語りご満足のようでした。
気配りの幹事さん、お土産まで用意され、涙にむせぶ、一時であった。

また一人、戦友を失う

2007-08-23 15:20:00 | 仲間との絆

未だ未だ会社では駆け出しの頃、一緒だった戦友の渡辺嘉孝氏が69の若さで鬼籍入してしまった。
晩年はそれぞれ別の道に歩み、卒業してしまい、年に1度のOB会で顔をあわし、二言三言お互いの元気さを確かめ会う程度で距離が離れてしまったが、インターネットの謹告情報で、訃報が流され再びお会いすることが出来なくなってしまった。
真っ直ぐ歩けないとか、自律神経に変調をきたし、外出も控える時もあったようであるが、不治の病と言われる、急性の白血病で、急な逝去であった。
写真は1962年、国土全体が建設ラッシュで沸き、その中の一つ、中国地方で初めての製鉄所の高炉が建てられたが、その建設工事に一緒に汗を流した思い出の地である。
「ちょっと行ってきてくれ」の一言で建設に沸き返る呉の製鉄所に赴き、日々息つく暇もない突貫工事に明け暮れた毎日であった。せいぜい2、3カ月と思ったが東京からコートを着て出かけ、そのまま一夏を越し、再びコートを着る時期に帰ると言う、長い赴任生活であった。
巨大なクレーンにつり上げられる構造物、工事用車両が砂ぼこり立て走り、時には溶接の火の粉を浴びながらの、まさに3Kの男臭い、最前線であった。
取り分け我々の担当の制御装置の稼働は、何時も工程の最終段階にあり、工事の遅れのしわ寄せが来るため、セレモニーが行われる前の徹夜は当たり前のようにあった。
建設過程で、氏も帰社し、一人取り残され孤立無縁の中で会社の代表として、責任の重さと、現地のサービス拠点の社員や工事業者との連携にも神経をする減らし、逃げ出したくなることもしばしばであった。
場所柄、工事の円滑な進行をするために「やあさん」が、現場事務所に毎月時訪れ、正々堂々と寺銭まがいの請求に来る場所でもあった。
忙中暇あり、建設隙間の休日に氏はご自慢のカメラを持ち、音戸の大橋、呉の自衛隊基地など一緒に周り、時には足を延ばし広島迄出て、束の間の休日を楽しんだ。
余り刺激のない旅館と現場の往復に氏の謹厳な生活振りは長逗留したあわじ屋の女将の心打ちお見合いの話も出るぐらいであった。(成就しなかったが)
無我夢中で過ごした駆け出し小僧時代の艱難辛苦がプロとしての厳しさを芽生させるともに、一緒に過ごした氏との関わりが鮮明に思い出される場所でもあった。ご冥福を祈る。

梅見酒

2007-03-16 21:14:00 | 仲間との絆

早足で春を迎えると思ったら、急ブレーキがかかって、日本海では大雪、カレンダーが逆戻りして、ここの所、寒さがぶり返してきた。それでも平均気温と言うが、今までの温かさに体が順応し、寒さが身にしみた。
何時もの仲間から、Fさんが組織の呪縛を解かれ、我々と同じ、人生の第2コーナーを迎える。お祝いを兼ねこの機会に今や真っ盛りの梅の木の下で酒盛りをしようということであった。
しかし、その日に限って前夜から皮肉にも冷たい雨が降る、生憎の天気の朝を迎えた。但し、多少の雨も飲み助には一端決めた宴には揺るぎなく、そのまま決行し、高尾駅に集結した。
家に出る頃は激しい雨も上がり、徐々に日も差すなか甲州街道筋を西下し、川原宿へ向かう。街道の様子が一変し、自然に包まれるなか、昔の街道筋を思い起こされる様な風情に包まれる。
小仏の関所を通り、その関所跡に甲州路に行き交う旅人の気分に完全に置き換わる。山道を歩き駅から1時間弱、山を見上げると中央道と圏央道の接点となる無粋なICの姿が見えてくる。その付近の梅林の公園に辿り着く。
既に幾つかの集団が車座になって、宴もたけなわで宴会が始まっている。
我々も日溜まりの一角に宴席を作り、日本酒で酒盛りが始まる。
組織から外れ、新たな世界へ、どう軟着陸していくか?晴耕雨読の世界に野菜作りと収穫の喜び、大きく変わりつつある環境にどう生きていくか、話しが弾むと共にアルコールのピッチが上がり、5人の酒豪でたちまち1800mlの日本酒はは一気に空けてしまう。
宴もたけなわであったが、宴席を惜しみつつ撤収、フラフラと心地良い酔いに浮かれながら、帰路についた。
未だ五体満足で飲めることに感謝しつつ、自然の中での晴れやか舞台に包まれ幸せな1日であった。

意気軒昂なOB会

2007-02-19 21:36:00 | 仲間との絆

先日、丸の内某ビルで会社のOB会が開かれた。
意気軒昂なじいさま軍団が100数十名集まり、熱気で盛り上がった。
何時もの通り、ポケットにデジカメを忍ばせたが、立食パーテイに飲む、食うで忙しく両手は塞がりついついシャッターを落すチャンスを逃してしまった。
急遽、イラストで描いたが、現役組はまだしもOB組は何とも不気味な集団になってしまった。(笑い)
かっての美青年もゴマ塩、テカテカ頭、僅かに残す黒髪に、しわよる顔などなど風化しているが、特長ある姿から名札で識別出来る。
開場30分前にはエレベータホールの狭い廊下は既にじいさまで満杯、この日の為に気合が入っているのか、開かずの開場前に行き場のない群れ集が、吹き溜まりになり、只でさえ暑い陽気に熱気でムンムンする。
年老いても、数重なると、異常な熱エネルギーになってしまうのだ。
会場オープンと共に、はじき出されそれぞれの陣取り合戦(場所取り)が始まる。
会社組織が元々一つであったが、時代と共に離合集散を繰り返し、分社化されたが、それぞれ出身母体の枠で育ったため、それぞれ出身母体単位で群れが出来上がる。
型通り乾杯の前に代表の挨拶。我々の時代は何時も苦しかった時代を背負ってきた、負い目の世代であったが、会社から離れていても、そこそこの活況にある社況報告にホット安堵する。
会場に集まるじいさまの前で、皆さんの色艶頗る良しの外交辞令もあったが、病に倒れ、出たくても出られない人や、毎年更新される名簿リストの巻末に最近1年間での物故者が10名近く及んでいる事も事実である。
電話口では「宜しくどうぞ~」何て、軽口を叩くなど何かと話題の多い名物男のAさんも、毎年この集まりには参加されたが昨年、鬼籍入りしてしまった。
近況動静を確かめながら、話題に事欠かず、あっと言う間にお開き、元気さを糧に酒を交わせ喜びを甘受しながら、1年に1度の儀式は終わった。
電車に揺られて1時間、一緒に集まった近隣者と会場で出会い、このままのお別れも寂しいとローカルでまた呑み直してしまった。

残されたプロジェクトX

2006-12-14 23:05:00 | 仲間との絆

友人の余りにも早い鬼籍入りに当プログで報告したら、物凄い反響なのか深夜未明から訪問カウンターが止まることを知らず、記録的なヒットをした。
余りにも凄いカウントアップにプログのカウンターが壊れているのではと思ってしまうほどの反響の多さであった。
これも故人の幅広い人脈と交遊関係から生れるネットーワークの広さを改めて感心してしまった。
その間2、3の方からもコメント頂き、その人を思い出す事が最大の供養であることなど言われ、微力ながらも故人のメーッセージが伝えられ、感謝頂いたことにホット安堵する。
もう、故人には何もして上げられないが、今の環境の中でせめて今出来るのはこんな事ぐらいなのであるが、余りにも大きい反響に身が引き締まる思いである。
限られた人生で、苦労しながらも一番輝いている時期に何を残したか、そして語り継がれる物語がある筈である。
数年前、NHKのプロジェクトXの魅せられた感動を参考に、事業部のOBを主体にその滲み出る様な汗とその結果生れた感動を記録し、製本化した。
故人も担当した火力発電所の制御装置の出筆の傍ら編集担当の一員として、多くの出筆者の取りまとめを尽力され、後世に残される立派な記録を残された。
語り継がりは人間の記憶と時間経過により、希薄してしまうが、こうして製本化されるとその時の生きざまが、そのまま静態保存される宝物である。
改めて、担当された部分を 繙くと西独シーメンス社へ行き、ヨーローパ技術を学び、日本の大電力会社との文化の狭間に立ちに導入する苦労が滲み出ている。技術屋として日本人としてプライドを背負い立ち向かわれた労苦が伝わってくる。
ヘビースモカーである事は既に書いたが、健康を害して、止めたくても止められぬのは、仕事でのストレスも藁をも掴む思いで縋ったのでは無かろうか?
廻りから叩かれても追い詰められても、決して慌てず、煙をふかし、淡々と時をおくる姿が思い出される

ようこそ松崎家の世界へ

http://mzk.on.coocan.jp/